2015年9月26日土曜日

酒鬼薔薇聖斗事件(1997/2/10事件開始~6/28逮捕)・少年Aの供述[1997/6/28~]・GPSチップ西岡真・旅券法違反と公正証書原本不実記載罪でA逮捕?18年ぶりの2回目の逮捕Xデー

73000文字数

旅券法違反と公正証書原本不実記載罪でA逮捕?18年ぶりの2回目の逮捕Xデー

第1回目の逮捕=1997/6/28夕方
第2回目の逮捕=2015/X/XX ⇒顔・実名・家族構成・自宅など全面剥き出し
18年ぶりの2回目のA逮捕は近い?

元少年Aに旅券法違反などの疑惑 警察の強制捜査で逮捕の可能性も
元少年Aに飛び交う“逮捕説”「強制捜査の可能性」指摘の声も
2015年9月26日日刊ゲンダイ

神戸連続児童殺傷事件の犯人「酒鬼薔薇聖斗」こと元少年Aの周辺が何やら騒がしくなってきた。
2015/6月に手記「絶歌」を発売した後、2015/9月には自らのホームページHPを開設していたことも発覚。
そのおぞましい内容に、再び世間の注目が集まっている。

そんな中、関係者の間で飛び交っているのが、元少年Aの“逮捕情報”だ。
先週発売の女性セブンによると、
元少年Aは違法に「2つのパスポート」を持ち、そのパスポートの住所が、実際に生活を送る拠点と異なっているという。事実であれば、

❶「旅券法違反」と
❷「公正証書原本不実記載罪」に該当する。
逮捕される可能性はあるのか。

■元兵庫県警刑事の飛松五男はこう言う。■

「『公正証書原本不実記載罪』は決して軽い違反ではなく、法定刑(5年以下の懲役または50万円以下の罰金)は重く重罪。
旅券法違反との併合罪となれば、さらに重い刑を科せられる可能性があります。

世間的にも注目され、被害者感情も考慮すると、警察も強い態度で臨むでしょう。
任意捜査ではなく、強制捜査する可能性は十分にあると思います」(飛松五男)

手記やHPを分析した専門家からは「精神構造がまるで変わっていない」などと、
Aの再犯を心配する声も数多く上がっている。
警察が最悪の事態を避けるために、早期に動くのではとの臆測もある。

そして、いまAの存在を最も恐れているのが幻冬舎の見城徹だという。
Aはもともと幻冬舎から手記を出す予定だったが、途中で太田出版を紹介される形で出版するに至っている。

「Aは『絶歌』を出版する過程で、見城氏に利用されたと思い込んで【相当恨んでいる】。
最近、メディアに送った手紙の中でも『所詮あなたにとって少年Aは精神的オナニーのズリネタに過ぎなかったのでしょうか』と強い言葉で批判しています。”見城氏は『いつか襲われるんじゃないか』”と、本当に怯えているようです」(出版関係者)

Aの恨みが頂点に達した時に――・・・!!と考えるだけでも恐ろしい。
捜査当局の素早い対応が待たれる。
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少年A=東真一郎⇒東慎一郎⇒西岡真
1982年7月7日午前6時15分生まれ
(2015現在33歳)

・両親⇒離婚⇒母親(旧に戻り:西田の姓名に)

▼西岡真の写真はネットで見れる。
・東慎一郎の身長と西岡真の身長が同じか?確認は不明
・東慎一郎の耳型と西岡真の耳型が同じか?確認は不明

この中年A=西岡真33歳のHPでの
悪さをやらかす姿見の覆面・法被りの全裸の写真掲載で、
はたして、本人の裸体か?それとも手作り合成ソフト裸体写真か?
はいずれはっきりする。
2015現在の顔写真掲載もいずれ時間の問題で週刊誌公開(2回目の逮捕報道)される。
これで性犯罪者に付けるGPSチップがつけられたと同じ効力です。

⇒いずれ、逮捕で全面的剥き出しになるのは近い
捕捉され標的にされているA。

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週刊ポストの意味のなさない実名東慎一郎・14歳顔写真報道と安倍政権との関係と弱腰週刊ポスト飯田昌宏編集長
2015/9/15LITERA伊勢崎馨記事の抜粋[長文のため]

■「同じ小学館発行の『女性セブン』の2015/8月6日号では都内で生活するAと思われる人物のアパートを特定し、そこに住む男性を直撃しているんです。そのため「ポスト」にはこの際、隠し撮りしたAと思われる人物の近影なども掲載されるのではと言われていたんですが、結局「セブン」報道の真偽すら「ポスト」では報じられることはなかった。おそらく、飯田さんの事ですから、ギリギリのところで、日弁連などに抗議されるのを恐れて、引っ込めてしまったんでしょう」(週刊誌関係者)■

「週刊ポスト」(小学館)2015/10月2日号で、「少年Aの『実名』と「顔写真」を公開する」と題された記事が掲載された。
(きっかけは、)
・元少年AがHPを開設したことが大きな騒動となっている。
・このHPの存在は朝日新聞や「週刊文春」(文藝春秋)「週刊新潮」(新潮社)「女性セブン」(小学館)などに元少年Aが手紙とCD-ROMを送付した。

今回、意外だったのは、実名を掲載した週刊誌が「週刊ポスト」だったことだ。
これまで少年犯罪に関して実名や顔写真を掲載して物議を醸してきたのはもっぱら「週刊新潮」「週刊文春」であり、
「週刊ポスト」はこれまで少年犯罪について実名や顔写真を晒して報じたことはなかった。

▼それがなぜ???
一説には、今回の実名報道は今年2015/7月、編集長に返り咲いた「週刊ポスト」の飯田昌宏編集長のツルの一声で断行されたのだと言う。

だが、飯田編集長といえば、
もともと「死ぬまでセックス」シリーズなどのナンパ路線で知られる一方、
批判精神は乏しく、権力には、からっきし弱いという評判の編集者ではなかったか。

そもそも、飯田がわずか1年で復帰することになったのも、その「権力にたてつかない」姿勢が評価されてのことだった。

実は、飯田編集長が返り咲く前・・・
三井直也が編集長を務めていたときの「週刊ポスト」は反安倍政権の姿勢を鮮明にし、菅義偉官房長官の日本歯科医師連盟からの迂回献金問題や、高市早苗総務相の大臣秘書官をつとめる実弟が関わった「高市講演会企業の不透明融資」問題など、政権閣僚のスキャンダル記事を次々とスクープしていた

ところが、こうした「週刊ポスト」の報道に激怒した官邸は、様々な方法で「週刊ポスト」に圧力を加え続ける。
安倍首相と懇意の幻冬舎・見城徹社長を通した「週刊ポスト」発行人の森万紀子への執拗な抗議、マスコミ人脈を使った小学館上層部や幹部編集者への個別のプレッシャー。さらに、スキャンダルを暴かれた高市早苗サイドは、三井編集長、森発行人らを民事の名誉毀損訴訟だけでなく、刑事でも告訴。菅官房長官も訴訟の構えを見せた。

こうした安倍政権、官邸の圧力に震え上がった小学館は三井編集長が就任1年だったにもかかわらず更迭を決定、
その後釜に前編集長だった飯田昌宏を出戻らせるという仰天人事を行ったのだ。

(その返り咲いた飯田編集長の取った施策が・・・)
叩ける相手を見つけた時、もっともらしい“正義”をふりかざして糾弾する。
これでは、「ジャスティスハイ」▼丸出しの2ちゃんねらー▼たちとそう違いはないではないか。

■justice-high■⇒代表例:2ちゃんネラー■
・小さなルールを持ち出して正義派ぶる群衆
・不祥事を起こした人を徹底的に叩く事で、気持ち良くなり、歯止めがきかなくなっている状態
・犯人探しとバッシングが、発信者自身の閉塞感をまぎらわす代償行為となっている風習。

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女と印税逃避ドラマの始まりです⇒追いかけるネット・週刊誌記者~
1人で生活もウソ➽同棲のA・家族記述もウソ~こんな偽装手記をなぜ買うのだろう?

少年A手記 いかにも文学青年崩れ的な文章でゴーストライター説も
2015/6/23NEWSポストセブン

Aは事件後、医療少年院に入所したが、
その医療少年院に講師として招かれ、
少年らの授業を受け持った童話作家・森忠明に将来の希望を尋ねられ、
当時18歳だった少年Aは「小説家になりたい」と答えた。

森忠明は、
Aから短編小説[タイトル愛想笑いに手には名刺を・700字]を渡され感想を求められた。
👇18歳青年Aが書いた小説の一部を改めて抜粋する(週刊ポスト2001/3/9号)👇
《(以下すべて原文のママ)》

➽《題 愛想笑いに手には名刺を
(中略)「探偵さん」声が掛かる。振り返ると、傍らに背広を着た男性が。まずい、予定外の事に焦ってカメラを模索する。

「私達、籍を入れたのよ。」
やはりそうか、
「それはそれは、どうも実は俺、日本野鳥保護の会の者で……」という風太郎は証明を手に思う。依頼不通はこういうことだとは。》

~エンディングまで到底理解のできない文章が続く~。

➽《僕は、サクラの木に凭れ掛かる。風太郎の周りの木々がざわめき立つ。そして、サクラの匂い、項垂れる風太郎に優しく進学を断念させて下さった桜子教師の香り。
その戦慄が、風太郎の脳裏を又、掠める。僕は手帳を取り出す。心のままに記してみたくなったから。
──オキテだらけへの兆戦》

18歳Aのこの短編小説と、今回のA手記を比べると、
文章力は格段の進歩だ。
描かれた精神構造は別として、“ストーリー”は理解できる。
同じ人間が書いたものと思えず、
実際に「いかにも文学青年崩れが書きそうな【修飾過多の文章】からは、
一部ではゴーストライター作に違いないと見られている」(出版関係者)という。

➽👇森忠明コメント👇中年Aはすでに"抜け殻"👇
「当時から際だって表現欲求が旺盛でした。
ただし、私が彼(当時18)に会った14年半前にはすでに彼の中にいた魔物はおらず、
“抜け殻”のような印象がありました。
たしかに、私は彼(18)に“小説を書いたらどうか”と勧め、
彼(現在32)はその約束を守って今回の本を書いたのかもしれません。
ですが、“抜け殻”の彼が今後、歴史に名を残すような作家になれるとは思っていません。
いま彼を支えているのは、“自分を表現したい”という自己顕示欲だけなのかもしれない」(森)

ーーーーーー
森忠明(67)=日本の詩人・童話作家・東京都立川市出身/在住
1966年=寺山修司に師事し、詩と脚本を学ぶ
1973年=73児童演劇脚本募集でNHK賞を受賞。
1977年=『きみはサヨナラ族か』がNHK少年ドラマシリーズで放映される。
1987年=『へびいちごをめしあがれ』で新美南吉児童文学賞受賞。
1991年=『ホーン岬まで』で野間児童文芸賞受賞。
1998年=『グリーン・アイズ』で赤い鳥文学賞受賞。
ーーーーーー
➽週刊ポストは2001年3月9日号に、
「全文掲載 18歳・酒鬼薔薇が綴った『700字小説』」
という特集を組み、そこに、Aの書いた「作文」を紹介した。

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元少年Aのゴーストライターは誰だ!?
2015/6/24日刊サイゾー(元木昌彦)↓[かなりの長文のため要約]↓

この手記をA自身が書いたのかと疑問を持つ人も多い。
その疑問を解く鍵が週刊ポスト2001/3/9号に載っている。

👇「18歳の青年Aが書いた短編小説の一部を改めて抜粋する👇
《(以下すべて原文ママ)》

《題 愛想笑いに手には名刺を
『桜木町』、『桜木町』。僕の横から現れた彼女に風太郎は書きかけの手帳を慌てて仕舞い込む。
彼女の口許には絶えず微笑が刻み込まれているがまだ、十代のあどけなさが残っている。
『この乗り物は、桜台二丁目まで行きますの?』はっと我に返った僕は職業心が芽生える。
まだ間もない身ではあるが、
『奇遇ですね、私の地本なんです』》

奇妙なタイトルもさることながら、
内容も要領を得ない。誤字も散見された」(ポスト)

この短編小説と今回の手記を比べると、
文章力は格段に進歩している。
同じ人間が書いたものと思えないとポストは言っているが、大方はそう思うだろう。

出版関係者もこう言っている。
「いかにも文学青年崩れが書きそうな【修飾過多の文章】からは、
一部ではゴーストライターの作に違いないとみられている」(出版関係者)

幻冬舎の見城は元々作家志望だったと聞くが、彼の手が多く入っているのではないか?
第1印象はこの文章は『作家崩れ』の編集者の手がかなり入っていると思った。
それに1部と2部の文章が微妙に違う気がするのは担当編集者が替わったからだろう。

「編集に携わった社員も“あまりに自己愛が強くて、文章は自己陶酔が激しい。
悔悟の気持ちがどれほどあるのかわからない”という印象を抱くようになったといいます。
また、手記の発表は幻冬舎と付き合いのある小説家らからの反発も予想されました」(出版関係者)

-----------↓
➽『週刊新潮』が太田出版の岡聡社長をインタビューしている。なかなか興味深い。
岡社長は
《野菜を切るための包丁を売ったのに、その包丁が人殺しに使われてしまった。
それで、『売る時に人殺しに使われると思わなかったのか!』と責められてもねえ~。
我々は野菜を切るために一番切れ味の良い包丁を提供した。
どこの物よりも野菜を切るのに役立つと思って出版したんです。》(岡)

バカな言い方をしたものだと思うが、週刊新潮もこう難じる。
《彼は知らなかったのだろうか。事件当時、少年Aが犯行声明に
「汚い野菜共には死の制裁を」と記していた事。
事件後に母親と面会した少年Aが、
「弱い者は野菜と同じや」と言い放ったと報じられている事を。
つまり、被害者を「野菜扱い」していた事を・・・》(週刊新潮)

週刊文春でノンフィクション作家の高山文彦が言っている事が的を射ていると思う。
《金銭を得る事を最優先に考えたため、この様なレベルの低い代物が出来上がったのでしょう。
(中略)本来、出版社の大人たちがAに対し、世の中の道義・論理を諭すべきなのに、
一緒になって金儲けに走っていて、呆れる他ない》(高山)
ーーーーーー↑

➽ノンフィクション・ライターの高山文彦は手厳しくこう言う。
「猫殺しの詳細な描写や愛した祖母の遺影の前で自慰にふけるシーンなどが再現ビデオのように精緻に描かれているだけで、
彼が本当に書かなければならなかった事には全く触れられていない。
それは淳君をはじめ被害者の殺害へ至る道程を自らの身体を切り刻むような思いで自己分析し、
なぜ淳君らが殺されなければならなかったかを明らかにする事です。
(中略)深い内省や苦悩も見られない低レベルの“私小説”で終わりにしようなんて、ムシがよすぎる」(高山)

➽弁護士の紀藤正樹も憤りを隠さない。
「これはAと出版社が一種の不当収益を得た事になります。
彼があの忌まわしい犯罪を行っていなければ今回の印税収入はなかったわけですから、結果的に“犯罪で得た収入”です。
凶悪な犯罪行為で有名になり、その知名度を背景に出した本により殺人犯が法外な収入を得るような事態を放置していいはずがありません。
ペナルティーなども含めて、早急に何らかの法的措置を整備する必要がある」(紀藤)

アメリカでは約40州で犯罪者が自らの事件の暴露などで得た利益は、
被害者の救済基金に納めなければならないとする「サムの息子法」が施行されている。

これまでも
・連続射殺魔・永山則夫の本(これは完成度の高いものだったが)や
・佐川一政の本[1981年にフランスで女子留学生を殺してその肉を食った佐川一政]
・連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤の本も出版されてきた。

各誌大きく取り上げているが、
➽新潮のタイトルは「気を付けろ!『元少年A』が歩いている!」
これは1981年にフランスで女子留学生を殺してその肉を食った佐川一政が、
心身喪失状態での犯行と判断されて不起訴処分になり、日本へ戻ってきた時、
新潮社の名編集者・斎藤十一が付けた
「気を付けろ! 佐川君が歩いている」は名タイトルといわれているが、それを真似た。

担当弁護士や有識者からも批判されている。
➽「ようやく遺族の方々に対して、誠意が伝わってきたのではないか。今回の出版は、そういう感触を得られた矢先の事で、
これまでの関係者の努力を無にしてしまった」(Aの両親の代理人を務める弁護士)

➽「全くの嘘を書いているとは思いませんが、
真実を余すところなく書こうとしているとは思えず、
何かしら意図をもって書かれた印象を受けました」(Aの弁護団長を務めた野口善國)

文春誌上で物書きたちは、
「読むに値する書きぶりだと思った」(関川夏央)と一定の評価をする人がいる一方で、
「A自身が、冷静に自己分析できないまま執筆した本は、まだ出されるべきではなかった」(久田惠)
「第一部の、どうだ見てみろと言わんばかりの装飾を凝らした文章に吐き気をおぼえる」(高山文彦)
というような批判も多い。

【高山文彦】
・ノンフィクション作家/57歳
・小学館ノンフィクション大賞選考委員
・代表作=『火花 北条民雄の生涯』(1999)
・『火花 北条民雄の生涯』により第31回大宅壮一ノンフィクション賞・第22回講談社ノンフィクション賞を受賞
・処女作=『いのちの器』
・『「少年A」14歳の肖像』(1998年新潮社→新潮文庫)
・『麻原彰晃の誕生』(2006年文春新書)

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酒鬼薔薇の手記は本当? 強力な支援者がいて六本木ヒルズに出入りと噂も
2015/6/23日刊サイゾー(文=ハイセーヤスダ)

・「酒鬼薔薇には強力な支援者がいて、六本木ヒルズに出入りしていた」と記者
・「肉体労働で各地を転々としていた話が本当かどうかは、怪しい」という

『絶歌』(太田出版)が、皮肉にもベストセラー化。
この本を仕掛けたのは別の出版社(幻冬舎)を経営する大物プロデューサー(見城)だが、
この勢いで早くも“第2弾”を画策しているという。

「次は酒鬼薔薇に書かせるのではなく、社会復帰後の彼を知る人物たちの証言をまとめたものにするというプランがあるらしく、
さらに酒鬼薔薇の動向を映像化したものを制作する提案まで持ち上がっているとか」(出版関係者)

皮肉にも『絶歌』は遺族の回収を求める声や世間のバッシングが広告効果となって売れ続けている。
読書好きで知られるクリス松村が「吐き気がした」と批判しても、これまた記事になって本の宣伝になってしまっている。

そのため“第2弾”を計画しているのは『絶歌』の関係者ばかりではなく、
他の出版関係者も便乗ビジネスに乗り出そうと躍起だ。
ある週刊誌の編集部でも「酒鬼薔薇についての情報を何でもいいから集めろ」と指示が出ており、

