2011年8月18日木曜日

1970(昭和45)福岡大ワンダーフォーゲル羆襲撃事件(3人食害+2人助かる)


16000文字数
1970(昭和45)福岡大ワンダーフォーゲル羆襲撃事件(3人食害+2人助かる)
北海道新聞(S45/7/28朝刊)記事内容は最下部に記載。

※福岡大学ワンダーフォーゲル部と表記されることが多いが、
事件当時は「ワンダーフォーゲル同好会」だった。

正式名=福岡大学ワンゲル同好会羆襲撃事件
正式名=福岡大学ワンダーフォーゲル同好会羆襲撃事件
顧問=福岡大学ワンダーフォーゲル同好会顧問=西島顧問


【事件概要】

1970年7月、日高山脈を縦走せんとしていた、
福岡大学ワンゲル同好会5名が執拗にヒグマに襲われ、3人が次々と命を落としていった。



加害羆=ヒグマ(雌)4歳=大きさ2m程度(7/29ハンタ一斉射撃射殺)


【縦走目指す若き福岡大パーティー】

■1970年7月14日午後登山開始(入山)~7月日
福岡大学ワンダーフォーゲル部員の5人パーティーが、
日高山脈の芽室岳(1754m)からペテガリ岳(1736m)までの日高山系縦走すべく入山した。


■福岡大パーティー■
①竹末一敏(経済学部3年20歳リーダー) ⇒死亡
②滝俊二 (法学部3年22歳サブリーダー) ⇒生還(2011現在63歳)
③興梠盛男(工学部2年19歳) ⇒死亡(鳥取大テント、盛男メモ残す)
④西井義春(法学部1年19歳) ⇒生還(2011現在60歳)
⑤河原吉孝(経済学部1年18歳) ⇒死亡


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1970年(昭和45)
加害羆遭遇開始
■7/25夕方=最初の遭遇テント襲撃=被害=食料のみ
■7/25午後9時頃=2度目の加害羆襲撃=被害=テントにこぶし大の穴あけるのみで去る
■7/26午前4時半頃=3度目の加害羆襲撃=被害=テント壊し&食料
■7/26午後4時半頃=4度目の加害羆襲撃=被害0=テントうろつき居座る


4度目の羆襲撃で(この時点では5名はカラダ無傷)、
生命危険にやっと気づき5名全員下山開始=しかし、すでに遅し。

羆の執拗な追跡に、、、、羆は諦めない、
①羆の獲物追跡
②人間の逃げる5名


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■7/27午後6時=中札内駐在所に2名(滝&西井)は工事現場車で到着段階で、
●滝俊二(22サブリーダー)
●西井義春(19)
は確実に生命安全となった。


7/27午後6時時点で、
●河原吉孝(18)=羆最初の人間攻撃=羆格闘の末、足を引きずり、単独下山、不明
●興梠盛男(19)=散逃げ、はぐれ、不明
●竹末一敏(20リーダー)=羆に追跡され、不明



【 7/28 】=不明3名救助開始 ⇒3名遺体発見
【 7/29 】=遺体2名発見
【 7/30 】=遺体1名発見
【 7/29 】=羆射殺(ハンタ一斉射撃)


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5人は、
7月12日午前9時に、九州・博多から列車「つくし1号」で出発し、
7/14日新得に到着。「 新得署御影派出所などに登山計画書 」を提出し、
7/14PM;その日の午後から登山を始めていた。


■1970/7/14PM登山開始(入山)


■7月25日■
中間地点のカムイエクウチカウシ山(1979m)にさしかかっていた5人だったが、
大幅に予定が遅れていたため、翌日(7/26)の登頂後に下山することにした。

●気持=7/26目的の登頂をはたし、その後すぐ下山、福岡に帰る心づもり●


●カムイエクウチカウシとは、「クマが転げ落ちるほど険しい峰」という意味である。



■『 最初の加害羆に襲撃』■7/25夕方(1回目襲撃)被害食料⇒7/25PM9(2回目襲撃)被害テント
この日(7/25)の夕方、
パーティーは峰直下の「九ノ沢カール」という箇所でテントを張ったが、
ここでヒグマからの最初の襲撃を受けた。