専属カメラマンも「すでに追跡を開始している」という。
「ただ、今回の本を出す直前に、それまでいた場所から姿を消していて、その反響も想定した動きをとっているようなので厄介」(カメラマン)。

別の雑誌の記者は、
「現在を追うのはもちろんですが、著書に書かれている話が本当なのか、検証作業をしている」ことを明かした。
「何しろ酒鬼薔薇には強力な支援者がいて、一時期、六本木ヒルズに出入りしていたという話があったほど。
肉体労働で各地を転々としていた話が本当かどうかは、怪しいところもあります」(記者)

たしかに、
『絶歌』は酒鬼薔薇が自らの社会復帰を美談のように書いた部分もあって、
その逆襲となるような本があれば売れる事は間違いない。
ただ、酒鬼薔薇を追うのはこうした記者だけでなく、

➽右翼団体の幹部も会員制のメールマガジンで、
「本を出した仕掛け人も許せないし、日本人の価値観を揺るがす行為だ」と激怒。
「裏社会とのネットワークとも連携して、真実を暴く何らかの行動に出る」(右翼団体)と書いている。

また、
事件現場などを動画配信して資金を募る一部のネットユーザーが
➽「かつて酒鬼薔薇が登録していた派遣会社を突き止めた」として足取りを追っている。

酒鬼薔薇は事件当時、新聞社に送りつけた声明で、
「これからも透明な存在であり続けるボク」と書いていたが、
出版後の「元少年A」はまるで“賞金首”のよう。“透明な存在”ではいられないかもしれない。
(文=ハイセーヤスダ)

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警察庁幹部 手記出版した酒鬼薔薇の悪のカリスマ化に危機感
2015年6月24日NEWSポストセブン[要約]↓

『「少年A」14歳の肖像』(1998新潮社)などの著書がある作家の高山文彦が指摘する。
「『絶歌』は、これが最初で最後の告白という意味でしょう。
深い内省や苦悩も見られない低レベルの“私小説”で終わりにしようなんて、ムシがよすぎる。
【手厚い更生プログラム】を経て社会に出た彼は、
今度は【特定の出版社に手厚く保護】されて華々しく作家デビューしようとしている。
多額な経済的利益も得た。『独我論』の復活を危惧します。出版社の責任は重大です」(高山文彦)

【独我論=「この世にあるすべての物は自分の自我とそれが産み出した者たちであって、
他者や彼らが形成しているものは、自分の自我の投影に過ぎない」といった歪な精神構造の事。Aは精神鑑定で独我論を指摘されていた】

多額の印税を手にした元・酒鬼薔薇聖斗はいまどこにいるのか。
警察庁幹部の話だ。
「少年院を退院して数年後まで、
警視庁や兵庫県警などの刑事部や公安部、更生を担当した法務省がAの動向を“監視”していた。
公安部が注視していたのは、
極左集団がAを政治活動に利用するため英雄視し、接触を図る危険性があったからだ。

事件から18年経ったいま、
Aの動向を捕捉しようとしているのは法務省のみだが、
そもそも法務省にはAを追跡する人員もスキルもない。
今回の手記出版で、再びAが“悪のカリスマ”として注目を浴びていることには危機感があるが、居場所を掴ツカめていない」(警察庁幹部)

事件後入所していた医療少年院では「作家になりたい」という将来の夢を語っていたAだが、
被害者遺族の心情を蹂躙する事で叶えた醜き《【中年A】》。
その本質が変わっていないのだとしたら、次に自己の虚栄心を満たすために、何をしようとしているのか。

蹂躙=ジュウリン=踏みにじって荒らす
叶えた=カナえた=上手く合わせた
醜き=ミニクき

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👇絶歌全文がネット上にアップロードPDF👇

元少年Aの手記を全文300pageネット上にアップ⇒一気に拡散した
2015年6月23日東スポWeb[要約]↓

A手記・絶歌で、
何者かがネット上に手記全文をアップロードし、波紋を呼んでいる。

2015/6/21にネット上にアップされたのは「絶歌」をスキャンしたとみられるファイルだ。
表紙から裏表紙まで全300ページに及び、
ダウンロードできるリンクアドレスが「2ちゃんねる」などに張られた。
投稿者は「個人的に楽しんでいただいても、拡散していただいても構いません」と説明し、
掲示板やツイッターなどで一気に拡散された。

「絶歌」を巡っては、被害者の1人である土師淳(11)の父親守が
「遺族に2次被害を与える」「出版を中止し、本を回収してほしい」と出版元に抗議したほか、
販売自粛する書店や取り扱わない図書館が相次いでいる。

また元Aが出版で約2000万円の印税を得るであろう事にも反発があり、
米で制定された「サムの息子法」と呼ばれる犯罪加害者が事件に関して得た利益は、
被害者側に充てる法を日本でも導入すべきとの声も多い。

初版10万部は売り切れ店が続出。ネット通販大手のアマゾンでは、ベストセラー1位になる。
5万部が増刷された。

ネット上にアップロードし、不特定多数が閲覧できる状態にした事は著作権法に触れる行為だ。
権利者に無断での行為でも非親告罪で、
元Aや出版元が訴え出なくても警察には独自に逮捕できる権限がある。
違法アップロードで、元Aや出版元への印税収入こそ微減するかもしれない。

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▼酒鬼薔薇 同年代の恋人女性と同棲証言あるも日本脱出は困難か▼
2015年6月21日NEWSポストセブン

1997年、「酒鬼薔薇聖斗」の名前で犯行を行い、日本中を震撼させた神戸連続児童殺傷事件。
小学生5人が襲われ、2人が死亡、3人が負傷。
中でも、土師ハセ淳(ジュン享年11)の殺害は、(友が丘)中学校の正門前に頭部の一部を置き去るなど凄惨なものだった。
日本中を驚かしたのは、逮捕されたのが14才少年(逮捕時中学3年生14歳)だった事。
犯人は、「少年A」と呼ばれ連日マスコミを騒がせた。

あれから18年――。
少年Aは、32才となり、手記『絶歌』(太田出版)を発売した。
[太田出版=資本金4200万円・設立1985年・社員数23名]
被害者遺族からの出版中止・回収の要求を無視。初版10万部は瞬く間に完売した。

本を出版する際、一般的な著者印税は8~10%程度。
Aが出版社と交わした印税契約は、この数字よりもかなり大きかったという。
印税が10%として1冊あたりAに150円が入る。
これから重版がかかって20万部、30万部と増刷されていけば、
■Aは5000万円以上の大金を手に入れる事になる。

なぜ18年経ったいま、Aは手記を世に出したのか。
実は今、彼Aの傍らには、喜びを共にするパートナー(女)がいるという。

出版関係者は語る。
「Aは昨年2014夏ごろには、東京都郊外にある団地に、
同年代の恋人女性と一緒に住んでいたようです。
手記を書いていた時期に一緒に住んでいるのですから、
当然この女性は、彼Aの過去も全て知っているのだと思います。

Aにとっても彼女はかけがえのない存在なのかもしれません。
なぜ手記の中でこの女性について一言も触れていないのかわかりませんが、
まとまったお金を必要としたのも、もしかしたらふたりで日本を脱出するなど、
誰も知らない場所で新生活を送る事を考えていたのかもしれません」(出版関係者)

現在Aは自由な身である。
Aの場合は犯行時14才で刑事裁判の対象外だった事に加え、
彼Aが送致された「少年院」は、あくまで保護施設であり、
《前科》はつかない。

しかし実際には、
■旅券法第13条に定められているように、
外務大臣が国の利益や公安を害する恐れがあると認めた場合、
その人物はパスポートを取得する事が難しい。
Aはこれに当たる可能性が高い。

※女性セブン2015年7月2日号
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発売10日程度で、A手記本で、ウソ事実が明るみに出た。
これから更に、多くの部分で偽り事実が出れば、
版元=太田出版にも、原稿の裏付け捜査もしないで発売した責任がある。
増刷もいいが・・・
急速に売れなくなれば、返品本の山で、こんな弱い出版社は傾くだろう。
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[A+A両親]との賠償額
▼第2の事件=山下彩花(死亡)・山下京子(母)への慰謝料=8000万円[1999年示談成立]
▼第2の事件=女児(生存)=刃渡り13cmのナイフで腹部刺され2週間のケガ=2000万円[1999年示談成立]
▼第3の事件=土師淳(死亡)・土師守への民事訴訟賠償額=1億4000万円[1999年判決]⇒Which1億4000万円or1億420万円裁判記録調査中?

➊男性Aの両親が1999年に出版した
《『少年A』この子を生んで…父と母悔恨の手記》(文藝春秋)
の印税は慰謝料に充てられた、
❷他に当初、A両親が毎月8000円、Aが毎月4000円を遺族に支払っていた。

❸Aの両親は退職金や手記本『「少年A」この子を生んで……』の印税などで、
これまでに、約8700万円(2015現在)を返済。
Aの仮退院後も返済を続け~~
2015直近で毎月7万円(Aが1万円+両親が6万円)を支払っていた[⇔資料=週刊朝日2015/6/26号・.dotより]。

➽A手記印税≒5000万円=1500円(税抜)×10%×30万部=4500万円
➽14000(1億)+8000+2000=2億4000万円(2億)≒2億円⇔初期賠償総額

20000万円ー8700万円≒1億2000万円⇔賠償総額の残額

当然ながら、Aの必要生活額を超える5000万円の一時収入で
賠償残額に充当せよ!!と+手記出版での慰謝料など損害賠償訴訟裁判はできる?

[太田出版=資本金4200万円・設立1985年・社員数23名]=この出版社も被告に
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元少年A 過去・埼玉県ある市にいた⇒そこの小学校PTAで騒動になった
2015年6月22日NEWSポストセブン

1998年3月から関東医療少年院に入ったAには、
そこで精神科医3人と統括官1人による「育て直し」教育が施された。
これは、精神科医や統括官がそれぞれ父・母・兄などの“模擬家族”を演じ、
Aを「赤ちゃんから育て直す」という徹底した矯正教育だった。

「この手法はAにも功を奏し、一時は母役を演じた女性医師に恋心を抱くまでになりました。
破壊衝動と性的快感が結びついていた事件当時と比べ、徐々に通常の思春期男性の精神状態に近づいて行ったんです」(法務省関係者)

2001年になると被害者遺族への謝罪を口にするようになったというAは、
◆2004年3月、法務省に「再犯の可能性はない」と判断され、仮退院する。
6年間という異例の長期入院だった。

「更生保護施設に入居し、日雇いの仕事も始めたのですが、どこかで必ず“アイツは酒鬼薔薇らしい”という噂が立ってしまうんです。
彼Aは常に、“いつ正体がばれるか”という恐怖と隣り合わせの日常を送っていました。
そのため、不穏な空気を感じるとすぐに仕事を辞め、職を転々としたそうです」(前出・法務省関係者)

◆2005年1月に保護観察期間が終わり更生保護施設を出てからも
ビル清掃や廃品回収など、日給6000~8000円の仕事で全国各地を漂流する生活に~

《東京都A市、鹿児島県B市、北海道C市、広島県D市、埼玉県E市、神奈川県F市…。
退院後のAの所在地として、これまで数多の地名が噂されてきた。
その全ての地を本誌は訪れたが、多くは噂の域を出ることはなく、実際にAの所在を確認するまでには至らなかった。》

しかし、
確かにAの存在を感じさせる地もあった。
「一時、Aは宅配会社で働いていたのですが、その時は埼玉県E市にいたという話が根強く出ていました。
具体的な宅配会社名も出て、働きぶりも聞こえてきましたからね。

実際、その当時、埼玉県E市のある小学校では、
“Aが近くに住んでいるという情報があり、子供の安全のためにも法務省に情報開示を呼びかけるべきだ”と、
PTAが学校に掛け合うという騒動が起きています」(全国紙記者)

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少年A=東慎一郎(あずま しんいちろう)=改名前
1982年7月7日午前6時15分生まれ
(2015現在32歳)
14歳当時の顔写真=google画像などで見れる

札幌市西区発寒での金属バット両親殺人事件の長男(犯人)も退院後は、
[北海道新聞コラム]で改名して生活していると書かれていた。

東慎一郎も改名している
14歳当時の顔も公開されているから印税整形もするだろう。
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第1種=人体切断=酒鬼薔薇事件
第2種=人体解体=平岡都事件
第3種=人体αβ=γδω事件➽未だ日本では発生してない
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Aは自分だけ安全圏にいて、
今も良き親切な人々に守られている日本で唯一の特別な人間と【絶叫】!!

酒鬼薔薇の手記 家族に関する記述だけは敢えて嘘を書いたか
[“帰れ豚野郎!”と母へ怒鳴り]
2015年6月20日NEWSポストセブン

小学生5人が襲われ、2人が死亡、3人が負傷した、神戸連続児童殺傷事件。
中でも、土師淳(享年11)が殺害され、
1997年5月27日市立中学校の正門前でその頭部の一部が発見された
犯行のあまりの残虐性に日本中が震撼した。

さらに淳の口のなかからは、
酒鬼薔薇聖斗を名乗る犯人からの挑戦的な犯行声明が見つかる。
日本中を驚かせたのは、事件の概要だけではなかった。

逮捕されたのが14才の少年だったことで、
犯人は、「少年A」と呼ばれ、マスコミでは連日少年法の妥当性が問われる事態となったのだ。

あれから18年。Aは、32才となり、手記『絶歌』(太田出版)を発売した。
被害者遺族からの出版中止、回収の要求を無視。
初版10万部は瞬く間に完売した。

毀誉褒貶相半ばの出版劇となったが、女性セブンはこの機に、Aに関する総力取材を開始。
すると、手記には書かれなかったAの思惑、そして極秘にされていた彼Aの近況が見えてきた。

■『文藝春秋』2015/5月号(神戸家裁決定全文/完全版公開記事)で、
Aの起こした事件に対する神戸家裁の判決文の全文が公開された。
そこでは、当時の彼Aの犯罪心理として、「母への愛憎」の可能性を指摘していた。

[文藝春秋1998/3月号では、成育歴などをカットで完全版ではなかった]
[絶歌発売が、対抗馬で完全版公開に踏み切らせた]

■《母は生後10か月で離乳を強行した。
(中略)1才までの母子一体の関係の時期が少年に最低限の満足を与えていなかった疑いがある》
(判決文より)

精神医学用語でいう「愛着障害」の可能性に触れ、
さらに母は排尿、排便、食事、着替え、玩具の片付けに至るまで、躾には極めて厳しく、
スパルタ教育を施していた事が、後にAの心を歪ませた疑いがあるとしていた。

実際、Aは小3の時の作文で、
◆「お母さんはえんまの大王でも手がだせない、まかいの大ま王です」◆
と書いており、
この“母との歪な関係”がAの凶行を生んだ発端だと、
逮捕直後からメディアでも盛んに叫ばれていた。

しかし、Aは手記でこの定説を自ら否定する。
◆《母親を憎んだ事なんて一度もなかった。母親は僕を本当に愛して、大事にしてくれた。
僕の起こした事件と母親には何の因果関係もない》
◆《事件の最中、母親の顔がよぎった事など一瞬たりともない》

こう綴りながら、
母との関係から事件を読み解いた報道の全てを事実誤認だと断じた。
しかし・・・

👇❖判決文を書いた神戸家裁でこの事件の審判をした元判事・井垣康弘が語る❖👇

酒鬼薔薇の手記 家族に関する記述だけは敢えて嘘を書いた。
「Aが長年母親に愛されていないと感じており、厳しい躾を虐待と捉え、
それらが自己肯定感を欠落させる原因になった事は、裁判時の精神鑑定からも明らかです。

鑑別所に初めて面会に行った母親に対して、
❖“帰れ豚野郎!”❖と怒鳴り、
心底の憎しみをもって睨み付けた事もありました。

Aは、手記の中で家族に関する部分だけは敢えて嘘をついたのでしょう。
この手記が、将来的に現れるかもしれない友人・恋人への“家族紹介”の役割を担っているからです。
同時に、彼Aが家族に対して徐々にオープンになってきている証でもあります。

【母の存在が事件の伏線になっている事を隠し】、
良い思い出だけを選び抜いて書いたのだと思います。
実際、父や弟を含め、家族の事については一切悪い事を書いていませんからね」
(神戸家裁/元判事・井垣康弘=現在は弁護士)
[井垣康弘=当時のA家裁審判の担当判事=本来は非公開の決定全文が出た張本人]

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A手記で偽りの家族文では、なんら少年犯罪の資料にならない。
対抗馬で文藝春秋2015/5月号が少年犯罪の資料を提供した。

共同通信神戸支局デスクとして取材に関わった佐々木央(共同通信社佐々木央編集委員)が、
文藝春秋1998/3月号では、審判決定の全文にあった成育歴の大半と精神鑑定主文の重要な部分が「要旨」から抜け落ちていた。
佐々木央は事件を担当した井垣康弘元判事に「ぜひ全文を開示してほしい」
と依頼し今回(2015/5月号)の掲載に至った。
[井垣康弘=大阪弁護士会で弁護士活動]

■文藝春秋2015/5月号■で、
👇神戸家裁・決定全文で書かれている少年A(長男)の成育歴0~14歳👇抜粋👇

➊長男として誕生時代=1982年7月7日午前6時15分に生まれる
少年Aは、会社員の父と専業主婦の母との間の【長男】として、待ち望まれて生まれた。
1年4月後に二男が、
3年2月後に三男が生まれた。
近くに住む少年Aの《母方祖母》が手助けをしてくれた。

❷卒乳の時代
少年Aは、母乳で育てられたが、母は生後10月で離乳を強行した。
具体的な事は分からないが、鑑定人は、
1才までの母子一体の関係の時期が少年に最低限の満足を与えていなかった疑いがあると言う

❸幼少躾スパルタ時代
母は、少年Aが幼稚園に行って恥をかく事のないよう、
団体生活で必要な生活習慣や能力をきっちり身に付けさせようと、
排尿・排便・食事・着替え・玩具の後片付け等を早め早めに厳しく仕付けた。

❹「幼稚園年長組」時代~厳しい叱責

少年Aは、幼稚園での場合と異なり、
家庭内では、玩具の取り合い等で毎日のように弟二人(2男と3男)と喧嘩をした。
下が泣くので必然的に兄の少年Aが叱られる事になった。
母親が中心となって少年Aには厳しく叱責を続けた。

体罰と言っても、社会常識を逸脱するような程度のものではなかったが、
少年Aは、
親の叱責がとても恐ろしく、泣いて見せると親の怒りが収まると知って、
悲しいという感情がないのに、先回りして泣いて逃げる方法を会得した。

❺「小学校1年」時代~最愛の祖母=母親の母

母と祖母はしょっちゅう少年Aの前で言い争いをしていた。
少年Aは、泣くか、祖母の部屋に逃げ込む事により、母の叱責を回避していた。

❻「小学校3年」時代

本当の情緒が育っていない。
母親は「スパルタで育てました」と言っていた。
少年Aの家庭は気取らず下町的な感じで、友人もよく遊びに行っていた(学校)。

母の過干渉による軽いノイローゼと診断され、
母は、その後、押しつけ的教育を改め、少年Aの意志を尊重しようと心掛けた。

Aは小3の時の作文で、
◆「お母さんはえんまの大王でも手がだせない、まかいの大ま王です」◆
と書いていた。

❼「小学校5年」時代~最愛の祖母死亡【解剖=ナメクジ➽カエル】
➽ナメクジを待ち針で止めて、刺刀で腹部を裂いたり、カエルを待ち針で机に張り付けにして解剖したりすることが始まった。切ったり割いたり内臓を見るのが楽しかった。ナメクジやカエルは計10匹位解剖した。身体の疼ウズきを感じた後に“性衝動の始まり”とわかった。

《最愛の祖母を小学5年の時に亡くし、寂しさから祖母の部屋へ通う内
➽押し入れから愛用の電気マッサージ器を見つけた少年A、
祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら~
祖母の遺品マッサージで、祖母の事を思いながら射精をした[A手記より]》

❽「小学校6年」時代~虐待での射精【解剖=カエル➽ネコ】
・カエルを解剖する事に飽きネコを殺し始めた。
・ネコの首を締め、口から脳へナイフを突き刺し、腹を割いて腸を引き出し、
首を切り、脚を切る等した。
・灯油をかけて焼死させた事もあった。
・ネコの舌を切り取り、塩漬けにし記念品とした。
殺したネコは20匹になるが親にバレる事は一切無かった。

➽ネコを虐待している時、性的に興奮し初めての射精を経験した。
性衝動と動物殺しとの関係を自覚し皆も同じと思って友達に話したが、
「君は変だ」と言われた。

❾「小学校卒業後中学校入学まで」時代
グループで万引きが流行った。
少年Aは専らナイフを盗んだ。

両親は、それまで少年Aを、
「素直で優しく、隠しごとをせず、長男の自覚がある」
と評価していたが、万引き事件で「意志が弱い。表と裏がある」とショックを受けた。

❿「中学校1年」時代=友が丘中学校【解剖=ネコ➽幻想人間】
卓球部に入り、部活動と門限の為、ネコ殺しはできなくなったが、
同時にネコ殺しでは物足りなくなり、
週に何回か自慰行為をする際のイメージは、

➽いつも人間の腹を割き、内臓に噛み付き、貪ムサボり食うシーンであった。
その人間は胴体と四肢だけで男でも女でもなかった。
友達もそうだろうと思って、殺人のイメージで自慰行為をしている事を話したが、
「おかしい」と言われた。

・[思春期発来前後のある時点で、動物の嗜虐的殺害が性的興奮と結合し、これに続く一時期、殺人幻想の白昼夢に耽り、食人幻想に因って自慰しつつ、現実の殺人の遂行を宿命的に不可避であると思い込むようになった。]

小学生の自転車をわざとパンクさせたり、
女子同級生の体育館シューズを隠し、焼却炉で燃やした事で、
学校から児童相談所へ相談に行くよう勧められたが、
母親は少年Aを病院へ連れて行った。

診断の結果、医師は母親に対し、発達障害の1種の注意欠陥(多動)症で認知能力に歪みがあり、
コミュニケーションがうまく行かないので、過度の干渉を止め、少年Aの自立性を尊重し、叱るよりも褒めた方が良いと指導した。

母がその指導に従った結果、
表面上は、少年Aは落ち着きが出て、学校からも、よく成長したと評価された。

⓫「中学校2年」時代

母親が少年Aに将来の希望を聞いても、
「何もない。しんどい。」としか言わず、
母親は少年Aの気持ちがわからなくなった。

⓬「中学校3年」時代=1997/2/10(中2)~5/27(中3)酒鬼薔薇聖斗事件を起こす!!
1997/5/27AM6:40=淳の頭部が友が丘中学校正門で発見
1997/6/28PM7:05=兵庫県警がA逮捕(逮捕時中学3年生14歳⇒当時の氏名=東慎一郎)

ーーーーー

・[未分化な性衝動と攻撃性の結合に因り、持続的且つ強固なサディズムが予て成立しており、
本件非行の重要な要因となった。
非行時並びに現在、離人症状・解離傾性が存在する。]

・[年齢的に人格等が尚発展途上にあるから、
今後普通の人間のような罪業感や良心が育っていく可能性がある。
また性的嗜好も通常の方向へ発達改善される可能性がある。
当分の間、落ち着いた、静かな、1人になれる環境に置き、最初は1対1の人間関係の中で愛情をふんだんに与える必要がある。]

・[性的嗜好を改善して性的な発達を促す為の性教育を行うについては、
治療スタッフに【女】が加わっていることが望まれる。]

・[尚、両親(特に母親)との関係の改善も重要である。
適当な時期に交流を持たせ、面会時には、家族カウンセリングの技法を活用すべきである。]

・[この直面化には熟練した精神科的接近法を要する。
しかし、良心或いは罪業感は両刃の刃であって、
直面化の過程で、分裂病・重症の抑鬱状態・解離性同一性障害(多重人格)等の重篤な精神障害が生起する可能性もある。]
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1997/5/27午前6時40分頃、兵庫県神戸市須磨区友が丘中学校の正門の前に、
人間の頭部が置いてあるのを、門を開けに来た用務員が発見した。

➊口は両耳のあたりまで刃物で切り裂かれ、
❷目の部分は×印に切られ、
❸頭の上にも短冊状に何本も切られた跡が残っていた、
❹口には、犯行声明文2通=
[さあゲームの始まりです~・・~酒鬼薔薇]と
長方形の紙に1行だけ[酒鬼薔薇聖斗] と書かれた紙。

1997/5/27AM6:40頭部発見から32日目の1997/6/28PM7:05逮捕
[東慎一郎=当時の氏名・中学3年14歳]
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■注意■
母の躾が少年に影響を与えた様な記述がある一方で、
父親についてはほとんど言及されていません。
父親がどの様に関与したか?or全く関与していなかったか?には触れてない。
ココが~重要なのかもしれない?

この男Aは、名前・住所・顔写真を執拗に隠したい・・
だから、どんなに叩き・殴られても警察・民事裁判に訴えない。
実に、臆病で影の薄い人間です。

ジッ~と無言でガマンで祖母の洞窟へ逃げ込む一生。
それを見透かす様に、ネット底辺民族が平然と殴り踏みつける。

ただ、印税数千万円の札束を握りしめて微笑むも?
遺族の賠償金=2億円超の支払いの大半が済んでない以上
その印税を充当せよ!!と民事裁判になれば・・
小保方晴子事件の様に、世間・TV・週刊誌記者が追います。

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少年Aの手記 遺族の理解得られぬと別の出版社(幻冬舎)はお蔵入りに
2015年6月19日NEWSポストセブン

神戸連続児童殺傷事件の犯人・元少年Aによる手記『絶歌』(太田出版)。
1冊1500円税抜、初版は10万部だったが、
今後重版がかかり、20万部、30万部と売れてていけば、
印税としてAに5000万円以上の大金が入る事もあるという。

そんな大金を生んだこの手記だが、出版に至るまでには紆余曲折があった。
実は、当初、別の出版社(幻冬舎)から発売される予定だったのだという。

「その出版社はすでに1年以上前からAと接触し、手記の出版に向けた編集チームまで結成されていました。
2015年初春の発売を予定して、原稿もできあがっていたんです」(出版関係者)

しかし、社内では反対する声も多かった。
そんな中、この出版計画が1月に週刊誌(週刊新潮2015/1/29号)にすっぱ抜かれ、
出版に反対する遺族の肉声が掲載された。

「結果、社内でも慎重論が盛り返し、一部の【大物作家】は“万が一この作品を出したら契約を打ち切る”と通達するなど大騒動に。
結局、“遺族の理解を得られないものは出すべきではない”と、お蔵入りになったんです」(前出・出版関係者)

こうして、一度はたち消えた手記出版計画だったが、Aは諦めなかった。

「“どうしても出したい”と、彼は編集チームに直訴したそうです。
そんなAの強い思いから最終的に太田出版へと原稿が持ち込まれることになったそうです」(前出・出版関係者)

綱渡りのような出版だったが、無事に手記が世に出た事を、Aは今、誰よりも喜んでいるそうだ。

※女性セブン2015年7月2日号
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<児童連続殺傷手記>明石市 書店や市民に「配慮」要請
2015/6/19毎日新聞【駒崎秀樹】

兵庫県明石市の泉房穂市長は6/19日、神戸市の児童連続殺傷事件の加害男性による手記「絶歌」について、
明石市犯罪被害者支援条例で2次的被害の防止を定めた規定に基づき、市内の書店や市民に対して配慮を要請すると発表した。
販売・購入の自粛などの具体的内容は含んでいないが、市立図書館では購入しない。

現行条例(2014年4月施行)に基づく配慮要請は初めて。
6/22日以降、市内の書店約10店に文書で通知し、市民には広報紙やホームページを通じて周知する。

泉市長は記者会見で、事件で殺害された土師(はせ)淳君(当時11歳)の【墓】が市内の寺にあることを挙げ
「遺族が書店で平積みされた本を目にする可能性がある。
条例に基づく対応を取る必要があると判断した」と述べ、
さらに「個人の思いとしては売らないでほしいし、買わないでほしい」という考えを示した。

淳君の父守(59)は市条例の改正の際に有識者として協力した。
明石市は今回の対応について守さんに意見を求め、発表内容も事前に伝えたという。
【駒崎秀樹】

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絶歌・酒鬼薔薇聖斗の個人情報を遺族の訴訟で暴く

・絶歌に対し被害者遺族が損害賠償を求める訴訟を起こす案が浮上
・訴訟を起こせば、結果的に被告の実名や住所が公に出る事になる
・すでに遺族に近い弁護士が元少年Aの住所や名前を把握している

裁判となれば、
太田出版社にも損害賠償の被告になるから、1500×15万部≒2億円なんぞ吹っ飛び、
近場のボロ儲けを後悔するだろう。

被害者遺族が訴訟を起こせば……訴訟準備中・・・
◆『絶歌』出版の“酒鬼薔薇聖斗”現在の住所・名前が暴かれる日◆
2015/6/18日刊サイゾー(文=ジャーナリスト・片岡亮)

「酒鬼薔薇聖斗」の“現在(名前・住所)”が、公にさらされるかもしれない。

「出版差し止めは難しくても、被害者の遺族がこの本の内容に対し損害賠償を求める訴訟を起こせば、
結果的に被告の名前や住所が公に出てしまうことになる。
いま複数の弁護士が、その動きを後押ししようと動いている」

ある弁護士の情報では、
すでに遺族に近い弁護士が「酒鬼薔薇聖斗」の住所や名前を把握、
遺族の希望さえあれば訴訟を起こせる状況にあるという。

1997年に神戸連続児童殺傷事件を起こした自称「酒鬼薔薇聖斗」は先ごろ、手記『絶歌』(太田出版)を出版したが、
被害者の遺族からは抗議の声が上がっているほか、
著者名が少年法で守られたままの「元少年A」である事や、
ナルシスティックで自己顕示欲が見て取れる内容に、世間からの批判が巻き起こっている。

アメリカではニューヨーク州で犯罪者が、
自らの犯罪行為をネタに出版、販売して利益を得ることを阻止する「サムの息子法」と呼ばれる法律があり、
犯罪行為を商業利用することを禁じている。
同様の法律は他州や世界各国で類似したものが存在するが、
日本ではこれがないため、「酒鬼薔薇聖斗」は出版元の太田出版ともども、堂々と利益を手にできる状況だ。

◆「酒鬼薔薇聖斗」は、
児童の首を切るなど2人を殺害した上、
新聞社に「挑戦状」を送るなど、あまりに残酷な事件を起こしながら、
少年法の適用で罪には問われず、医療少年院を経て2004年に社会復帰した。

社会に守られて更生の道を進んだ元少年犯罪者が、
被害者遺族をさらに痛めつけるような本を出版したことで、
遺族からは出版社に回収要請があった。

しかし、現時点では法的にこれを差し止めることは難しい。

「でも、今回のケースを契機に新しい日本版の『サムの息子法』を作りたいと考える弁護士も少なくないです。
そのために大きな波風を立ててきっかけ作りにしようと話している弁護士もいて、
32歳の酒鬼薔薇聖斗が、少年法そのままの匿名で、過去の犯罪をビジネスに利用した事に対する報復として、
合法的に著者の現在を白日の下に引っ張り出すための裁判案を練っています」(同)

ネット上には酒鬼薔薇聖斗に妻子がいるなど確証のない話も書きこまれているが、
この弁護士によると
■「それよりも、もっと驚くべき社会復帰後の過去がある」■という。

「これは以前、彼Aを支援していた人脈から漏れ伝わってきた話だそうですが、
それが事実なら更生プログラムの失敗ともいえる話で、世間からの反発はより増すでしょう。
もし、
彼の実名と住所が表になる合法的な手段が取られた場合、
おのずとこの話も暴露されるかもしれません」(同)

◆酒鬼薔薇聖斗は、
本の中で、ネットカフェやカプセルホテルを泊まり歩く生活をしていたと記しているが、
事件を追ったある記者からは
■「退院した直後の時期、セレブの出入りする事で有名な都内の超高級マンションに滞在していた」■という話も聞かれる。

いずれにせよ、
記者の間でも続々と現在の生活についての情報がキャッチされており、
このまま「少年A」でいられるとも思えない状況だ。
「酒鬼薔薇聖斗」は本のあとがきに
「自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい」
「僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの生きる道」
と自己愛に満ちた出版理由を書いているが、
自分の身元が明らかになったとしても、堂々とその姿勢を貫けるのだろうか?

(文=ジャーナリスト・片岡亮)
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《絶歌は幻冬舎プロジェクトチームが祭り上げて作った作品》
ウソの多い虚文となれば、
ダマされて買った人々は皆➽BOOKOFFへ捨て投げ!!

元少年A32が、当初は幻冬舎から出版する計画だった。
幻冬舎の見城徹社長(64)によれば、
・2012年冬に、【元少年A(酒鬼薔薇聖斗)】名で封書が届き、
・2013年にAと対面したと言う。
Aは「本を書きたい」と訴え、執筆が始まった。
~しかし~
・2015年に入って見城社長は出版しない事を決断し、2015/3に太田出版を紹介
・酒鬼薔薇聖斗から手紙を受け取った見城徹が、Aと3度会い、
《生活費400万円以上を貸して》太田出版に紹介をした(週刊文春pageタイトル)。

➽幻冬舎=1993設立・資本金3億・社員数81名
見城徹は角川書店をヤメ、仲間5人で1993に幻冬舎を立ち上げた。
➽2009幻冬舎事件=元社員の着服横領,8年間にわたり総額9億円

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少年A手記の影の仕掛人は幻冬舎・見城徹だった!
セコい事に、見城社長はこの出版権をゆずった際に【太田出版からお金を受け取った】とも
2015/6/18LITERA・田部祥太

批判を集めている神戸連続児童連続殺傷事件の元少年Aの『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』(太田出版)。
その矛先は、元少年Aだけでなく、版元の太田出版にも及び、ネットにはこんな声があふれた。

「こんな出版社潰せよ、犯罪幇助だろ」
「出版したやつら全員地獄に堕ちる」
「太田出版は許さん!」
「太田出版不買運動」
こうした事態に6月17日には同社の岡聡社長が「釈明文」を発表する事態にまで至ったほどだ。

しかし、実はこの騒動には、出版の本当の仕掛人でありながら、太田出版に押しつけ、マンマと逃げ切ったヤツがいる。
それが幻冬舎の見城徹社長だ。

「実は『絶歌』は、太田出版ではなく幻冬舎から出版される予定だったのです。

それを幻冬舎の見城社長が途中で出版を降り、太田出版に紹介したということのようです」(出版関係者)
最初の経緯ははっきりしないが、
幻冬舎は数年ほど前、少年Aとコンタクトをとり、それ以降、出版に向けてプロジェクトチームを組んで原稿を完成させていた。

実際、今年2015になり「週刊新潮」がこの動きをキャッチ。
「『少年A』の手記出版を企図した『幻冬舎』への風当たり」(2015/1月29日号)として記事にしている。

この際、幻冬舎総務局は「週刊新潮」の取材に対し、
「出版の予定はなく、元少年やその関係者に接触したこともありません」と回答。
また、見城社長本人も「万万が一、予定があったとして、出したらいけないの?」と否定、
「大体、手記を出したところで、売れないって!~」などと語っている。

しかし、幻冬舎や見城社長がどう否定しようが、
実際「元少年A」の手記は幻冬舎でつくり、
その後に、見城社長が太田出版に持ち込んだようだ。

この経緯に詳しい出版関係者がこう証言する。
「幻冬舎で「元少年A」の手記出版に向け動いていたのは間違いない。見城社長直々でね。
見城は「元少年A」と何度も会い話をしながら原稿の手直しも進めていた。
その上、経済的に困窮していた「元少年A」に【印税の前払い】として百万単位の金を渡していたらしいです」

しかし、
"ある時期"から見城社長は手記出版に難色を示すようになったという。
その1ッの原因として指摘されるのが、あの『殉愛』騒動だ。

昨年2014/11月に幻冬舎から出版された『殉愛』(百田尚樹)は大きな騒動を巻き起こしたことは記憶に新しい。
当代きっての売れっこ作家だった百田が故・やしきたかじんの未亡人の証言を元に書かれた『殉愛』だが、
未亡人の一方的な主張や◆嘘◇が次々発覚し、大きな批判を浴びたのだ。

「見城社長としては『殉愛』はベストセラー間違いなしだと意気込み、
様々なメディアに根回しまでしてプロモーションを仕掛けた渾身の一作のつもりだった。
しかし発売直後から内容の◆ウソ◇が次々と暴かれて、大バッシングが巻き起こった。
この騒動がトラウマとなり、さらに批判に晒される事が必至の元少年A の手記を出す事を尻込みし始めたんじゃないでしょうか。
それで、結局は、旧知の太田出版に話を持っていったという事でしょう」(週刊誌記者)

しかし、
見城社長と言えば「顰蹙はカネを払ってでも買え」というのを座右の銘とする出版業界きっての仕掛人だ。
しかも、
2011年には米国人女性殺害事件の市橋達也の手記『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』を平然と出版している。
にもかかわらず、
『殉愛』騒動だけで見城社長が「元少年A」手記という超ド級の話題本を手放すとは思えない。