●カール=氷河の浸食によって、山頂直下の斜面が、すくい取ったように円形に削られた地形。
日本では飛騨・赤石・日高山脈などにみられる。圏谷。


発見したのは竹末一敏(20リーダー)で、
テントから7mほど離れたところにヒグマはおり、
当初パーティーは『 誰もヒグマを怖がっておらず、しばらく興味本位で見ていた 』が、
やがてヒグマの方から近づいてきて、テントの外にあった登山用のザックをあさり、
中の食料を食べ始めた。発見してから30分ほど経った頃である。


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テントの外に出していたキスリング(登山用リュックサック)をあさり出した。
羆はキスリングの食糧をむさぼり食っていたが、
メンバーは隙を見てキスリングを取り返し、テントに入れた。
(羆は食料を奪われたと、羆テリトリの食料を奪い返す執着へ)


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●5メンバーは、
ラジオの音量を上げ、
火を点し、
食器を打ち鳴らしてなんとかヒグマを追い払うことに成功した。



しかし
7/25午後9時頃(2度目羆襲撃)、
疲れて眠っていたパーティーは『 ヒグマの鼻息 』で目を覚ますこととなる。
ヒグマはテントにこぶし大の穴を開けた後、去って行った。
これが2度目の襲撃で、メンバーは2人ずつ2時間交替で見張りを立てることにした。




【執拗に何回も襲撃】
7月26日午前3時、起床。快晴。結局のところ、
メンバーは恐怖のため誰一人眠ることができなかった。


そして
7/26午前4時半頃、3度目のヒグマの襲撃を受ける。
ヒグマは執拗にテントを引っ張り続けるため、パーティーはテントを捨て、外に退避した。
ヒグマはテントを引き倒し、あいからず登山用のザックをあさっていた。


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7/26日。まんじりともせずに午前3:00に起床。
パッキング(荷造り)をしていると午前4:30頃に再び羆(3度目)が現れる。
しばらくテント上方をうろうろしていたが、やがてテントに爪をかけ中に侵入しようとしてきた。
メンバーは羆を入れないように、テントの幕を5分程引っ張り合っていたが、
もう駄目だと判断して、
反対側の入口から脱出して「 稜線 」まで一気に駆け上がった。
振り返ると羆はテントからキスリングを取り出して、
離れた場所へ持っていく行為を数度繰り返していた


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『 7/26午前4時半頃の3度羆襲撃でも、登頂諦めずハンタ救助判断 』
5人=3テント+2伝達=グループ分断

■竹末一敏(20リーダー)の命令により、
7/26滝俊二(22サブリーダー)と河原吉孝(18)が、
営林署に連絡してハンターによる救助の要請をしに山を下り始めた。


7/26午前7時頃;2人(滝&河原)は途中の八ノ沢で別の大学生パーティー「北海岳友会」
(北海道学園大学の学生10人ほど)と出会う(7/27AM7:00頃)。


●北海岳友会もまたヒグマ(おそらく同じ個体)に襲われていたため下山するとのことで、
2人は伝達(ハンター救助)を頼み、
また食料や地図、ガソリンなどを譲り受け、再び残る3人を助けようと戻って行った。




①福岡大竹末一敏組は、登頂目的意思で、3度羆襲撃でも全員5人下山せず=3テント+2伝達
②北海岳友会(10名程度)は全員下山=いのち被害0
北海岳友会羆襲撃は最下部で補足説明している=ただし被害は0、なし。



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一方、
福岡テント組3名は

7/26午前6:10頃になると羆が姿を消したので、
残ったテント3人は幕営地に戻り、
キスリングを3つ取り返して「 稜線 」まで上げた。
(結果としてこのキスリングを取り返した行為が、
自分(羆)が獲得した獲物に強い執着心を示す羆の執拗な追跡を受ける原因となる)



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7/26
滝俊二(22サブリーダ)と河原吉孝(18)は戻る途中で、
2組A&Bの大学生パーティーと出会ったのち、
A=鳥取大パーティー下山、B=中央鉄道学園パーティー下山