この点について、
見城をよく知る人物がこんな解説をしてくれた。
「見城さんの変化の背景には、安倍首相や官邸との関係があるんじゃないでしょうか」

見城社長は第2次安倍内閣発足以降、安倍首相と急速に近づき、何度も食事するなどブレーン的立場になっている事は周知の事実だ。
一方でテレビ朝日の放送番組審議会委員長として権勢を振るい、安倍首相の意向を代弁する形で番組に介入する動きも見せている。

「見城さんはもともと上昇志向が強いんですが、時の最高権力者と昵懇になった事で、さらにそれが強くなっている。
最近は、完全にエスタブリッシュメント気取りで、本気でナベツネのような政界フィクサーをめざしている気配もある。

『元少年A』の手記についても、当初、乗り気だったのに、
その後どんどん安倍首相や官邸との距離を縮めていく中で、心変わりしたんじゃないでしょうか。
世間からの逆風が予想できる今回の手記出版は安倍首相にも迷惑をかけると、配慮したのかもしれません」(知る人物)

いやはや、安倍首相のお友だちになった途端、
出版人として慎重になり、ベストセラーを手放してしまうほどになってしまったのか!!。

しかも、セコい事に、
見城社長はこの出版権をゆずった際に、
【太田出版からお金を受け取った】ともいわれている。

現在の見城社長はもはや出版人などでなく、
身も心も安倍首相のお友だち、フィクサーなのかもしれない。

[LITERA田部祥太]

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「酒鬼薔薇聖斗」事件から18年!
「少年A」の手記出版を企図した「幻冬舎」への風当たり
◆[週刊新潮2015/1/29号]全文◆

あの忌まわしい“記憶”が、あらぬ形で甦りかねない――。
1997年に世間を震憾させた、神戸連続児童殺傷事件。惨劇からまもなく18年が経とうという中、
「酒鬼薔薇聖斗」を名乗っていた“元少年”の手記を出版せんと画策する向きがあるというのだ。

***

一連の事件は、97年2~5月に発生。神戸市須磨区で小学生が相次いで襲われ、2人が死亡、3人が重軽傷を負った。
同1997年6月下旬、通称「タンク山」で土師(はせ)淳君(享年11)を殺害した容疑で、
区内の【中学3年生だった14歳少年A】が逮捕され、全貌が明らかになっていく。

同1997年10月、医療少年院に収容された彼Aは、一時、中等少年院に移り、
2004年3月に仮退院。以降、まるで都市伝説のように、全国で“生息情報”が乱れ飛んできたのだった。

さる司法関係者によれば、
▼「出所後は、
法務省OBの人間を中心におよそ10人の支援チームが結成され、彼Aの生活を支えてきました。
現在でもサポート役がそばにおり、被害者の命日には毎年手紙を送っていますが、直接対面しての謝罪は、いまだ果たせていません」(司法関係者)

そんな折、耳を疑うような話が舞い込んできた。
この“元少年A”が近々、手記を上梓する予定だというのだ。

さる事情通によれば、
「版元は幻冬舎です。1年以上前から人づてに元少年Aと接触し、すでに聞き取り取材を終えている。
名前や写真は載せないものの、事件を懺悔する内容の手記という形で、原稿も出来上がっているのです」(事情通)

▼幻冬舎は、
1993年、角川書店を退社した見城徹社長が設立。
1998年には郷ひろみの告白本『ダディ』が大当たりし、2003年に株式を店頭登録。
その後、経営陣による自社買収(MBO)を実施するなど、何かと話題には事欠かない。

今回の手記は初め春先の刊行を見込んでいたと言い、

「2011年1月には、英国人女性殺害犯・市橋達也の“逃亡記”を出版して物議を醸しましたが、今回はさらなるハレーションが生じるのは明白。それもあって、企画は慎重かつ極秘に進められています。一方で、少年院時代から書き溜めてきた小説や詩なども入手しており、これらの“作品”を出す案も浮上しています」(同事情通)

■「いけないの?」

が、肝心の遺族はまるで蚊帳の外である。実際に、淳君の父・守さんは、
「本を出すとは、全く聞いておりません」(土師守)
と、驚きを隠さない。

「そもそも、商業ベースでやることではないでしょう。5月の淳の命日には毎年コメントを出させて貰っていますが、まずは彼(元少年A)が、自分の言葉で私たち家族に対して返事をしてくれればいいこと。その内容を人に見せないのは、当然の礼儀だと思います」(土師守)

現在でも命日が近づくと、元少年Aからは弁護士を介して手紙が届くのだが、
「内容を読む限り、彼の理解が、私たちの望んでいるような答えを出せるレベルに至っているかと言えば、まだ暫くは難しいと思います。小説や詩にしても、“メディアに出るようなことはして欲しくない”と、早い時期から要望してきたのですが……」(土師守)

そうした不信感は、おのずと版元にも向けられ、
「出版の話が本当であれば、あまりにも被害者や遺族を蔑ろにしているとしか言いようがありません。遺族に伝えることがまずなすべきことで、この話が嘘であってほしいと願っています」(土師守)

当の幻冬舎は、
「出版の予定はなく、元少年Aやその関係者に接触したこともありません」(幻冬舎総務局)

それでも見城社長に問うと、
「万万が一、予定があるとして、出したらいけないの? 彼は残虐な殺人を犯したけれど、法に従って少年院に入って、反省して出てきているわけでしょう。新たに犯罪を犯してもいないのに手記がダメなら、何のための法律ですか!!」(見城)

そう畳み掛けつつ、含みを持たせるのだ。
「僕は、あの市橋の手記で懲りたんだ。まだ裁判が始まる前で、たまたま被害者が海外の人だったから何も言ってこなかったけれど、やっぱり公判前はまずかった。僕は、本を出すたび、“果たして出してよかったのか”と反芻しているんだよ」(見城)

とはいえ確信犯には違いなく、つまりは、あくまで算盤ずくというわけだ。
「遺族だ、被害者だって言うけれど、屁理屈だよ。元少年は毎年遺族に手紙を書いているわけだし……。君たちだって、いちいち被害者に取材しないでしょう。大体、手記を出したところで、売れないって」(見城)

もしや、なかった事にするおつもりか。

↑[週刊新潮2015/1/29号]↑
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被害者=土師ハセ淳(11)=死亡
被害者=山下彩花(10)=死亡

神戸連続児童殺傷事件は
1997年に
兵庫県神戸市須磨区で発生した当時14歳の[友が丘中学校生]による連続殺傷事件。
この事件で、
2名が死亡し、3名が重軽傷を負った。

■概要
数ヶ月にわたり、複数の小学生が殺傷された事件である。
通り魔的犯行や遺体の損壊が伴なった点、
特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、
地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点など、強い暴力性が伴なう特異な事件であった。
また、犯人がいわゆる「普通の中学生」であった点も社会に衝撃を与えた。

警察は聞き込み捜査の結果、少年Aが動物への虐待行為をたびたびおこなっていたという情報や、
被害者男児と顔見知りである点などから、比較的早期から彼に対する嫌疑を深めていたが、
対象が中学生であるため、極めて慎重に捜査は進められた。

当時は、
中学生には到底不可能な犯行とされたこと、
警察が少年Aに虚偽の説明をして調書を作成したのでないか
などで冤罪の可能性も指摘されていた。

■事件の経緯■

■第1の事件➽離陸開始
▼1997年2月10日午後4時ごろ、
神戸市須磨区の路上で小学生の女児2人がハンマーで殴られ、1人が重傷を負った。

犯人がブレザー着用、学生鞄を所持していたと聞いた女児の父親は、近隣の中学校に対し犯人がわかるかもしれないので生徒の写真をみせてほしいと要望する。しかし、学校側は警察を通して欲しいとして拒否したため、父親は警察に被害届を出して生徒写真の閲覧を再度要求したものの、結局、開示されることはなかった。

この事実により、犯人逮捕後、学校側に対し、「この時点で何らかの対応をしていれば第2・第3の事件は防げたのではないか」「結果的に犯人をかばっていたことになる」との批判が起こった。

■第2の事件➽山下彩花殺害
▼1997/3月16日午後0時25分、
神戸市須磨区竜が台の公園で、付近にいた小学生の女児に手を洗える場所はないかとたずね、学校に案内させた後、「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」(少年Aの日記より)といい、振り返った女児を八角げんのう(金槌の1種)で殴りつけ逃走した。女児は病院に運ばれたが、3月27日に脳挫傷で死亡した。

さらに、
午後0時35分ごろ、別の小学生の女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺して2週間の怪我を負わせた。

■第3の事件➽土師淳殺害
▼1997/5月24日
5月24日午後、神戸市に住む男児を通称「タンク山」と呼ばれている近所の高台に誘い出し、殺害。

少年Aは人を殺したいという欲望から、殺すのに適当な人間を探すために、昼過ぎにママチャリに乗って家を出た。町内を約10分くらいブラブラしながら自転車を走らせた。その後、多井畑小学校の北側を東西に走っている道路の北側の歩道を、東から西に自転車を走らせていたところ、多井畑小学校の北側の歩道上に少年とは反対に、西から東に、1人で歩いてくる男児を偶然みつけた。

男児は同地区に住む放射線科医師の次男で、当時11歳であった。男児は祖父の家に行くといって午後1時40分ごろ、自宅を出ていた。咄嗟に少年Aは「淳君ならば、僕より小さいので殺せる」と思った。少年Aが男児を知った時期ははっきりとは覚えてはいないものの、田井畑小学校の5年生ころで同じ小学校のなかに、身体障害者のための「なかよし学級」があり、そのなかに男児がいることを知った。その後、男児が少年の家に遊びに来るようになった。これは少年Aが直接知り合ったわけではなく、少年Aの一番下の弟が同級であったからである。その際に少年Aの家で飼っていたカメに男児が興味を示したことからカメが好きなことを知る。

咄嗟に「土師ハセ淳君を殺そう」と思い、男児の方へ近づいた。近づきながら、少年Aは殺す場所を考えたが、タンク山が脳裏に浮かんだ。かつ、タンク山のケーブルテレビアンテナ施設のところならば、少年A自身よく知っており、人に見られることもないと考えそこで男児を殺そうと考えた。少年Aは男児に対し「青い色のカメがいる」とタンク山に誘い出し、その場で絞殺して遺体を隠した。

殺害は絞殺であったが、当初は手で締めていたものの、なかなか死なないため腕が疲れ、さまざまな体位で試み、ナイフで殺そうと考えるが、ナイフを忘れたことに気付く。そこで埋まっていた石があったため、撲殺を思いつき石を持とうとするが土中深く埋まっていたため、動かなかった。このため、今度は自らの運動靴の紐で絞殺をしようと考え、左足の運動靴の紐を少しずつ解いていく。それを輪にして首にかけうつ伏せになった男児の腰付近に馬乗りになり、力一杯両手で持ち上げる。一生懸命殺そうとするのになかなか死んでくれない男児に対し、少年Aは腹を立て、男児の顔や頭を踵で蹴ったり顔を殴ったりしている。最後は、仰向けになった男児の腹部に馬乗りになり靴紐を力一杯引く。このとき少年Aの手にはギュッと食い込む手応えがあり、しばらく締め続けたところで呼吸音が止まった。さらに、死んだかどうか分からなかったため、靴紐の端を施設のフェンスか桟に結びつけ、さらに締め続けた。死んだと思った後には男児の左胸に右耳を当て心音を確認している。

殺害の後、少年Aは男児の死体をどうするか考えたが、放置すればすぐにみつかってしまうと考えた。死体は発見されないに越したことはないし、発見されるにしても、できるだけ遅らせたいと考えた。死体が発見された段階で警察の捜査が始まると考えたからである。男児の死体は重いため遠くへは運べないと考え、ケーブルテレビアンテナ施設のなかの鉄の建物の床下が草が茂り、みえにくいと考えたが、施設の入り口には鍵がかかっていたため、咄嗟にその南京錠を壊し、床下へ運び込むとよいと考えた。そのための道具として糸ノコギリを準備しようと考えた。同時に、南京錠を壊しただけでは不審に思われると考え、新たな南京錠に付け替えるとよいと思い、かつて、カメの餌を買ったり、小学校6年当時に同級生仲間と斧、のこ、鎌を万引きしたりしたことがある生活協同組合コープこうべリビングセンター北須磨店(のちに、コーナンに変わったが、現在は万代スーパーになっている)で万引きすることを思いつく。

万引きしようと考えたのは、ひとつにはお金がなかったこと、ひとつはお金を出せば店員に顔を覚えられる可能性があったためである。男児をそのままにして少年Aは登ってきた道順と同じ道順でタンク山を降り、ママチャリに乗り、コープリビングセンター北須磨店へ向かった。そこでまず、糸ノコギリを盗む。次いで南京錠を盗んだ。南京錠は形や大きさが大体同じであればよいと考えていたので、正確に大きさを確認してはいない。その後、ふたたびママチャリでタンク山の「チョコレート階段」を登ったりして男児と一緒に上った道順と同じ道順でケーブルテレビ施設の前まで戻った。1分くらいかかって南京錠を切断すると、両手を男児の脇の下に入れ、上半身を浮かせて下半身は地面に付けたような感じで後ろ向きに引きずって施設の中へ入れた。

ところが、鉄の建物と施設の入り口との間にアンテナが置いてあったため、男児の死体を建物の床下に入れるには、そのアンテナが邪魔になったため、いったん死体を置き、アンテナをずらしさらに引きずり床下へ死体を蹴り込むような感じで押し込んだ。押し込んだ後で建物付近に男児の運動靴が一個落ちていたため、靴を拾い上げて死体のそばへ置いた。その後、万引きした南京錠を施設の出入り口のフェンスにかけるとタンク山を降りる。

この後、友人とビデオショップVの前で待ち合わせしていたため、万引きした糸ノコギリは邪魔になる上、友達に疑われる可能性があると考え、死体を隠したすぐ側の溝の落ち葉の下に隠した。切断した南京錠はジーパンのポケットに入れて持っていた。男児を殺した時点で待ち合わせ場所へ行っていたならば、午後4時には十分間に合っていたが、コープリビングセンター北須磨店に行ったり、死体を隠す工作のため時間がかかったりして、友達らとの待ち合わせ場所であるビデオショップV前へ着いたのは当日午後4時25分から30分の間であった。その後、友達らと遊んだ後、午後6時過ぎごろに自宅へ帰っている。

家に帰ると、少年Aの母が「土師淳君がおらんようになったみたいよ」と言ったが、少年は「ふうーん」と返事をした。その後、少年は2階の自室へ上がっている。その後、疲れた少年Aはベッドで寝てしまったため、夕食はとっていない。少年Aは、早く寝たときはよく夜中に目を覚ましたが、この日も時間は不明ながら目を覚ました。その際に一日のことを振り返った。男児を殺したときの様子を思い出すうちに、南京錠を切るのに使った糸ノコギリを施設内に隠しているのを思い出し、フッと自然にその糸ノコギリで人間の首を切ってみたいという衝動に駆られた。

具体的には、人間の体を支配しているのは頭だから、その司令塔である頭を胴体から切り離してみたい、その時に手に伝わってくる感覚や、切った後の切り口もみてみたいと思った。少年Aはそれまでに何十匹というネコを殺して首を切ったりしたが、ネコだとナイフ1本で簡単に切れるため、もっと大きなもの、しかも、自分と同じ種族である人間を切ってみたいと考えた。この衝動は以前からあったかもしれないが、ずっと忘れていて、この時、急に衝動に駆られたと供述している。

午後8時50分に被害男児の家族より須磨警察署に捜索願が提出された。

▼1997/5月25日
この日より、警察、PTA、近隣の保護者などが捜索に参加、公開捜査に踏み切る。

少年は10時から12時にかけて起床し、自分でパンを焼いて食べ、昼過ぎ(午後1時から3時の間)に男児の首を切るために自宅を出る。少年は人間の首を切ると大量の血が出ると考えたため、黒色のビニール袋2枚を準備する。首を切った後の糸ノコギリ持ち運ぶため、学校で使用している補助カバンももって出る。さらに、「龍馬」のナイフ3本と出刃包丁1本を持っていたが、「龍馬」のナイフの内、2本は親に取り上げられていたため、その1本をジーパンのポケットか腹に差して持って出た。

この日もママチャリに乗ってタンク山の下へ着いた。殺害日にはあせっていたため、「チョコレート階段」下に自転車を停めたが、この日は余裕があったため、人目に付かぬよう、入り口よりも右側に自転車を停めた。タンクの周りの獣道からケーブルテレビアンテナ施設へ着くと、新たに付け替えた南京錠の鍵を持っていたため、それで南京錠を開ける。この供述を聞いた検事は、当初、少年は「付け替えた南京錠の鍵は5月24日に捨てた」と話していたため、質問をすると少年は「僕の思い違いだったと思います」と答えている。

アンテナ施設の中に入った少年は隠していた糸ノコギリを取り出すと、「局舎」の床下に隠していた男児の死体の肩の服の部分をしゃがみこんで引っ張り、胸から上を床下から引っ張り出し、男児の首が溝の上付近に来るように置いた。このときの少年は特にワクワクするという気持ちはなかったと供述している。男児の首の下にビニール袋を敷くと、糸ノコギリの両端を持ち、一気に左右に2回切る。ノコの歯が細かったため、スムーズに切れ、切り口がのぞく。人間の肉が切れることを確認した少年は左手で男児の額のあたりを押さえながら、右手で首を切っていく。この時、少年は「現実に人間首を切っているんだなあ」と思うと、エキサイティングな気持ちになったと供述している。首を切っていく内に、段々と頭の安定が悪くなったため、男児の首の皮が1枚になった時に左手で髪をつかんで上に引っ張り上げ、首の皮を伸ばして一気に首の皮を切った。その後、しばらく地面に置き、鑑賞しながら、「この不可思議な映像は僕が作ったのだ」という満足感にひたった。

ところが、しばらくすると、男児の目は開いたままで、眠そうにみえ、どこか遠くを眺めているように少A年にはみえた。さらに、男児は少年Aの声を借りて、少年Aに対して、「よくも殺しやがって 苦しかったじゃないか」という文句をいった。それで、少年Aは男児に対し、「君があの時間にあそこにいたから悪いんじゃないか」といい返した。すると、男児の首はさらに文句をいった。少年Aは、これは死体にまだ魂が残っているためだと考え、魂を取り出すため、また、眠たそうな男児の目が気に入らなかったため、「龍馬」のナイフで男児の両目を突き刺し、さらに、両方の瞼を切り裂き、口の方からそれぞれ両耳に向け、切り裂いた。さらに少年Aは男児の首を鑑賞し続けたが、その後は文句をいわなくなった。さらに、「殺人をしている時の興奮をあとで思い出すための記念品」として持ち帰ろうと考え、舌を切り取ろうとしたが、死後硬直でかなわなかった。さらに、ビニール袋に溜まった男児の血を飲むが、金属をなめているような味がしたと述べている。

後に、少年Aは人の気配を感じ、来た方向ではなく、北須磨高校への獣道をたどり入角ノ池へ向かう。この池付近の森は人が来ず、ゆっくりと男児の頭部を鑑賞するのが目的であった。男児の頭部の入った黒いビニール袋を右手に持ったまま町中を歩いたが、特に神経がピリピリすることもなく、ボッーとしたような、しかし、いつもと同じ気持ちで歩いた。

池に向かうまでに、少年Aが多井畑小学校に通学していた当時に見覚えのある女性に出会っているが、少年は多井畑小学校の教職員だと思う。少年Aは女性が男児を探しているのだと考えた。その後、向畑ノ池の横を通り、池の南側の友が丘西公園へ行く。さらに、公園内に入り、公園のフェンス横の出入り口から森に入る。森に入ると道が険しくなったため、少年Aは糸ノコギリを入れていた補助カバンを腹の中から取り出すと、男児の首の入ったビニール袋を補助カバンに入れ直す。

さらに、右手に持ったまま入角ノ池へ歩き出すが、途中、機動隊と少年が思った3人に出会う。少年が機動隊と考えたのは、少年が知る警察官の格好ではなく、黒っぽい服に前にツバの付いた帽子をかぶり、肩には細い縄を掛け、身長よりも長い棒を持っているためであった。その3人の一人から「君はどこから入って来たんだ」と聞かれた少年は「公園の入口から入って来ました」と答えた。すると、その中の一人が少年に向かって「危ないから帰りや」といった。少年Aの記憶では3人に出会ったのが池へ向かう途中なのか、帰りなのかはっきりしない。検事に機動隊と思われる人たちに出会ったときの気持ちを聞かれ、「別になんとも思わず、平常心でした」と答えている。入角ノ池へは、過去に数回行ったことがあった。

少年Aは池に着くとロープを伝って池の淵へ下りる。男児の首を隠す場所を物色したところ、池付近に木の生えだしたところがあり、木の根元に丁度首の入る位の穴をみつける。そこで補助カバンから男児の首を取り出すと、至近距離からふたたび鑑賞する。少年Aは新たに人のいないところで首を鑑賞すれば、何か新しい感動が得られるのではないかと期待してのことであったが、たいした感動は得られず、「ああ、こんなものか」と思った程度であったと供述している。そのため、2-3分しか鑑賞せず、ビニール袋に入れると穴の中に袋ごと男児の首を押し込んだ。ふたたび来た道を帰り、向畑ノ池で糸ノコギリを投げ捨てた。その後、タンク山下付近に停めた自転車を取りに戻った後、帰宅した。時間は不明である。この夜も、少年Aは目を覚まし、物思いにふけるが、死体が時間とともにどう変化するかに大変興味を持つ。

▼1997/5月26日
5月26日、少年Aは10時頃に起床し、男児の首を見るため池へ向かう。この日は、5-6分観察する。少年Aの言葉では、鑑賞ではなく観察したという。観察の結果、男児の顔などは色が25日に増して青白くなっていただけで大きな変化はなく、もっと大きな変化があると期待していた少年はがっかりした。変化がなかったことから、興味がなくなり、今度はどこへ隠そうかと考え始めたが、日本の警察ならどこに隠そうと遅かれ早かれ胴体も頭部も発見されるだろうと考え、そうであるなら、むしろ自分からあえてさらすことで、警察の捜査から自分を遠ざけようと考えた。そのために、自分の通う友が丘中学校が警察にとって盲点になると考えた。

少年Aの供述では、
「友が丘中学校の生徒が、自分が通っている中学校に首を置くはずがないと思うだろうし、そうなれば、捜査の対象が、僕から逸れると考えた」からであった。もう一つの理由として、「僕自身、小さいころから親に、人に罪をなすりつけてはだめだといわれて育ちました」からだという。さらに、「それで、僕は、一方ではそんな僕自身に対して嫌悪感があったので、何とか責任逃れをしたいという気持ちもありました。しかし、人に罪をなすりつける訳にはいかないので、僕自身を納得させるために、学校が淳君を殺したのであり、僕が殺したわけではないと思いたかったのです。単に、学校に責任をなすりつけるための理由であり、実際に学校に対する怨みや学校の教育によって、こんな僕ができてしまったと思っていたわけではありません。友が丘中学校に土師淳君の首をさらすにしても、どこに置くかと考えましたが、当然、それは一番目立つ場所がよいと思い、そうなれば、当然、友が丘中学校の正門に置くのがよいと考えました。
そこで、僕はふたたび土師淳君の首を入れているビニール袋の入口を引き上げて、淳君の首をビニール袋の中にすっぽりと入れて袋の口を閉じました。そのビニール袋を持って、入角ノ池から自転車を停めている友が丘西公園まで歩いて行き、そこから土師淳君の首を入れたビニール袋を自転車の前カゴに入れて、自転車に乗って家へと帰ったのです。家に帰った時には、家には誰もいませんでした。家に帰る途中、僕は土師淳君の首を洗うことを考えました。

その理由は2つありました。一つは、殺害場所を特定されないように、頭部に付着している土とか葉っぱを洗い流すためでした。あと一つの理由は、警察の目を誤魔化すための道具になってもらうわけですから、血で土師淳君の顔が汚れていたので、「せいぜい警察の目から僕を遠ざけてくれよ、君の初舞台だよ」という意味で顔を綺麗にしてやろうと思ったのです。そこで、家に帰った後、僕は、すぐに1階の台所の奥にある風呂場に土師淳君の首を入れたビニール袋を持って行きました。そして、そのビニール袋を床に置き、庭にタライを取りに行きました。そのタライを風呂場に持ってきた後、ビニール袋から淳君の首を出し、その首をタライに入れました。」

その後、少年Aは風呂場の水道の蛇口にホースを取り付け、水を出し、そのホースでタライの中に立てて置いた男児の首に水を掛ける。頭に掛けたり、顔に掛けたり、あるいは水を掛けながら手で顔を拭いたり、頭をゴシゴシ洗ったりした。また、首の切り口部分にも泥が残っていたため、そこも洗う。さらに、口を両方に切り裂いた傷口にも水を掛けると、その水がおのずと口の中までを洗った。以上の作業は少年Aの供述によれば、かなり丁寧におこなわれた。

ここで、
▽検事は少年Aにこう質問した。

「君は、土師淳君の首を切断した時には、土師淳君の舌を切り取ろうとしたと話しているが、この時点で舌を切り取ることは考えなかったのか」

▽これに対して少年Aは

「考えませんでした。それは、僕が土師淳君の首を切った時の感動を思い返すためだったのであり、この時点では時間が経ちすぎていて、切り取ったとしても過去の産物になってしまうからです。要するに、この時点で土師淳君の舌を切り取ったとしても、切り取った舌を後で見ても、その舌から思い出すのは、土師淳君の首を洗っている時のことであり、その様なことを思い出しても意味がないからです」と答えた。

洗い終わると、少年Aは風呂場にあったタオルで男児の顔や髪の毛を拭いた。拭いた後には、男児の髪を洗面所にあった櫛かブラシでとかした。その後、少年Aは首を入れていたビニール袋と血を入れていたビニール袋を風呂場で洗った後、首を入れていたビニール袋に男児の首をあらためて入れた。首は友が丘中学校の正門前にさらすつもりであったが、人目を避け、深夜に持ち運ぶつもりで、その間、自室の天井裏へ隠した。少年の部屋の天井は片隅の天井板が自由に動く構造になっていた。その後、少年Aはベッドに横になり、思いをめぐらすが、男児の首を校門へ置くだけでは警察の目を自分から逸らすには物足りないため、さらに捜査をかく乱する方法を考えた。すぐによい方法は思い浮かばなかったものの、その日の夜までに少年Aが考え付いたのは男児の首に何かを添えればよいということだった。そう考えたとき、男児の口が開いているため、添える物は口にくわえさせようと考えた。加えさせるものは何がよいかと考えていくうちに、手紙が一番だと考えたが、その理由は「偽りの犯人像」を表現するには、手紙が一番表現しやすいと思ったからである。

その日の夕食は家族とともに食べたと思うが、はっきりとは覚えていないと供述(1997/7月10日)している。夜になり、手紙にはどんなことを書くべきか自室で考えた。これまで読んだことのある本の中から覚えている言葉や自分で頭に浮かんだ文章等を思い浮かべたりしたが、さらにインパクトのある表現が必要と考えた。そこで、自室にあった漫画本の内、『瑪羅門の家族』第3巻の目次に「積年の大怨に灼熱の裁きを」という文章が目に入ったが、この文章をみた少年Aは「積年の大怨」ということになれば、長年積もり積もった恨みを持った者の犯行と読んだ人間は思い、そうなればある程度歳のいった者の犯行と思われるのではないかと考えたため、この文章を使うことにした。ただ、「灼熱の裁きを」というところは別に男児の頭を焼いたわけではないので、イメージに合わないと思い、むしろ、血を連想するのがイメージに合うと考え、「流血の裁きを」という表現にしようと考えた。

さらに、
1997/7月10日の少年Aの供述はこう続く。

「そして、僕が考えた文章は、今でもよく覚えています。僕が書いた文章については、赤のペンと黒のペンで書きましたので、それぞれのペンを貸してくれれば、僕が書いたとおりに再現することができます」 (このとき、担当検事は、少年Aに対し、白紙とサインペンを渡したところ、任意に文章を作成したので、それを受け取り、資料1ッとして、この調書の末尾に添付することにした)

👇1997/7/10に少年Aは検事の前で以下の様に、再現して紙に書いた👇
《だが・・<大怨>であるのに、[大恐]と書いてしまう》


さあ ゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
僕を止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大恐に流血の裁きを⇔<大怨>

SHOOLL KILL⇔⇔KILLER⇔
学校殺死の酒鬼薔薇



「今書いたように、土師淳君の口にくわえさせる文章を書きました。なお、この文章の中で、『愚鈍な』という文字は、僕が別の本で読んで覚えていた文字であり『積年の大恐に流血の裁きを』というところは、先程話したように、『瑪羅門の家族』というマンガの本の第3巻の目次のところをそのまま書き写したのです。今書いた文章だと『恐』という文字を書きましたが、僕自身、この時はそのマンガを見ながら書いたのであり、僕が覚えていた字ではなかったので、間違っているかもしれません」

この時・・・
▽検事は少年Aに質問する。
「『汚い野菜』という表現は、どういうところから考えたのか」

▽少年A
「これは僕自身の言葉です。僕は小さい頃、親に『運動会で緊張するなら、周りの人間を野菜と思ったらいいよ』と言われていました。そこで僕は、周りの人間が『野菜』に見えてしまうのです。その他、ほとんどの文章は、僕は頭で考えたものであり、テレビで言っているような、何か小説から引っ張り出したといったものではありませんでした。この手紙には、マークを書いていますが、これは僕のマークであり、ナチスドイツの逆卍をヒントにしたものです。ナチスドイツの逆卍については、テレビでも見たことあるし、僕自身ヒットラーの『我が闘争』という本を読んでいました。この僕のマークは、小学校の頃に作ったものです。
英語でSHOOLL KILLと書きましたが、その時僕は、これでスクールキラーと呼ぶものだと思っていたので、このように書いたのです。
この手紙を書いた用紙は、部屋にあったスケッチブックに書きました。この手紙を包んだ紙も、同じスケッチブックの紙でした。包んだ紙の表の面には、『酒鬼薔薇聖斗』と赤いペンで書き、その名前の下に同じマークを黒のペンで書きました。裏の面には何も書きませんでした。
『酒鬼薔薇聖斗』とは、
別の機会で話したように、僕が小学校5,6年生の頃に、悪い方の僕自身に付けた名前でした。
『酒鬼薔薇聖斗』についてもマークを作っていました。そのマークは(調書にはその絵が添えられている)でした」

▽検事
「酒鬼薔薇聖斗のマークもあると言いながら、なぜこの時は君のマーク(逆卍風車)を付けたのか」

▽少年A
「分かりません。これらの文章は、5月26日の夜、僕の部屋で一気に書きました。なお、この文章を書くのに利用した『スケッチブック』や『瑪羅門の家族』の第3巻は、後で燃やしたと思います。このようにして、僕は、警察の捜査を撹乱させる目的で、土師淳君の頭部の口にくわえさせる手紙を完成させました。僕は、土師淳君の首を友が丘中学校の正門に置きに行くためには、家の者が寝静まった夜中がいいと思いましたので、夜中になるのを起きて待ちました。そして正確な時間は覚えていませんが、平成9年5月27日の午前1時頃から午前3時までの間に、土師淳君の首を置きに行ったのです」

この日、男児の行方不明事件として警察が捜索開始。

▼1997/5月27日
少年Aは、深夜未明、男児の首を友が丘中学校の校門前に置きに行くために、自室の天井裏に置いていた黒色のビニール袋を取り出す。さらに、男児の首にくわえさせる手紙をジーパンのポケットに入れる。ビニール袋は補助カバンに入れるた。少年Aの部屋は2階にあるため、1階に下りるには階段を下りねばならない。同じく7月10日の少年Aの供述によれば、

「しかし、僕の家の階段は、上り下りすると『ギー』という音がしますし、両親の部屋は、その階段のすぐ側なので、階段を下りて行けば、両親に見付かってしまう可能性があると思いました。そこで僕は、僕の部屋の窓から外へ出ることにしたのです。でも、重たい淳君の首を持ったままで、窓から外へ出るのは難しいと思いました。そのため、僕は、僕の机の中から電気コードを2,3本取り出し、それをつないで、片方の端を土師淳君の首を入れている補助カバンにくくりつけ、それを庭まで降ろしました。その後、今度は僕が窓から降り、先に降ろした補助カバンを持って、自転車置き場まで行き、僕が使っているママチャリの前のカゴの中に、その補助カバンを入れました。そして、ママチャリに乗って、友が丘中学校の正門に向かって行ったのです。僕の家から友が丘中学校の正門までの道順については、今、検事さんから受け取った地図に赤のボールペンで書き込みました」

(この時、担当検事は、
少年Aが任意に作成し、提出した図面を受け取り、資料二として本調書末尾に添付する事にした)

「友が丘中学校の正門の手前は、今地図に書いたように、車道ではなくて、歩道を通って行きました。僕の家を出た後、友が丘中学校の正門までは、誰とも会いませんでした。・・・~・・・」

「・・僕が、友が丘中学校の正門前に来て、自転車を停めた後、自転車の前カゴに置いていた補助カバンの中から、淳君の首を入れた黒色のビニール袋を取り出したのか~とにかく淳君の髪の毛を持って、その首を取り出しました。中学校の正門は、図面に書いたように、右側に塀があり、その左側に横に押す鉄の扉がありますが、その扉は閉まっていました。僕は、まず正門の右側の塀が目に入ったので、その塀の上に淳君の首を置くことにしました。

僕は、
■淳君の頭部の首付近を両手で持って、《背伸びをしながら》■
その塀の上に淳君の首を置きました。
そして、塀の上に置いた首が、どの様な感じに見えるのかと思い、
2~3歩後ろに下がって、淳君の首を見たのです。
ところが、その時、淳君の首の据わりが悪かったのか、淳君の首が手前に落ちて、地面に落ちました。僕は、まさか淳君の首が落ちるとは思っていなかったので、一瞬淳君の首が塀の上から消えたと思い、下を見ると淳君の首がありました。地面に落ちた時に、音はしたと思います。

そこで、僕は、淳君の首をどこに置こうかと考えまたが、正門の前だと、一番目に付くところだと思いましたし、地面の上ならば据わりもいいだろうと思い、淳君の首を持って、正門の鉄の扉の中央付近に、顔を道路側に向けて淳君の首を置きました。
淳君の首を置いた後、僕は、ジーパンのポケットに入れていた手紙を取り出し、淳君の口にくわえさせました。手紙の向きは、丁度酒鬼薔薇聖斗という文字が見えるように、縦にくわえさせました。
「酒」という文字の方を口にくわえさせたのです。
そのくわえさせた様子を僕は5~6分位眺めていました。その間、僕は、学校の正門前に首が生えているというような「ちょっと不思議な映像だな」と思って見ていたのです。

淳君の首を5~6分位眺めた後、僕は、再びママチャリに乗って家へと帰りました。
家に帰った後は、やはり家の側にある鉄の棚を利用して、窓から2階の僕の部屋へと戻りました。
部屋に戻った後は、眠たくなかったので、朝まで起きていました。

▽検事「5月27日午前5時頃に、中学校の正門に来た人が、淳君の首はなかったと話しているようだが、その点はどうか」

▽少年A「単なる思い違いです。何故なら、僕の親は、午前5時頃には、台所にいるので、とてもその様な時間帯に淳君の首を持って家を出ること等不可能なのです。少なくとも午前3時頃まででなければ、親に知られずに行動することは出来ないのです。従って、淳君の首を正門前に置いたのは、遅くとも午前3時頃までだと思います。
その後、5月27日のテレビを見ていると、その日の内に淳君の首が発見されたことが分かりました。淳君の首が発見されるように置いたのですから、その点については、当たり前のことなので、何とも思いませんでした。

ところが、その後、その日の内に、「タンク山」のケーブルテレビアンテナ施設の「局舎」の床下に隠していた淳君の胴体部分も発見されたのです。このニュースを見た時は、正直言って、「早すぎる」と思い、びっくりしました。僕は、今回の事件を起こす前から、いつも新聞の番組欄と三面記事の欄は見ていましたので、今回の事件を起こした後も、新聞記事を読んだりしました。また、テレビ等も見たりしたのですが、連日、淳君の事件の報道は、大きくなされていました。それらの報道を読んだり見たりした僕は、

僕が思った通りに、マスコミは、
➊犯人像を30代から40代の男としたり、
❷黒のブルーバードが目撃されたとか、
❸犯人は××(A自宅近辺)地区以外の人間である等と報道していました。

しかも、その報道の内容は、ほとんど嘘でした。
ここまで上手く行ったので、そうなると僕は、今後何をしても、僕が犯人だということは分からないだろうと思うようになりました。はっきり言って、調子づいてしまいました。
そこで、僕は、新たに「神戸新聞社宛の手紙」(第二の声明文)を書くことにしました・・・」

ーーーーーーーーーーーーーーーー

■1997/5月27日早朝■
2枚の紙片(犯行声明文)が添えられた被害男児の頭部が市内の友が丘中学校正門前で発見される。紙片のなかで、少年Aはみずからを「酒鬼薔薇聖斗」と称し、捜査機関などに対する挑戦的な文言をつづっている。