九の沢を登ってカムイエクウチカウシ山近くの稜線に出ると、
下山中の鳥取大ワンゲル部や中央鉄道学園パーティーが通り過ぎていった。
そして、

7/26午後1時頃に、
伝達2名(滝&河原)は、福岡大テント3人と合流(計5名)。
福岡大テントを修繕し、設営して、5人は夕食をとった。



7/26午後4時半頃=4度目の加害羆襲撃
夕食を終え、寝にかかろうとしていた午後4時半頃、例のヒグマがまた現れ、
テントのそばを離れず、それから約1時間も居座り続けた。
福岡パーティーはその場に居続けることは危険だと判断して、

八ノ沢で設営していた鳥取大パーティー(滝&河原が先ほど出会ったパーティー)
のテントに入れてもらおうと、話しあった。
5人は、その鳥取大幕営地テントへ向かう!!、、、


山を下りようにも辺りはすでに真っ暗だった。
それでも5人は無我夢中で歩き続けたに違いない。



●4度目羆襲撃でも、人身被害=0 だが、
5人会議での登頂を諦め下山決定、ではなく。
羆が、5人を下山させた。




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■7/26午後6時半■、
西井義春(19)がふと後ろを振り返ると、そこまでヒグマが来ていた。
5人全員一目散に下り始める。


滝俊二(22サブリーダ)は横にそれてハイマツ(地を這うように生える高山帯のマツ)に、身を隠すと、羆は脇を通り過ぎ、河原に襲い掛かるのが見えた。


ヒグマは河原吉孝(18)を追い、
他のメンバー4人は「ギャー」という河原の叫び声を聞いた。


「チクショウ!」暗闇のなか、河原吉孝(18)の声がした。

●河原吉孝(18)は背後からヒグマに襲われており、
格闘の末に鳥取大のテントの方へ足をひきずりながら、カールの方へ下りていくのを,
竹末一敏(20リーダー)が目撃していた。

■『 それが河原の最後の姿となる。』■




●竹末一敏(20リーダー)、
●滝俊二(22サブリーダ)、
●西井義春(19)の3人は

竹末が声をからして鳥取大パーティーに助けを求めていると、
彼ら(鳥取大)はホイッスルを吹き、焚き火をしてくれた。

その後鳥取大は、テントや荷物を残して、助けを求めに麓へ下りていった。
竹末は滝の隠れた所にやってきて全員集合をかける。
河原は襲われ行方が知れず、西井はまもなくやってきたが興梠の姿は見えない。


やがて鳥取大パーティーと別れ、
3人(竹末,滝,西井)は岩場に登り夜を明かした。


●興梠盛男(19)は逃げる途中に他のメンバーから、単独はぐれ、
別の場所に一人で身を隠していた。


3人(竹末,滝,西井)は、河原吉孝(18)の無事を祈りつつ、
はぐれた興梠盛男(19)の名前を呼び続けたが、
1回応答しただけで姿を見せなかった。

■『むろん、これが興梠盛男(19)の存在の最後』

はぐれた興梠は、しばらくハイマツに身を隠していた。
竹末の呼ぶ声は聞こえたが内容が分からず合流出来なかった。


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■7/27早朝■

7月27日早朝、
3人(竹末,滝,西井)は
深い霧のため視界は5mほどと、
はぐれた2人(羆襲撃河原+単独はぐれ興梠盛男)を探したり、
ヒグマの接近を察知するには絶望的な状況となっていた。


3人(竹末,滝,西井)は、
7/27午前8時頃まで河原吉孝(18)と興梠盛男(19)を探したが、
応答はなく、いったん下山することにした。


下りる途中、
一番前を歩いていた竹末一敏(20リーダー)は下方2~3mにヒグマがいるのを発見。

「ガウア」と叫ぶと3人に襲いかかってきた。
竹末が熊を押しのけカールの方へ逃げ出すと、
ヒグマは逃げる竹末一敏を追っていった、

■『竹末はこれが最後の姿となる。』■


この隙に、
■滝&西井の2名は、
なんとか五ノ沢の砂防ダム工事現場までたどりつき、自動車の手配を頼む。
これが7/27午後1時頃のこと。

それからさらに麓の中札内駐在所に到着したが、7/27午後6時になっていた。


7/27午後6時=中札内駐在所に2名(滝&西井)到着段階で、
●滝俊二(22サブリーダー)
●西井義春(19)
は確実に生命安全となった。

7/27午後6時時点で、
●河原吉孝(18)=羆最初の人間攻撃=羆格闘の末、足を引きずり、単独下山、不明
●興梠盛男(19)=散逃げ、単独はぐれ、不明
●竹末一敏(20リーダー)=羆に追跡され、不明