警察は記者会見で、
「酒鬼薔薇聖斗」を「さけ、おに、ばら…」と文字ごとに分割して読み、何を意味するか不明と発表、報道機関も発表と同じ表現をした。


■テレビ朝日の特別報道番組でジャーナリストの【 黒田清 】が ■
「サカキバラセイトという人名ではないか」と発言。

これ以降、マスコミや世間でも「さかきばら・せいと=人名」という解釈が広がった。
犯人が未成年で本名が公開されなかったことから、事件解決後の今でも、
この事件の犯人を「酒鬼薔薇」または「酒鬼薔薇聖斗」と呼ぶ人もいる。


1997/6月4日、神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。内容はこれまでの報道において「さかきばら」を「おにばら」と誤って読んだ事に強く抗議し、再び間違えた場合は報復する、としたものだった。また自身を「透明なボク」と表現、自分の存在を世間にアピールする為に殺人を犯した、と記載している。この二通目の声明文には校門前で発見された男児に添えられていた犯行声明文と同じ文書が同封されていた。最初の犯行声明文は一部文面を修正した形で報道されていたが、神戸新聞社に届いた声明文に同封されていた犯行声明文の一通目には、修正前と同じ文章で同封されていた。具体的には、遺体と共に発見された文面の5行目は「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だが、「人の死が見たくてしょうがない」と変更して報道された。神戸新聞社に届いた文面には、事件に関わった人物しか知ることができない「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と書かれていたため、この声明文はいたずらではなく犯人によるものだと確定された。いわゆる秘密の暴露である。

■■1997/6月28日、少年A逮捕■■

少年A逮捕以降の動き
・6月29日、兵庫県警捜査本部は、少年Aを男児殺害・死体遺棄容疑で神戸地検に送検。10日間の拘置が認められる。
・6月30日、頭部を一時、自宅に持ち帰ったなどの供述が報道される。
・7月1日、頭部切断は儀式とする供述が報道される。
・7月2日、少年Aの顔写真が掲載された『フォーカス』が発売される。犯行の経緯について「カメを見せる」と誘ったなど供述が報道される。
・7月6日、兵庫県警が向畑ノ池の捜索で、金ノコギリを発見。その様子が報道される。
・7月8日、拘置期限が切れたこの朝、地検は拘置延長を請求。神戸地裁は10日間の拘置延長を認める。池からハンマーが発見される。
・7月9日、別のハンマーが向畑ノ池で発見される。
・7月11日、少年Aをバスに乗せ、タンク山とその周辺を実況見分。
・7月15日、2月と3月の通り魔事件で少年Aを再逮捕。
・7月16日、午前に捜査本部は通り魔事件で少年Aを送検、10日間の拘置請求が地検で認められる。
・7月17日、少年宅から押収された犯行メモの内容が報道される。
・7月21日、警官2名が、少年Aの二人の弟に対し、少年Aが再逮捕された通り魔事件について、Aの学校での行動、言動などを聞く。特に少年Aの母方の祖母の死の前後の様子を執拗に尋ねる。
・7月24日、警官が少年Aの両親に対して、被害者側に対し電話なり、詫びをすることを促す。この際、警官は「誤認逮捕はありえない。もし、誤認逮捕であれば、兵庫県警は今後存続しないでしょう」と話す。

少年Aの犯行時の心境
▼1997/5月24日の第3の犯行時、男児を殺しているときは、一生懸命殺そうとしているにもかかわらずなかなか死なない男児に対して腹が立ったりしたものの、同時に男児を殺しているという緊張感、あるいはなかなか死なない怒りなども含めて、殺していること自体を楽しんでいた。最終的に男児が死んだと分かったときには、殺したことと男児が自分だけのものになった満足感でいっぱいになり、その満足感は過去2回の殺人で得られるであろうと思っていた満足感よりももっとすばらしいものであった供述。

▼1997/3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で女児2人を襲った際には、後日、ハンマーで殴った女児が死んだことを知ったが、一瞬のことなので大きな満足は得られなかった。男児の場合は殺すのに時間がかかったため、それだけ大きな満足感を得ることができた。しかし、男児を殺した満足感もあまり長続きはせず、死体をどこへ隠そうかと考え始めた時には、はや満足感は消滅していた。

■その後の少年Aの処遇

・1997年10月13日、
神戸家庭裁判所は少年Aを医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移される。
・1999年、
第2の事件で死亡した女児の遺族と少年A側で約8,000万円の慰謝料を支払うことで示談成立。
・2001年11月27日、
治療が順調であるとの判断から、東北中等少年院に移る。
・2002年7月、
神戸家庭裁判所は、治療は順調としながらも、なお綿密な教育が必要として、収容継続を決定。
・2004年3月10日、
成人したAは少年院を仮退院。この情報は法務省を通じ、被害者の家族に連絡された。
・2005年1月1日、Aの本退院が認可される。
・2005年5月24日、
被害者少年の八周忌。Aが弁護士を通じて、遺族に献花を申し出ていた事が明らかになる。遺族は申し出を断った。
・2007年3月、
第2の事件で死亡した女児へ、医療少年院退院後、初めて謝罪の手紙が届けられた。
しかし遺族は「必死に生きようとする姿が見えてこない」と賠償についても疑問を投げかけた。

■遺族への慰謝料は、
Aの両親が出版した本の印税の他、
1ヶ月にAから4,000円と両親から8,000円支払われていると報道された。

■少年Aに関するエピソード
少年Aが在籍していた友が丘中学校の当時の校長である
【 岩田信義 】は、少年Aには問題行動、正確にいえば、風変わりな行動が多かった
と証言している。

他の生徒の靴を隠して燃やす、ラケットで何もしていない生徒の頭を叩く、カッターナイフで他の生徒の自転車のタイヤを切るといった行為があったといわれ、少年Aが在籍していた小学校からは「刃物を一杯突き刺した不気味な粘土細工を制作していた」という報告を受けたという

担任の話によると、少年Aの表情は総じて動きに乏しく、注意しても教員の顔を直視することがなく、心が別のところにあり、意識がずれ、言葉が届かない感じを受けたという。

しかし、これら少年Aの行動は思春期前期の子供にままみられるパターンであり、非行と奇行のはざまにある行動だと岩田は指摘している。

中学校では入学早々から繰り返される少年Aの問題行動に手を焼いていた。Aの保護者も精神科医に診察を受けさせていたが、精神科医は学校の中で指導する方がいいという判断を下し、児童相談所には通所させなかった。それを受けて、学校は重点的に少年Aを指導し、事実、1年生の2学期になると問題行動は減ったという。

それでも、教員の一部にはうちの学校で事件をやったとするならば少年Aではないかという認識が煙のように漂っていたという。岩田はそういう話を聞くたびに「軽々しく口にすべきではない」と静止したが、岩田も「ひょっとしたら」と思っていたという。

▼1996年5月11日、当時、中学2年生の少年Aは母の日のプレゼントに母の花嫁姿の絵を描いて渡す。前日に「母さん、何がほしい?」と聞く少年Aに、母は「気持ちさえこもっていたら、別に何でもええよ。無理せんで」と答える。すると、少年Aは両親の結婚式の写真を押入れから出すと、「母さん、この女の人、誰や?」と問うので、「母さんなんやけど」と答えると「へー」といって、少年Aはその写真を見た後、マンガ用の画用紙の裏に一気にその絵を描き上げ、母に手渡すと、スーッと2階へ上がっていった。少年Aが母にプレゼントをしたのはこれが初めてであった。

事件前の少年Aの自宅の斜め向かいの家の雨樋にはいつも石がたくさん詰まっていたが、これは少年Aがネコめがけて投げ付けていたものが溜まったものであった。ところが、少年Aの母はそんなこととは露知らず、隣人に知らせ、親切にも自宅の2階に案内し、そこからわざわざみせていた。近所では少年Aが投げ付けた石であることをほとんどの人が知っていたが、この母だけが知らなかった。

少年Aは、第3の事件の犯行の9日前の5月15日から、友が丘中学校には登校せず、母親とともに神戸の児童相談所に通い始めていた。これは、5月13日に同級生を公園に呼び出し、自分の拳に時計を巻き付けて殴り、歯を折るなどの怪我を負わせたため、5月14日に学校から父親が呼び出しを受け、その後、両親が相談の上、学校を休ませ、児童相談所を紹介してもらったためである。暴行の原因は「少年Aが身体障害者の子供をいじめていた」と被害者の同級生が塾でいいふらしていたためと少年Aは答えているが、少年Aは「犯行ノート」に「アングリ(聖なる儀式)」を遂行する第1弾として学校を休むことにした」と書いていた。

▼1997/7月24日、警官が少年Aの父に対し、被害者への謝罪に関し、たずねた際、
警官は少年Aの父に対しこう質問した。
「お父さん、2月10日、3月16日の被害者の名前はご存知ですか?」
これに対し、少年Aの父は答えられなかった。

■マスコミ報道の様子
被害少年の首が学校の校門に晒されるという猟奇的な事件であった点から、マスコミはこの事件の報道を連日行った。この事件は海外においても報道の対象になっている。

当初マスコミは、頭部が発見された早朝に中学校近くをうろついていたとされる「黒いポリ袋を持った20代から30代のがっしりした体格の男性」について繰り返し報道していた。
各マスコミは犯罪心理学者や作家にプロファイリングを行わせたが、犯人が未成年男子であるという分析をしたのは「16歳から23歳くらいの男性」としたロバート・K・レスラーのみであり、14歳という年齢は誰も的中しなかった。
犯人逮捕後、マスコミ取材はますますエスカレートし、一部には、少年Aの写真を同級生から高額で買い取ったり、関係者や近隣住民にしつこくインタビューを求めるなど報道被害と批判される行為を行った。これら一連の取材合戦について、後に産経新聞が「命の重さ取材して~神戸・児童連続殺傷事件」(産経新聞大阪本社編集局)で批判と自戒の総括を行っている。
また、少年A逮捕を伝える臨時ニュースで、須磨警察署前のテレビカメラに向かって、地元の少年らが笑顔でピースサインする姿にも批判の声が上がった。

■少年の情報漏洩騒動
少年法61条に、「家庭裁判所の審判に付された少年犯の氏名、年齢、住所、容貌などが明らかとなる記事や写真を、新聞および出版物に掲載してはならない」と制定されている。だが「審判に付される前」を狙って、新潮社が少年の顔写真を掲載した雑誌を販売。これ以降、新潮社の雑誌では少年の情報漏洩が続いた。

写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』(1997年7月9日号)に少年の顔写真と実名が掲載されることが判明すると、直ちに大半の大手業者は販売を自粛決定したが、新潮社は回収せず販売を強行、一部の書店で販売された(即刻完売)。さらに翌日、『週刊新潮』が少年の顔写真を目隠し入りで掲載して販売。翌日、法務省が『FOCUS』および『週刊新潮』に回収勧告するが、双方は拒否。『FOCUS』発売直後、ウェブサイトで犯人の顔写真が数多く流布された。

また、審判終了後、『文藝春秋』(1998年3月号)に、検事供述調書が掲載される事が判明。一部で販売自粛、各地の公立図書館で閲覧停止措置となる。後の法務省の調査で、供述調書は革マル派が神戸市の病院に侵入してコピーしてフロッピーディスクに保存していたことが判明。塩田明男が逮捕された。立花隆は、これを雑誌に掲載するか否かについて当時の編集長平尾隆弘から緊急に相談を受け、2時間で7枚に及ぶ調書を精読、「どんなことがあっても掲載すべき」との判断を下す。少年法61条に抵触するか否かについては、この法令が報道することを禁じているのは、あくまで、本人のアイデンティティを推知できるような要素であって、それ以上ではない-従って、この調書を載せること自体は少年法61条に抵触することは全くないと判断。掲載を推薦し「文藝春秋」(1998年3月特別号)に掲載された。立花隆自身バッシングが起こることは確実と予想してのことであった。 立花は『FOCUS(フォーカス)』に少年の顔写真と実名が掲載されたことについては、別の理由から反対している。

その後も『FOCUS』には、少年の犯行記録ノートや神戸市教育委員会の指導要録など、本来なら外部に流出するはずのない資料が次々と掲載された。

■被害者側の人権
特に、この事件をきっかけにして、大きくクローズアップされだしたのが、被害者側の人権問題であった。これまでも、この種の少年犯罪による事件では、犯罪者側の人権は十分に保護されるにもかかわらず、被害者側は個人のプライバシーまで暴き出され、マスコミからもさまざまな迷惑や圧力を蒙ることが問題視されてきたが、特に世間が大きく注目したこの事件がきっかけとなり、その後、多少の変化の兆しが見られるようになった。また、被害者側の働きかけにより、この事件の審判の過程においても異例の措置がとられるなど、司法側にも幾分の配慮が見られた。

■少年法の壁
いわゆる少年事件では加害者の住所氏名すら被害者に伝えられず、審判は非公開でどんな事実認定がなされたかすら知るよしもない。それは、わが子を失った親が、「子供はどれほど苦しんだのか。何か言葉を残したのか。そして、目は閉じていたのか」(土師守『淳 それから』)すら知りえるすべがないということである。加害者が嘘をついたり、被害者に対し中傷したとしても、被害者側は反論や否定すら出来ない上、処分が出てもその内容すら知りえない。被害者側は完全に蚊帳の外に置かれる。第三の事件の被害者の父とその弁護人である井関勇司が取り組んだのは、まず「少年審判への関与と情報開示の要求」であった。そのため、まず担当判事である井垣康弘に要求したのは「加害者の法律記録および社会記録(鑑別結果、調査票など)を見せてほしい」ということであった。これらは、加害者側の弁護人には閲覧や謄写が認められているが、加害者側の弁護人には認められていない。従って、この要求に対して井垣判事は拒否した。また、「遺族に審判廷で意見を述べさせてほしい」との要求も行ったが、これも否認された。これに対して「それならば、少年は退廷させてからでいいから、審判廷で意見を述べさせたい」との要求を行ったが、これも却下された。しかし、その後の粘り強い井関弁護士の交渉が実を結び、最終的には、公式の審判では無理だが、判事室で判事が被害者遺族に会って話を聞くということになった。これは、画期的な異例の事態であった。

この「異例の意見聴取」は、第4回審判が開かれたのと同じ10月13日、約30分間にわたって行われた。17日には神戸家庭裁判所での最終審判で、少年Aの医療少年院送致宇の保護処分が決定したが、家裁は「正確な報道のための資料提供の観点から」という理由で「処分決定の要旨」をマスコミに公表した。これはあくまでもマスコミに向けたものであって、被害者へはあくまでもマスコミを通して知らされた。言うまでもなく、それまでも事件に関する情報は、被害者側が知るルートはすべてマスコミであった。

■マスコミによる暴力
上記のごとく、被害者側が知りえる事件の情報はすべてマスコミを通じたものであったが、同時に被害者はマスコミから24時間監視され、多大な苦痛を味わっている。特に猟奇的な犯行であった第三の事件では、犯人が逮捕されるまでは、被害者宅に数多くのマスコミが張り付き、周囲の道路は違法駐車の車で交通渋滞ができ、被害者宅ではカーテンすら開けられない状況が続いた。かつ、犯人は両親ではないかとの憶測すら乱れ飛んだ。土師守はこれを「マスコミによる暴力」と表現した。また、1999年2月10日には、文藝春秋社から、犯人の供述調書(検事調書)7枚分が掲載され「少年Aの全貌」という見出しの『文藝春秋』3月号が発売された。事前に警察からこの情報を聞かされていた土師守は勤めている病院の売店で買い求めるが、最初の解説の部分を少し読んだだけで、その後の記事は読んでいない。奇しくもこの日は、被害男児の誕生日でもあった。弁護士の井関勇司は「遺族の心情を考慮すると問題だ、興味本位で読まれるのはつらい」と土師にかわってコメントを発表した。

■民事告訴
1998年8月26日、第3の事件の被害者の両親は、少年Aおよびその両親に対して総額1億4000万円の支払いを求める民事訴訟を起こす。訴訟に先駆け、弁護人である井関勇司らによって、少年Aの両親の資産状況が調査されたが、すんでいた家屋も借家で、支払能力なし、との判断であり、また訴訟に対して犯人の両親は事実関係をすべて認めるとの意思を示していたため、争点にならず、開示も期待できない状況であったが、「裁判所という公式なものの中で、きちんと犯人の両親の責任を認めてほしい」という2人の強い意志により、訴訟は起こされた。途中、和解勧告が出されたものの、成立せず、
1999年3月11日に全額の支払いを命ずる判決が出た。両親は、「現在の法律では、少年犯罪の場合、その責任の所在と償いということがうやむやになっている場合が多いが、その意味においても、この判決は意義のあるものだと思います」とのコメントを出した。

このしばらく後に、少年Aの両親が手記を出版することになった
(『「少年A」この子を生んで…父と母悔恨の手記』 文藝春秋)。
被害者の両親の疑問に答えること、賠償金支払いの目的などがあったとされるが、
被害者側の土師は不快に感じ、出版の中止を望んだ。

◆少年Aの母が2002年5月に少年Aと面会し、★冤罪の可能性★について尋ねた際、
彼Aは「それはありえない」と語っている。

現在の支払額は、
少年A=毎月4000円
両親=毎月8000円

14000万/1万2000≒11700ヶ月≒972年間≒1000年完済

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20011文字数

第1種=人体切断=酒鬼薔薇事件
第2種=人体解体=平岡都事件
第3種=人体αβ=γδω事件⇒未だ現在日本で発生してない。

■神戸連続児童殺傷事件、元少年Aが[絶歌ゼッカ]手記出版(太田出版)■
2015/6/10朝日新聞

1997年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の加害男性A(32)が、
▼「元少年A」の名▼で手記「絶歌ゼッカ」(太田出版)を出す。

犯行に至った経緯や事件後の生活、現在の心境などをつづっている。
2015/6/10から書店に並んだ。

太田出版の岡聡社長は、
「少年犯罪が社会を驚愕(キョウガク)させている中で、彼Aの心に何があったのか社会は知るべきだと思った」と出版の意図を説明。
「本は本人Aの手紙を添えて遺族に届けたい」と話している。

当時14歳だった元少年Aは、1997年2〜5月に同じ区内に住む児童5人を襲い、
・小4の女児と小6の男児を殺害、
・3人に重軽傷を負わせた。

事件は社会に大きな衝撃を与え、
刑事罰の対象年齢を16歳から14歳に引き下げる少年法改正のきっかけにもなった。

・手記(絶歌)は全294ページ。
・手記の帯には<1997年6月28日。僕は、僕ではなくなった。>と記載。
・扉のpageにA3歳の頃、祖母と撮ったという写真を載せている。
<どうしても処分できなかった>と、1枚だけ持っているA自身の写真という。
・「精神鑑定でも、関東医療少年院で受けたカウンセリングでも、
ついに誰にも打ち明ける事ができず、
20年以上もの間、心の金庫に仕舞い込んできた」
として事件前からの性的衝動を明かし、犯行に至るまでの自身の精神状況を振り返っている。

また後半では、
2004年3月に関東医療少年院を仮退院後、家族と離れて身元を隠し、
溶接工や日雇いアルバイトで、◆《1人で暮らしていた》◆事を書き記している。
現実社会の厳しさに直面しつつ、周囲の人々の支えによって罪と向き合う姿がつづられる。
一方で
「自分の物語を自分の言葉で書いてみたい衝動に駆られた」などとして、
書く事が生きる支えになっていた事も明かしている。
巻末では
「被害者のご家族の皆様へ」と題し、「どれほど大切なかけがえのない存在を、
皆様から奪ってしまったのかを、思い知るようになりました」とつづった。

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[太田出版=資本金4200万円・設立1985年・社員数23名]
講談社etcなどの大手出版社でなく、ココになった理由がある。
大手出版社であれば、人の出入りも多く・自己中で進められない~
影忍者のお忍び原稿打合せであっても、妖怪神出鬼没で思惑通りに行くにはキケン
スマホで盗撮されるキケン性・顔/風貌が他人に見られnet発信キケン性
➽当初は幻冬舎でボッ➽太田出版社へタライ回しで発売

●手記の帯には<1997年6月28日。僕は、僕ではなくなった。>と記載されている●
このコトバがAのすべての凝縮した答えだ。
【1997/6/28の意味➽Aが兵庫県警に逮捕された日】
【自己自由が奪われ・上手く逃げ切れなかった日に執着している➽殺す側の悔しさ】

・1997/6/27以前=僕は、僕であった=暴沸する間歇泉を沈めるが如く、自由に人を殺せた
・1997/6/28以降=僕は、僕ではなくなった=冷たい鉄格子に入れられ~解き放されたるも、
白夜に生き続ける・・吹き上がる血潮を、ただタダ垂れ流す日々・・
この僕を、誰が救済をしてくれとぞ!!
僕は、僕であり続ける、その日が来るまで・・

但し➽絶歌では<6/28にモンスターになり名前を失った日>と説明変換している。
太田出版社は販売継続(目先の儲かる中国的ビジネス)で、好調に売れている。

【絶歌の評価方法】
➊1年後or2年後にBOOKOFFで108円でゴミ本として投げ売りされていれば
➽単なる週刊誌的に読まれただけ~1度読んだらもう読み返す事のしない破棄本
❷3年後でもBOOKOFFに108円で投げ売り本として並んでいなければ
➽まさに、書物として買われた事になる。2度目を読まなくても家に保管したい本となる。
❸絶歌の評価は、BOOKOFFがリトマス試験紙である。

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◆1997年5月27日早朝、
神戸市須磨区の中学校正門に、
切断された男児の頭部が放置されているのを通行人が発見し、警察に通報。
◆1997/5月24日から行方不明となっていた近隣マンションに住む11歳の男児(土師淳)の頭部とわかった。
耳まで切り裂かれた被害者(淳)の口には、
「酒鬼薔薇聖斗」名の犯行声明文が挟まれており、
その残虐さと特異さからマスメディアを通じて全国に報道された。
◆1997/6月4日に犯人から第二の犯行声明文が神戸新聞社に郵送され、報道はさらに過熱。
◆1997/6月28日に兵庫県警の捜査により、犯人[A少年14歳]逮捕。

2004年3月、仮退院[関東医療少年院・当時の院長=杉本研士(精神科医)]した後、
2005年1月、に本退院[関東医療少年院]となって社会復帰した➽100%完全自由の身!!!

▼殺害された児童▼
・土師ハセ守(59)の次男⇔土師淳[小学6年生11歳]
・山下京子(59)の女児⇔山下彩花[小学4年生10歳]

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▼山下彩花・山下京子への慰謝料=8000万円[1999年示談成立]
▼土師淳・土師守への民事訴訟賠償額=1億4000万円[1999年判決]

➊男性Aの両親が1999年に出版した
《『少年A』この子を生んで…父と母悔恨の手記》(文藝春秋)
の印税は慰謝料に充てられた、
❷他に当初、A両親が毎月8000円、男性Aが毎月4000円を遺族に支払っていた。

❸Aの両親は退職金や手記本『「少年A」この子を生んで……』の印税などで、
これまで約8700万円(2015)を返済。
Aの仮退院後も返済を続け~~
2015直近で毎月7万円(Aが1万円+両親が6万円)を支払っていた[週刊朝日2015/6/26号・.dot]。

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神戸連続児童殺傷事件から18年…酒鬼薔薇聖斗が「自己救済」手記
2015/6/11スポニチ

今年2015/1月の段階で、手記が出されるとの情報が流れ、
遺族は「本当ならば被害者や遺族をないがしろにしている」と反発。
「ウソであってほしいと願っている」としていただけに、議論を呼びそうだ。

太田出版の岡聡社長(54)は6/10、男性A32が自ら出版を希望した事を明かした。
今年2015/3月初めに仲介者(見城徹)を通じて連絡があり、直接会って手記の草稿を受け取ったという。
被害者遺族に知らせないまま刊行し、初版は10万部。
◆印税については通常通りの契約をしており、男性A32に入る(太田出版営業部/取締役落合美砂)◆
その後の使途については明らかにしていない。

絶歌ゼッカ手記は、
男性Aが関東医療少年院に入院するまでと、
仮退院以降の生活についての2部構成。
1部では、犯行に至るまでの性的衝動や動物への残虐行為などを回想。
2部では、2004年3月の仮退院後にアルバイトや溶接工として働いた事に触れている。

男性A32は、
「自分の過去と対峙し、切り結び、それを書く事が、僕に残された唯一の自己救済」
だったと執筆の理由を説明。

最愛の祖母をA小学5年の時に亡くし、寂しさから祖母の部屋へ通う内、
祖母が愛用していたマッサージ器を使って精通を経験した事などを告白する描写もある。

➽祖母の死後、押し入れから愛用の電気マッサージ器を見つけた少年A、
《祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら~
祖母の愛用していた遺品で、祖母の事を思いながら、精通を経験した》という。

「酒鬼薔薇」は、Aの自作漫画に登場するキャラクターの名前だったとしている。

☆酒鬼薔薇=榊原(中学校女教師)☆
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👇犯罪・罪を本にして、元犯罪者がカネ・儲けるのは許されるのか!!の問題👇
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酒鬼薔薇事件で注目【サムの息子法】は日本にも導入できるのか?
2015/6/15[シェアしたくなる法律相談所/星野宏明弁護士]

酒鬼薔薇事件の加害者(通称=少年A)が現在の心境や、当時の精神状態などついてつづった手記が発売され、波紋を広げています。
特にに注目されているのは、数千万円にもなる可能性があるといわれている印税の行方です。
一部では慰謝料に充てるのはないかともいわれていますが、

◆犯罪者が自らの罪を商業的に利用する事、自体が問題視されている側面もあります◆

そして、この問題で注目されている法律があります。
それは《サムの息子法》と呼ばれるニューヨーク州の法律です。
この法律はなぜこのタイミングで注目されているのでしょうか。
そして、この法律は日本に導入する事は可能なのでしょうか?

■《サムの息子法》の内容■

ニューヨーク州の「サムの息子法」と呼ばれる法律は、
犯罪者が手記を書くなどして当該犯罪行為を基に収入を得た場合、
遺族など被害者側の申立てにより、手記出版による収益を取り上げる事ができるというものです。

➽1976年に、大手出版社がニューヨークで起きた【連続殺人事件の犯人】に
手記を書かせて売ろうとした事がきっかけで制定されたものです。

その後、
➽1984年に連邦レベルでも犯罪被害者法が制定され、
出版による収益だけでなく、没収された保釈金や犯人の差押財産も基金として
遺族や被害者のために分配される仕組みができました。

■日本にも《サムの息子法》を導入できるか?■

今回、酒鬼薔薇事件の犯人による手記出版に対し、遺族被害者が、差し止めを求めていますが、
日本でも導入する事は憲法上可能だと考えます。

➊導入する際に最大の問題となるのが、憲法が保障する表現の自由との関係です。
憲法が保障する表現の自由により、たとえ犯罪者による事件に関する出版であっても、
原則として国家(政府・裁判所)は制限できません。
もっとも、
他人のプライバシー侵害や名誉棄損を伴うものは例外的に差し止めできる場合がありますし、
いかなる時も表現行為を絶対的に抑制できないわけではありません。

犯罪加害者による出版である事だけを理由として、事件関係の出版を一律に禁止する法律は、
規制範囲が広範になりすぎるため、憲法違反のおそれがありますが、
アメリカの《サムの息子法》と同様、出版行為を認めた上で、
印税など犯人が出版により得る収益を没収するという内容であれば、
表現の自由の問題をクリアする余地はあると思います。

❷厳密にいうと、憲法上は、犯人の収益没収による財産権侵害についても問題となります。

これまで憲法学でも深く議論されていない問題ですが、
出版行為自体は認めた上で、収益没収も全額ではなく、例えば70%~90%没収とするなどすれば、
違憲を回避することは十分可能だと思います。

《サムの息子法》は、
アメリカでも無制限の出版制限は表現の自由を定めた合衆国憲法に違反するとして、
制限内容を限定するよう判例で指摘されました。

日本で導入する場合も、正面から憲法の➊表現の自由や❷財産権侵害が問題となりますが、
犯罪被害者保護の重要性が認知されつつある昨今、今後議論を深めていく価値がある論点だと思います。

△弁護士/星野宏明=星野法律事務所△
顧問法務,不動産,太陽光自然エネルギー,中国法務,農業,不貞による慰謝料,外国人の離婚事件等が専門
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↑アメリカ・ニューヨーク州【サムの息子法】↑

サムの息子=デヴィッド・リチャード・バーコヴィッツDavid Richard Berkowitz=酒鬼薔薇聖斗の様にSon of Samを使いマスコミ・警察に手紙を送った。
1976年から1977年にかけて、ニューヨークで若い女性やカップルら13人を44口径拳銃やショットガンで銃撃(1人は刃物で刺)して6人を殺害し、8人に重軽傷を負わせた。
1977年8月10日、ニューヨーク市に隣接するヨンカーズで逮捕された。
その後、殺人と共に2000件の放火を自供(犯人が丁寧に2000を記録していた)。
懲役365年となった(ニューヨーク州に死刑がない)。2015現在62歳で模範囚として服役している。

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■「思い踏みにじられた!!」神戸連続児童殺傷事件の遺族・土師守
➽「元少年A」(32歳)の<絶歌>手記出版中止を求める!!
2015/6/10産経新聞

平成9年1997[18年前]に神戸市須磨区で発生した連続児童殺傷事件で、
当時14歳だった加害男性(32)が手記を出版した事をめぐり、
殺害された土師淳=当時(11)=の父、土師守は6/10日、代理人弁護士を通じ、
「私たちの思いは無視され、踏みにじられた」とするコメントを公表し、
出版の中止と本の回収を求めた。

土師守は、
「何故、この様に更に私たちを苦しめる事をしようとするのか、全く理解できない。
遺族に対して悪い事をしたという気持ちが無い事が、
今回の件で良く理解できた」としている。

👇全文は次の通り(原文のまま)👇。

《加害男性が手記を出すと言うことは、本日の報道で知りました。
彼に大事な子供の命を奪われた遺族としては、
以前から、彼がメディアに出すようなことはしてほしくないと伝えていましたが、
私たちの思いは完全に無視されてしまいました。
何故、このように更に私たちを苦しめることをしようとするのか、全く理解できません。

先月、送られてきた彼からの手紙を読んで、彼なりに分析した結果を綴ってもらえたことで、
私たちとしては、これ以上はもういいのではないかと考えていました。

しかし、
今回の手記出版は、そのような私たちの思いを踏みにじるものでした。
結局、文字だけの謝罪であり、遺族に対して悪いことをしたという気持ちが無いことが、
今回の件で良く理解できました。
もし、少しでも遺族に対して悪いことをしたという気持ちがあるのなら、今すぐに、出版を中止し、本を回収して欲しいと思っています。

平成27年6月10日土師守》

注意=殺害された小4女児の親も<絶歌>の発売の事は、
2015/6/10に知ったとの事[TV報道]。

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神戸連続児童殺傷「何のため手記出版か!!」山下彩花の母・山下京子コメント全文
2015/6/10神戸新聞

神戸市須磨区で1997年に起きた連続児童殺傷事件の加害男性32が手記を出版した事を受け、
小学4年の山下彩花(当時10)を殺害された母親の山下京子(59)が神戸新聞社にコメントを寄せた。

👇全文は次の通り👇

《神戸連続児童殺傷事件の加害男性が手記を出版するとのことを、
今日の朝、新聞社からの電話で知り驚いています。
何事にも順序というものがあり、本来なら当事者である私たち遺族や被害者が最初に知るべき重要な事柄が、
このように間接的な形で知らされたことは非常に残念に思います。

もちろん、私の手元には現時点で手記も手紙も届いてはいません。
情報によると、手記には「精神鑑定でも、医療少年院で受けたカウンセリングでも、
ついに誰にも打ち明けることができず、
20年もの間心の金庫にしまい込んできた」と自身の精神状況を振り返るところや、
罪と向き合う姿がつづられているようです。
「自分の物語を自分の言葉で書いてみたい衝動に駆られた」
というのが加害男性自身の出版の動機だとすれば、
贖罪(ショクザイ)とは少し違う気がします。
自分の物語を自分の言葉で書きたかったのなら、
日記のような形で記し自分の手元に残せば済む話です。

毎年、彩花の命日に届く加害男性からの手紙を読むたびに、
「年に1度のイベントのような手紙ではなく、事件や彩花に関して湧き上がってきた思いを、
その都度文字に残して、
メモ書きでもいいから書きためたものを送ってほしい」
とメディアを通して何度も発信したメッセージが届いていなかったのかと思うと複雑な気持ちになります。
何のために手記を出版したのかという彼の本当の動機が知りたいです。》

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➊2015/6/10発売当日に突然遺族が知った。よって、
遺族取材をしていない本である。出版社として、何ら裏付け努力もしていない本。

▼遺族
・土師ハセ守(59)⇔土師淳[小学6年生11歳/次男]
・山下京子(59)⇔山下彩花[小学4年生10歳]

❷見城徹幻冬舎のプロジェクトチームが原稿を仕立て上げていた
だから、太田出版社がなんら手をかけずにそのママ印刷状態である。
酒鬼薔薇聖斗Aは素案は提示しただろうが・・
絶歌は、幻冬舎が祭り上げた作品である。

絶歌=1500円税抜き・1620円税込

❸酒鬼薔薇聖斗➽社会の晒し者的に危険動物として、オリの網から覗かれる【化け物】として、
鬱積したやるせない悔しさを、本の印税で少しでもカネに変えたい!!!

1500×10万部=1億5000万円➽×10%=1500万円の楽して現金収入

しかし、
今まで、カーテンごしで隠れ洞窟から、目ざし帽を被りノコのこ出て来て、
カネだけ受け取り、匿名・幽霊顔で、
社会をアザケ笑うが如く、都合良く上手く逃げ切れるか?
自ら本を出す以上、「少年A」という「匿名」特権は許される事ではない。

このAは、ある意味で永久執行猶予の刑と同じである。
暴行・自動車事故・痴漢・万引きなど何らかの警察関連事件を起こせば、
売上増で週刊誌記者が飛びつき、名前・顔写真が全国拡販される。
それから逃れるため、
神経を細め・血走った眼で辺りを見渡し、忍び足で階段を歩き、
歩く時,人とブッかってケンカになり警察ザタで週刊誌ネタにならない様に
神経を使い歩く気遣い・・
これを、死ぬまでヤリ続ける~のである➽さて、いつまで・・??
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■島根県立大1年生の平岡都(19歳)バラバラ解体人肉食い殺人鬼事件■

捜査筋が口にした【 酒鬼薔薇 】の名前
2009年11月21日/日刊ゲンダイ

●想像を絶する遺体の凄惨

島根県境の広島県の山中で、島根県立大1年生の平岡都さん(19)のバラバラ遺体が見つかった事件は、時間が経つにつれ、猟奇的な色合いが強まっている。見つかった遺体の状態が尋常ではないのだ。

「遺体は四肢が切断され、
乳房がえぐり取られた上、
性器部分も切り取られてグチャグチャになっていました。
そのため、
胴体が発見された当初は、すぐに性別が判断できなかった。
腹部が切られ、
内臓の大部分がなくなっています。
胴体の一部は焼けていて、
血を抜かれ、
皮膚もはいであった。
両腕と右足はまだ見つかっていません」(捜査事情通)

にわかには信じがたいが、犯人が肉片を食べた形跡もあるという。

「頭部と胴体の発見場所から約2キロ離れた地点で見つかった
左の大腿骨(だいたいこつ)は、肉がきれいにそぎ落とされていた。
捜査員は、てっきりイノシシかシカの骨が風化したものと思って拾ったそうです。
野犬の仕業では、こうはならない。明らかに人為的なものです。また、遺体の一部には、ミンチ状に切り刻まれた形跡もあった。
犯人が食べたとしか思えないのです。

『羊たちの沈黙』のレクター博士じゃありませんが、
血抜きをしたり、右腕の関節をはずしたあとがあることから、
犯人はある程度、医学的な知識があるとみられます」(社会部記者)

▼上智大名誉教授の福島章氏(犯罪心理学)は、犯人像をこう分析する。

「快楽殺人にしろストーカー殺人にしろ、性器やそれに準ずるものに執着していることから見て、犯人は98%の確率で男でしょう。殺して遺体を解体すること自体にサディスティックな喜びを感じる性的異常者です。平岡さんが夜遅くひとりで帰宅することを知って、狙いを定めていたのかもしれません。遺体を遺棄した場所から考えて、土地勘はあるはずです。首を切り落とすというのも、性的異常者によく見られる現象。神戸の酒鬼薔薇事件を彷彿(ほうふつ)とさせます」

実際、
酒鬼薔薇事件との関連性を疑う声もあったという。
前出の捜査事情通が「ここだけの話ですが……」と、こう打ち明ける。

■< 酒鬼薔薇聖斗の住所:広島県の呉市 >■
「更生した酒鬼薔薇が広島の呉市で働いているという情報があったため、
広島県警は一応、所在確認をするようです。
彼自身は無関係とは思いますが、模倣犯の可能性はある。
事件が思わぬところに飛び火してしまいました」