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■7/28■
ここから、
不明の3名の救助開始!!
●河原吉孝(18)=羆最初の人間攻撃=羆格闘の末、足を引きずり、単独下山、不明
●興梠盛男(19)=散逃げ、単独はぐれ、不明
●竹末一敏(20リーダー)=羆に追跡され、不明



■7月28日■、
遭難したメンバー達(3名)の救助隊が編成された。
だがハンターたちが発見したのは3人の変わり果てた遺体だった。



7/29日に2名が、
7/30日には残りの1名が遺体で発見された。
7/29=羆射殺(ハンタ一斉射撃)



着衣は剥ぎ取られ、
裸にベルトだけが巻かれている状態だった。

●顔半分がなかったり(上2/3がない)、
●腹部から腸が引きずり出される
●鼻や耳や性器といった突起物が引きちぎられていたりと、

目を背けたくなる光景だった。




検死結果によると、
3人の死因は「頚椎骨折および頚動脈折損による失血死」であった。
致命的な傷は首、顔、股間の3点に限られる。

3人はいずれも逃げている最中に後ろから臀部を攻撃され、
うつぶせに倒れたところを臀部や肛門部を噛み切られたものと見られた



悪天候により3人の遺体を下ろすことが出来なかったため、
八ノ沢で荼毘(だび)に付され、
遺族に遺骨が手渡されることとなった。

●遺体は天候が悪く損傷も激しいため下ろすことを諦め
現地で荼毘に付されることに。
冷たい雨が降り続く中、遺体を焼く煙が静かに立ち上っていた

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興梠の遺体のそばには彼の遺したメモがあった。
■7月26日に仲間と、単独はぐれた興梠盛男(19)は、鳥取テントに一旦戻ったらしく、
鳥取大テント跡には彼(盛男19)の残したメモがあった。
文字からは彼(盛男19)がただひとり恐怖と闘い、
震えながらこれを書いたことがうかがえた。



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■単独はぐれ興梠盛男(19)は、↓

鳥取大のテント方面を見ると焚き火が見えたので、
そちらに逃げようと進むと20m先に羆の姿があった。
羆がこちらに向かってくるので、崖に登り岩を投げる。
羆がひるんだところで一目散に八の沢カールへと走り、鳥取大のテントへ駆け込んだ。

しかし、すでに鳥取大のパーティーは下山した後だったのでテントはもぬけの殻だった。

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↓【残された19盛男メモ】↓


26日午後5時。夕食後クマ現れるテント脱出。
鳥取大WVのところに救助を求めにカムイエク下のカールに下る。


7/26午後5時半
17:30 我々にクマが追いつく。
河原がやられたようである。
オレの5m横、位置は草場のガケを下ってハイ松地帯に入ってから20m下の地点。
それからオレもやられると思って、ハイ松を横にまく。するとガケの上であったので、ガケの
中間点で息をひそめていると、
竹末さんが声をからして鳥取大WVに助けを求めた。
オレの位置からは下の様子は、全然わからなかった。
クマの音が聞こえただけである。

竹末さんがなにか大声で言ってた、全然聞きとれず、
クマの位置がわからず。


ガケの下の方に2、3カ所にたき火が見える。テントにかくまってもらおうと、ガケを5分ぐらい下って、下を見ると20m先にクマがいた。
オレを見つけると、かけ上って来たので一目散に逃げる。
前、後ろへ横へと転び、それでも振りかえらず前のテントめがけて、やっと中へかけこむ。


しかし、誰もいなかった。しまった、と思ったが、もう手遅れである。
シュラフがあったので、すぐ一つを取り出し、中に入り込み大きな息を調整する。しばらくすると、なぜか安心感がでてきて落着いた。
それでもkazeの音や、草の音が、気になって眠れない。
鳥取大WVが、無事報告して、救助隊が来ることを祈って寝る。



7/27日 4:00 目が覚める。
外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時までテントの中にいることにする。
テントの中を見まわすと、キャンパンがあったので中を見ると、御飯があった。
これで少しホッとする。上の方は、ガスがかかっているので、少し気持悪い。
もう5:20である。
また、クマが出そうな予感がするので、またシュラフにもぐり込む。
ああ、早く博多に帰りたい


7/27日7:00 沢を下ることにする。
にぎりめしをつくって、テントの中にあったシャツやクツ下をかりる。
テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。
とても出られないので、このままテントの中にいる。


7/27日8:00頃まで・・・・(判読不能)しかし・・・・・(判別不能)を、通らない。
他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。いつ、助けに来るのか。すべて、不安でおそろしい・・。またガスが濃くなって・・・・



↑【残された19盛男メモ】↑


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そしてテントの中に一人でいるところを、
興梠盛男(19)はヒグマに襲われることになった。


7/29日=福岡大ワンゲル部5人を襲ったヒグマはハンター10人によって射殺された。
胃袋が調べられたが、
そのヒグマは人間を食べていなかった。
純粋に排除が目的であったと思われる。

そしてこのヒグマは4歳にして交尾をした形跡はなかった。
普通、2歳ほどで子どもを産むものらしい。
このヒグマを仕留めたハンターたちは「山のしきたり」により、この肉を食した。



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北海道開拓が始まる頃、ヒグマの住む森に予備知識を持たない農民が送り込まれ、
各地で事件が続発する。明治から昭和のはじめまで、実に100人を超える死亡事故が発生した
同時にヒグマも開拓によって平野部から山岳地帯に追いやられるようになった。


1966年、道内で「春グマ駆除」が開始される。
これはヒグマを発見しやすい春のうちに、被害が出る前に個体数を減らしておくものである。
この駆除では70年代前半までに年間約500~600のヒグマが捕獲された。
やがて道内では絶滅が危惧される地域も出始めたため、
捕獲数は70年代後半から減少し、
春グマ駆除は1990年にいったん中止されることとなった。


よく里に近づくクマは、観光客による餌やりや道ばたに捨てられたゴミ類(ジュースの残りなど)に端を発していると言われる。甘くてうまい味を覚えてしまうのである。



確かではないが、
福岡大ワンゲル部を襲ったヒグマも何度もザックをあさっていたことから、
以前に別のパーティーの持っていた食料を口にしていた可能性が高い。

それにヒグマは執着心が強い。
最初にテントの外に置いてあったザックを漁った時点で、
それはヒグマのものになったのだが、
メンバーがを取り戻したので襲ってきたものと考えられる。


泳ぎが達者で、木登りがうまく、のそっとした巨体ながら走るのも速い・・・。


我々が熊を恐ろしく思うように、熊からしても人間が怖い。大抵のヒグマは人間に気づくと、ヒグマの方から逃げるか、ゆっくり離れていく。突進してくることがあっても、威嚇である場合が多い。その時、こちらが背を向けて走り出したり、騒いだりすると攻撃を誘発することになる。

また魚や動物の死骸などヒグマが「占有」している物が傍にある時は、
それを奪おうとする意志を見せないためにも、
こちらがゆっくりとその場を離れることが好ましい。子連れの母グマと出会った時も同様である。


唐辛子の成分が使われるクマスプレーなどで抵抗するのが良い。
このスプレーは90%以上の確率で熊の行動を止めると報告されている。



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実は福岡大WV部事件によく似たケースが起こっている。

1962年7月25日のことだった。札幌商業山岳部員10名が芦別岳(1772m)の登山中、
テントの設営を終えて、一息いれたところにヒグマが出現し、
雪渓に冷やしてあった缶をかじり始めた。


■この時も福岡大の5人のように危機感を持っておらず、■
珍しいその姿に写真撮影したりしている。

ヒグマはやがてキャンプの周りをうろうろ回り始めたが、

■『この瞬間から札幌商業のメンバーの行動は迅速だった。』■
「逃げろ」という大声と同時にメンバーは一斉に走り始めた。

命の危険があるので、荷物などはそのままだった。

しかしただ1人、2年生の津野尾君だけは「 靴 」を脱いでしまっており、逃げるのが遅れ、
その後、翌朝まで13時間にわたってヒグマに追い掛けられた。
津野尾君の手記によると、その距離5mに満たないほど追い立てられた末に、
彼はもうあきらめて、その場に座り込んだ。

そのうちにウトウト眠ってしまい、
翌朝午前2時頃に目を覚ますと、ヒグマはまだ眠っていた。
そしてその間にソロリと逃げ切ったのである。


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若い3人の命が失われた福岡大ワンゲル部事件。

よく事前調査をし、ヒグマの性質を知り、

最初の襲撃時点で登頂にこだわらず山を下りたり、
持ち物を手放すなどの対策をとれば被害はここまで大きくならなかったのかもしれない。


人間常に最善の行動をとれるものではないし、
彼らの恐怖と疲労も考慮しなければならない。

「事前調査の甘さがあるとするならば、
現地のことが書かれたガイドブックに明確な指摘がなかったことこそ問題にされなければならない」と遭難報告書にも書かれてあった。


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↓北海岳友会羆襲撃事件↓

一方、ハンタ救助を求めにいった滝と河原は、
7/26午前7:15、八の沢出会い付近で北海岳友会(北海道学園大学)パーティーと遭遇する。

~実は彼ら北海岳友会も7/24日に、福岡大パーティーを襲ったのと同じ羆に、
カムイエクウチカウシ山北方・春別岳(1855m)で襲撃を受けていた。

北海岳友会パーティーは、稜線を歩いていると羆に追跡された。
岩に逃げ登ってしばらく睨み合いを続けていたが、

突然、羆がよだれをたらし毛を逆立てながら襲いかかってきたので、
あわてて岩から降りて逃げ出した。

北海岳友会メンバーの1人はハイマツに足を取られ危機一髪の状態になった、
がなんとか振り切り、数名はザックを棄てることで逃げ出せた。

幸いにも羆はザックを漁っていて追いかけてこなかったので、
別行動していた班と合流した上、九の沢カールでビバーク(不時露営)をした。

翌7/25日に現場へ戻ると、荒らされた荷物が、
■『 よだれまみれで整然と岩に並べられていた。 』■

北海岳友会は、
カムイエクウチカウシ山を登頂して八の沢を下り、八の沢出会いで幕営。
明けて26日の早朝、出発準備をしているところに、
福岡大の滝(サブリーダ)と河原が下りてきたのだ~


2人は北海岳友会から地図・コンロ・食糧等を分けてもらい、
ハンターの要請を託して、
テント3名へ向かい、再び稜線へとあがっていく



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結果的にいえば確かに最初の襲撃(1回目および2回目)を受けた時点で下山しておれば、
今回の悲劇は防げたであろう。その時、なぜ下山しなかったのか、

生存者<滝俊二(22サブリーダー)&西井義春(19)>の証言によっても、
誰も下山しようとは考えなかったという。

結果的に確かに熊に対する判断が甘かったといえるし、
また万全を期するという立場からすれば、この時点で下山することは可能であったし、
結果的にはその方が良かった。


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1970年から、もう41年もたった・・・・
かなり、不思議な疑問は・・・

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■7/26午前4時半頃の3度目の羆襲撃で、

5名=3名テント+2名伝達=組の分断して、
竹末リーダーは、
滝俊二(22サブリーダー)と河原吉孝(18)=2名伝達組(メッセンジャー)を
を送った。

そして、この2名伝達組は、山を下へ降りていく、
そこで、途中に、

①北海岳友会下山
②鳥取大パーティー下山、
③中央鉄道学園パーテイー下山

に出会う、そして、2組はハンターとかをお願いして、
再び、山の上にいる福岡大3名テント組に会いに(合流)に登る。

そして、

■7/26午後1時頃に他の福岡大テント3人と合流(計5名)する。
福岡大テントを修繕し、設営して、夕食をとった。


■7/26午後4時半頃=4度目の加害羆襲撃
夕食を終え、寝にかかろうとしていた午後4時半頃、例のヒグマがまた現れ、
テントのそばを離れず、それから約1時間も居座り続けた

これで、やっと、
登頂を諦め、下山して羆から逃げることで、


■7/26午後5時半すぎに、5名は故郷博多へ帰るつもりで下山した。
●午後4時半+1時間=午後5時半●


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①■7/26午後4時半頃=4度目の加害羆襲撃
夕食を終え、寝にかかろうとしていた午後4時半頃、例のヒグマがまた現れ、

と「夕食し、寝ると言う動作から」、登頂を諦めてない。


②さて、ここで、かなり不思議で理解できないのは、
■7/26午後1時頃に他の福岡大テント3人と合流(計5名)する。
で、
竹末リーダとか、全員が『 北海岳友会 』が同じ羆で襲撃され、
いのち危険で下山している。と2名伝達組(滝&河原)から、かなり詳しく聞いているはず。

さらに、
この2組伝達者(滝&河原)は、3名テント組に合流するため、山へ登る間に、
登りながら、2人で、話しながら登り、「 羆があぶない 」から、
皆で話しあって、ぼくらも下山しょう!!!と言う会話した、、のでないか???

さらに、鳥取大・中央鉄道学園も下山しているのに、、、



③■7/26午後1時頃に他の福岡大テント3人と合流(計5名)する。

この時点(7/26午後1時頃)で、下山していれば、死者=0 だったろう。

北海岳友会への羆襲撃で、5名がその事実話しを聞いて、恐怖心よりも、
登頂目的が、それほど、超えるほど、大きかった。のが???わからない。


④博多出発の列車の中で、
登頂を絶対に果たす!!!とか、
■《 5人の血の誓い 》■が、あったのだろうか???


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羆&福岡大5人との食料の奪い合いで、・・・

■7/25夕方(1回目襲撃)=被害食料のみ
羆はキスリング(登山用リュックサック)の食糧をむさぼり食っていたが、
メンバーは隙を見てキスリングを取り返し、テントに入れた。


■7/26午前4時半頃、3度目のヒグマの襲撃を受ける=被害=テント壊し&食料
ヒグマは執拗にテントを引っ張り続け、
羆はテントからキスリングを取り出して、
離れた場所へ持っていく行為を数度繰り返した
7/26午前6:10頃になると羆が姿を消したので
テント組3人(竹末,興梠,西井)は幕営地に戻り、
キスリングを3つ取り返して「 稜線 」まで上げた。

北海岳友会羆襲撃の北海岳友会メンバーの話からして、
7/26午前6:10頃の奪還食料は、■『羆のよだれ』■、ですごかったはず。
それでも、食料の奪還したかった。

これからにしても、福岡大5人は、【 登頂目的が並大抵な強さではない 】
必ず絶対、登頂するゾ~~!! と言う、スゴサがあった。

これは、一人間の達成目的では、羆・ライオン・トラ ではムリ。
組織の目的とすれば、
例えば、「同好会」 から「部」に昇格したいと言う目的意欲、
この北海道の山での登頂成功で、会員を増やし、部にしたい。

それが、5人の決意証明で、博多出発前に話し合われていれば、
羆・ライオン・トラ に対抗する行動に出れるかも???しれない。

このあたりの5人集団空気圧は、生き証人2人が知っている。


このあたり、どうも不明であるが、
生き証人=2名=
●滝俊二 (法学部3年22歳サブリーダー) ⇒生還(2011現在63歳)
●西井義春(法学部1年19歳) ⇒生還(2011現在60歳)

が一番知っているが、きっと何も語らないだろう。
むろん、遺族だけには、説明をしただろう。
でなければ、遺族は納得できないから~《なぜ?》への納得。


例えば、20分~30分 とかに急激な危険圧力があれば、
人間はとんでもない行動に出て、意味不明ワカラン。と成る。が
福岡大5人には、十分すぎる程に、たっぷりの、対策会議時間があった
そして、2mの羆を、
テント1枚を隔てて格闘し、眼の当たりに見て、その恐怖心も現実に受け・・・・


登頂を第一選択し、羆避難を第二選択にした。十分5人で再確認したはず。
そこに、論理的,演算的,5人世界 があった。と思う。
恐怖に、打ち勝つだけの、原動力があった。


この雌羆はここで生活しているから、土地勘はすべてある。
そして山の頂点にある存在だから何も怖い生物はいない。
暗闇でも眼が見えない闇でも、土地勘があるから歩ける。


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いずれに、せよ、
■教訓は、物に執拗に執着せず、あっさり諦める
■教訓は、目的成果に執拗に執着せず、あっさり諦める

きっと、この2点だろう。


そして、この1970年あたりは、
どこも、かしこもワンダーフォーゲルの活動ブームで、
WV同好会設立で、大学では活発であった。



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↓北海道新聞1970(昭和45)7月28日朝刊の記事内容↓



「クマに襲われ三人不明 日高山系縦走の福岡大パーティー テント裂き三日間追う」

【帯広】日高山系を縦走中の福岡大学ワンダーフォーゲル同好会のパーティー五人がクマに襲われた。二十五日午後から二十七日朝まで、逃げる学生たちに執拗につきまとい、次々と鋭いツメを振るってうち3人が行方不明となっているが、身のたけ2メートルという凶暴な大グマだけに、その安否が気遣われている。

27日午後4時ころ、十勝管内中札内村の帯広署中札内駐在所に、パーティーのうち2人がかけつけ、「札内川上流九の沢付近のキャンプ地でクマに襲われ、パーティーの他の3人が行方不明になった」と届けた。

2人の話によると、一行は25日午後3時ごろ、日高山系1,900メートルのあん部でテントを張ったところクマが出てきたので、ラジオをかけっぱなしにし、見張りを立てて宿営した。翌26日は、午前3時に起き、食事をして出発しようとしたところ、突然クマにテントを破られたため南のカムイエクウチカウシ山の方向へ逃げた。

同日(26日朝)午前7時ごろ、2人は下山して八の沢付近で出会った北海学園大山岳部パーティーにハンターを要請するよう頼んだ。このあと同パーティーに食糧をもらって再び他の3人と合流、カムイエクの方へ約1時間歩いたところでテントを張った。午後6時半ごろまたクマが現れたので、一行は一緒になってカムイエクの方へ逃げた。この途中で1人が、ハイマツ地帯に逃げ込んだが、「ギャー」という叫び声とともに傾斜面をころがり落ちていくのを目撃された。

残った4人は声をかけ合いながらハイマツ地帯を上がって逃げたが、途中で別の1人の声が聞こえなくなった。残る3人は同夜(26日夜)、岩場の陰で一夜を明かし、27日朝、安否を確かめようと出発したが、この朝は霧がかかり、草地のあたりでその霧の中から2メートル足らずの目の前に茶色がかったクマが突如現れ、さらにもう1人に襲いかかり、クマとともに行方がわからなくなった。

2人の話では襲ったのは同じクマで、立ち上がったときの背たけは2メートル以上あったという。

一行が襲われた現場付近ではこの3日間にクマが5回も出没、地元の中札内山岳会などが警告していた。今後の対策については、28日午前10時ごろ同大の学生部長、西島ワンダーフォーゲル同好会顧問らの到着を待って十勝遭対協、帯広署、地元山岳会が協議した上決めることになった。

一行は入山届けを出しておらず、大学へ提出していたスケジュールによると14日十勝管内清水町御影から入山、カムイエクウチカウシ山、ぺテガリ岳、ポンヤオロマップ岳を経て26日、同管内大樹町坂下におりてくることになっていた。

生存者2人の話;はじめクマが出たときは、こわいというよりも珍しかった。その後は、仲間が次々に襲われるたびになにもかも投げ出して、ただ逃げるだけが精一杯だった。



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↓動画=9分29秒(1970/7/28~31)↓

http://www.youtube.com/watch?v=GlypGYv_16k&noredirect=1


生き証人=2名=
●滝俊二 (法学部3年22歳サブリーダー) ⇒生還(2011現在63歳)
●西井義春(法学部1年19歳) ⇒生還(2011現在60歳)

の1970当時顔は、上記の動画にあります。
北海道新聞(1970/7/28朝刊)では、人物写真にゴマカシモザイクが入っている。
上記の動画には、2名の鮮明な顔が見れる。41年後の顔は何となく想像できる。
上記の動画には、当時の5人の行動を大学生(5人エキストラ)で実演している。
上記の動画には、興梠盛男(工学部2年19歳)の盛男メモの現物が映像に出てくる(読めます)。
上記の動画には、当時の8mmフィルムでないかと思われる実写映像も見れる
遺族・捜索隊・福岡大関係者が出ている。

2名の生き証人の、41年間は、平穏ではないだろう。
2名の生き証人が、この世からいなくなっても、この動画は生き続ける。


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