捜査本部としては、ワラをもつかむ思いなのかもしれないが、
正体不明の人食い殺人鬼が捕まらないかぎり、不安が広がる一方だ。

(日刊ゲンダイ2009年11月18日)

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↓□↓写真数値解析↓□↓↓
↓□酒鬼薔薇聖斗(14歳当時の写真)と 麻原彰晃の顔写真を対比して、
砂時計形状での幾何学的数値解析した内容のブログ記事□↓

【 酒鬼薔薇聖斗の顔は鼻央型であるが、
【麻原彰晃のeyespanの2乗型】A3ではない/顔の三重点が怖さを与える 】

http://blog.goo.ne.jp/ygv123/e/77a6893bd76f02f18a76cc4d4173df18
↑□↑写真数値解析↑□↑↑

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22歳当時の酒鬼薔薇聖斗

少年A=東慎一郎(あずま しんいちろう)
1982年7月7日午前6時15分生まれ
(2011年現在29歳)
14歳当時の顔写真=Google画像などで見れる


札幌市西区発寒での金属バット両親殺人事件の長男(犯人)も退院後は、
北海道新聞(夕刊)コラムで「 改名して生活している 」と書かれていた。

ので、
東慎一郎も【 改名 】していると思う。
14歳当時の顔も公開されているから整形もしているだろう。

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週刊新潮2005年1月20日号より

女医を襲った!「少年A=東慎一郎」

今年(2005年)1月1日、神戸児童連続殺傷事件の「少年A」こと東慎一郎(22)が、ついに関東医療少年院を正式に退院した。はたして病気は完治したのか。事件は昨年(2004年)12月下旬に起こった。東慎一郎が、カウンセラーの精神科の女医を暴行しようとしたというのだ。本来ならば、即刻、仮退院は取り消しのはず。だが、その事実は密かに闇に葬られ、東真一郎は社会に放たれた。

2004年12月24日、法務省は「少年Aの保護観察が31日で終了し、年明けに完全に社会復帰する」との見通しを発表した。

はたして東慎一郎の病気は完治したのだろうか。被害者のみならず、一般の関心がその点に向かうのは当然である。しかし、法務省は、「被害者への贖罪の気持ちを持ち続けている。定職に就き、更生に向けた努力を重ね、精神的にも安定した生活を送っている」

と、そっけない説明を加えただけだ。加害者の人権に配慮するあまり、具体的な居住地や仕事の内容、生活ぶりなどには一切触れていない。事件の被害者にも納得できる説明はなかった。

「昨年12月中旬頃、神戸の保護観察所で、法務省の方から最終報告という形で少年の現状について一通りの説明を受けました」

と話すのは、東慎一郎にナイフで刺されて重傷を負った少女(当時9歳)の父親の堀川耕一郎さんである。

「精神的な面でも何ら問題がなく更生していると聞きました。ただし、法務省の人たちは絶対に具体的な話をしてくれないのです。我々が突っ込んだ質問をしても、それについてはお答えできませんと繰り返すばかりです」

堀川さんは半信半疑で聞くしかなかった。

「法務省の説明では、関東医療少年院からずっと彼を担当している精神科のドクターが、定期的にカウンセリングを行ってきた。そのドクターが、今後、一切、薬物の投与も必要ない、本人がそういった形で更生しているので、再犯の恐れはない、とお墨付きを与えたということでした。我々としては法務省の言うことですから、100%信用せざるをえない」

だが、それで被害者の不安が払拭されたわけではなく、不信感が残っただけだ。

「法務省の方とは、昨年8月にも一度お会いして話を聞きました。その8月時点と12月では、相も変わらず同じ話を繰り返しているだけなんです。本人は更生しています、12月いっぱいで我々の手を離れます、と。こう言っては何ですが、野放し状態になるわけですよ。ですから我々は、8月のときにも、可能であれば、年が明けてからも監視のようなものを幾分でも継続できないかとお願いしてみたのです。が、それに関しては一切できない、と。代わりにボランティアの人たちがどういう状況で生活しているのかということを定期的に我々の方に報告いただけるということでした。本当にお役人というか、そうしたことを淡々と言うものですから、決められたことは仕方がないんだな、と感じただけでした」

少年犯罪としては異例の7年余にわたる入院期間だった。東慎一郎は、平成9年10月に東京都府中市にある関東医療少年院に収容された。平成13年11月から1年間、宮城県の東北少年院で職業訓練を受けた後、再び関東医療少年院に戻り、昨年3月にいよいよ社会復帰に向けて仮退院。法務省は、年明けの退院までの手続きを、滞りなく進めることだけに腐心していたかのような印象を受けるのだ。

事件はその最中に起こっていた。

東慎一郎が心を開いた相手

仮退院中の東真一郎の居住地について、法務省は 「近畿地方以外」としか発表していないが、彼は、首都圏近郊で生活している。


法務省関係者はいう。

「彼は、ひきこもりや不登校の子供たちを支援し、就労などの世話をする民間の団体の関係先にいます。その団体には協力企業が何社かある。その団体の自立支援プログラムに沿って、彼はそのうちの1社で働いています」

東慎一郎には、保護観察官が24時間体制で張り付いていた。また、関東医療少年院で担当だった精神科の女医のカウンセリングを、1週間に1度の割合で受けていた。退院に向けて、順調に回復しているように見えたのだろう。だが、それは彼を更生させたいという当局の希望的観測に過ぎなかった。

昨年12月のことである。

「実は、東慎一郎が、カウンセリングの最中に、その女医を押し倒して暴行を働こうとしたのです」

と、先の法務省関係者は打ち明けるのだ。

「それで大騒ぎになり、東慎一郎本人も精神的に非常に不安定になったので、急遽、精神病院に入院させた。とてもじゃないが、社会復帰させられる状態ではなかった」

東慎一郎は、居住地に比較的近い国立の精神病院にひとまず入院させられた。ところが、そこでまた問題が生じたという。

「東慎一郎を入院させた直後にわかったのですが、昨年秋に、その病院の井戸からヒ素が検出されて問題になり、新聞沙汰になったことがあった。ヒ素の件でまたマスコミが取材に来たら、東慎一郎が入院していることも漏れてしまうんじゃないか、という恐れがあり、法務省や警察庁の担当部局は転院先を探すので、一時、てんやわんやの騒ぎになった。結局、その病院は出て、別の病院に転院したのです」(同)

▼東慎一郎は、どうしてその女医を襲ったのか。

「彼は、その女医に心を開いており、医者と患者を超えた信頼関係があった」
と話すのは、関東医療少年院の関係者である。

「東慎一郎の性的サディズムなどの異常な性格は、母親との関係が大きく影響していた。彼は母親を憎んでおり、心を閉ざした彼を治療するためには、職員が擬似家族的な関係を作ってカウンセリングに当たる必要があったのです。そのために彼女がスタッフとして加わった。東慎一郎の母親より3歳年下ですが、細身で髪の長い面長の女性で、年齢よりずっと若く見える。松本零士のマンガに出てくる女性のような美人です。彼女が親身になって接したおかげで、彼は心を開くようになった」

別の関係者もこう話す。
「彼は最初は女医を母親のように思っていたが、やがて恋心に変わっていったようだ。院生の話によれば、その女医に『キスしてください』と頼んだことがあったし、院生の1人が東慎一郎の前で女医の悪口を言ったら、東慎一郎は本当に怒って、ボールペンでその院生を刺そうとしたこともあったのです」

東慎一郎の性的関心が、残虐行為からようやく異性に向けられるようになった。彼にとっては、閉ざされた医療少年院の生活の中で、深い触れ合いを持った唯一の女性だったのである。

攻撃性に性衝動が結びついた
だが、そうした性衝動は、必ずしも東慎一郎の病気が完治したことにはならない。

▼帝塚山学院大教授の小田晋教授は語る。

「カウンセリングの過程で、感情転移ということが起こる。精神分析的な療法をやる際に、心の絆を作るために母親のような愛憎を与えようとすると、相手は本当に好きになってしまうんですね。しかしその感情に母親役の女医は当然応えられなくなってしまう。東慎一郎にしてみれば、裏切られたという気持ちになって、そうした行動に出たのだと思う。彼は、東北少年院で、他の院生から、からかわれて、自分の性器を切断しようとした一件があった。これは衝動性に、性的なことが絡んでいる傾向が切れていないということです。攻撃性に性衝動が結びついている。女医に手を掛けたということは、まだ性と結びついた衝動性が治っていないということなのです」

精神科医の町澤静夫もいう。

「女医を襲ったという行為は、東慎一郎が性的な感情のコントロールを十分にできていないととらえることができる。仮に性的サディズムが克服されていても、それでは、私たちは安心することはできない。また、性的サディズムがある一方で、普通の性愛もあるということは非常によくあるケース。現在の状態は、性的サディズムが心の奥に隠れて表に出なくなっただけということも十分ありえます」

専門家は、現状での退院に疑問を呈するのである。
前出、被害者の堀川氏はこう話す。

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加害男性から謝罪の手紙 神戸児童連続殺傷事件
2009.3.21産経新聞

神戸市須磨区で平成9年に発生した連続児童殺傷事件で殺害された小学4年、山下彩花ちゃん=当時(10)=の遺族に、4年前に医療少年院を退院した加害男性(26)から謝罪の手紙が届いていたことが21日、分かった。

23日の命日を前に手紙が送られるのは3年連続。

彩花ちゃんの母親、京子さん(53)によると、手紙は便箋3枚にペンで書かれており、19日夜に男性の両親を通じて手渡された。

「私信」ということもあり、内容は明らかにしていないが、謝罪の言葉はあったという。住所や具体的な生活状況は書かれていなかった。

京子さんは「これまでの無機質な言葉が並んでいた手紙と違い、感情表現がある内容だった。
いかに自分が奪ったものが大きかったかに、ようやく気付いてきたようだ」と話している。

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■あれから17年~~■
遺族の許しはありえるのか!!?神戸・児童連続殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗事件
淳の父「加害男性の言葉と向き合うことが淳への愛情」
2014/11/12産経新聞

平成9年1997年、土師淳が殺害された。酒鬼薔薇聖斗事件(被害者=土師淳)
2014年長崎・佐世保で女子高生1年生が殺害された。徳勝もなみ事件(被害者=松尾愛和)
2014年神戸市で小1女児生田美玲が遺体で見つかる。生田美玲事件(犯人=君野康弘)

凶悪事件が絶えない[産経新聞提供]

「僕が生きている間、許すことはないだろうと思います」。
静かに、だが揺るぎのない口調で、土師守(58)は、息子(土師淳)の命を奪った男性(32酒鬼薔薇聖斗)への思いを語った。

平成9(1997)年に世間を震撼させた神戸・児童連続殺傷事件。
11歳だった淳が犠牲になり、穏やかな土師家族の生活は一変した。
17年の歳月が流れてなお、「気が変になりそう」な深い傷を心に残している。
2014-1997=17

今年2014は、
長崎・佐世保で高1の女子生徒松尾愛和が同級生・徳勝もなみ16に惨殺され、
神戸では小1女児・生田美玲6が失踪後に遺体で発見される殺人事件が起きた。

事件の数だけ、癒えることのない悲しみを背負った遺族と、命を奪った殺人者も増えていく。
両者[被害者と殺人者]の間には、計り知れぬほどに深い溝が横たわる。
遺族の心に届く「謝罪の言葉」はあるのだろうか。

■言葉に向き合う苦しさ■

父・土師守58にとって、
男性(酒鬼薔薇聖斗32)の言葉は、毎年、淳の命日の前に、弁護士を介して届く手紙が全てだ。

「すみません」。
謝罪の言葉は当初、誰かに書かされている感じがあった。
事件当時、男性は14歳。成長するにつれ、文面は重みを増した。
「最近は罪深さを自覚していると感じられるようにもなった」と言う。

しかし土師守に、謝罪を受け入れる気持ちはない。
理由は、犯行にいたるまでの一つ一つの行動、心境の変化を本人の言葉で説明していないから。
「事件の経緯を話さずに謝られても、何を悪いと思って謝罪しているのか分からない」

毎年、進んで読みたいとも思わない手紙の封を切る理由は一つ。
なぜ淳が殺されなければならなかったのか-。脳裏を離れない疑問への答えが、
「本人の言葉で語られているかもしれない」と思うからだ。

男性(酒鬼薔薇聖斗32)の犯行時の心理は、多くの専門家が分析を試みてきた。
だが、土師守は「事件にいたる男性の心の中の動きは、結局、男性にしか分からない」と信じる。

事件を思い出すのは苦しい。
それでも、「真相を知ることが親の義務」と思うから、男性の言葉と向き合ってきた。
もし男性32が当時の心境を自分の言葉で語り、謝罪の手紙を書いたら、許すことができるだろうか-。
間を置かずに、土師守は首を振った。

奪われたのはモノやカネではない、かけがえのない命だ。
「自分の子供を殺された親が、加害者に『すみません』と言われて、『いいですよ』と答えるなんてありえない」
償いとは、誠実に命をかけて謝り続けること

遺族は絶対に加害者を許さないのだろうか。
歌手、さだまさしに「償い」という作品がある。交通事故で夫を亡くした女性と、加害者の若者の胸中を歌う。
事故の直後、女性は「人殺し アンタを許さない」とののしった。
床に頭をこすりつけて謝った若者は、「償いきれるはずもないが せめてもと」、毎月、仕送りを続けた。
7年後、女性から若者に初めて手紙が届く。
感謝の気持ちを伝えた上で、仕送りをやめ、人生をやり直すように求めていた。

作品は、さだの知人の実話をもとにした創作だ。
しかし優れた芸術には真実が宿るという。東京地裁の裁判長が説諭に引用したり、交通キャンペーンに使われたり、「償い」は創作を超えた「真実の物語」として受け入れられてきた。

▼現実の世界で息子を亡くし、今も心に深い傷を負う土師守は「償い」の物語に否定的だ。
「そんな簡単なものではないでしょう。世間は美談を求めたがる」と皮肉すら口にする。
ただ、命を奪った罪への謝罪は言葉だけでは足りないという考え方は「償い」のテーマと共通する。

「大事なのは『すみません』という言葉を態度で示すことだ」と土師守は言う。
「謝罪して許されるかどうかは問題ではない。誠実に命をかけて謝り続ける行為こそが償いでしょう。それならば、遺族に届く『真摯な言葉』がない事はないだろうと思います」

来年2015も男性(来年33)から手紙が届けば、土師は悲しみをこらえて封を切るだろう。
「男性の言葉と向き合い、殺害された理由を知る事が淳への愛情であり、14歳の少年だった男性が更生するために『大人』としてできる唯一のことだから」
(平田雄介)=敬称略、おわり

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【用語解説】神戸・児童連続殺傷事件

神戸市須磨区で平成9年1997/2~5月、小学生5人が襲われ、
小6の土師淳=当時(11歳)=ら児童2人が死亡した。
殺人容疑などで逮捕された中3の少年=当時14歳、2014現在32歳の男性=は、H17年2005年に関東医療少年院を退院し、社会復帰している。

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■神戸の児童殺傷事件11年 土師(はせ)淳君の父が手記
2008/5/23産経新聞

被害者=土師(はせ)淳=死亡
その父=土師(はせ)守
1997+11=2008
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「被害者支援を着実、迅速に」

神戸市須磨区で平成9年に起きた児童連続殺傷事件の被害者の1人、土師(はせ)淳君=当時(11)=が殺害されてから丸11年となる24日を前に、父親で医師の土師守さん(52)が、心境をつづった手記などを報道機関に寄せた。

「事件のことは今もつい先日のように思いだしますし、11年が過ぎたからといって子供への思いは変わりません」とする一方、来年から刑事裁判への被害者参加が実現するなど被害者側の権利獲得が進んできたことについて、「少年審判の傍聴や弁護士の育成など、被害者の本当のニーズにあった社会制度の整備を」と訴えている。

「(24日は)特別に変わったことはしません」という土師さんは、今も妻とともに月照寺(兵庫県明石市)にある淳君の墓に参り、月命日の供養を欠かさないという。

当時中学生だった加害男性の情報が、十分に寄せられていない状況は今も変わっていない。わずかな知らせとなるのは、毎年男性から送られてくる手紙だ。今年も弁護士を通じ、14日に土師さんのもとに届いた。

土師さんは、今まで通り手紙の公開はしないつもりだが、内容について「字の形や文章の雰囲気などから以前に受けとった手紙に比較すると、徐々にですが彼自身が変化しているように感じる」と話す。しかし、「(少年院を)本退院後の男性の状況については現在も十分な情報を得ることはできていません。今後も粘り強く交渉していきたい」という。

一方で、土師さんも参加する全国犯罪被害者の会(あすの会)などが強く求めてきた、刑事裁判への被害者参加を盛り込んだ刑事訴訟法改正案が昨年成立、来年からいよいよ被害者参加制度が始まる。

土師さんは「事件が起きた11年前と現在では、犯罪被害者が置かれている状況はかなり改善したと思いますが、まだ十分とはいえない」と指摘。今国会に提出された少年法改正案についても「少年審判の傍聴を認める少年法の改正はまだ実現していません。今国会中にはぜひとも成立させてほしいと願っています」とした。

■神戸の連続児童殺傷事件で殺害された土師淳君の父、
土師守さんが寄せた手記全文は次の通り。

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この5月24日は、淳の11回目の命日です。11年という期間は、長いように思いますが、私たちにとって事件そのものは、昨日のように思い出します。11年という期間が過ぎたからといって子供への思いは今も変わることはありません。

今年も、井関(勇司)弁護士を通じて、5月14日に
加害男性からの手紙を受け取りました。
内容については公開することはできませんが、

以前に受け取った手紙に比較しますと、徐々にですが、彼自身が変化しているように感じます。また、本退院後の加害男性の状況については、現在も十分な情報を得ることはできていません。今後も、井関弁護士とともに粘り強く交渉していきたいと思います。

私たちの子供の事件が起きた11年前と現在では、犯罪被害者が置かれている状況はかなり改善したと思いますが、まだ十分とは言えない状況だと思います。犯罪被害者基本法が成立して以降、刑事訴訟法も改正され、私たち被害者が切望していた(刑事裁判の)被害者参加制度が来年には実施されることになりました。しかしながら、少年事件においては、少年審判の傍聴を認める少年法の改正は、まだ実現していません。迅速に審議し、今国会中にはぜひとも成立させてほしいと願っています。

補償関係についてもかなり改善されてきていますが、今回の改正でもまだ十分と言える状況ではありません。
最高額ではなく、通常の補償も自賠責保険に近づけるようにしてほしいと思います。また、犯罪被害者に対する支援もまだまだ十分とは言えません。実際に被害者支援を担当する地方自治体には、被害者支援に対する認識を深めていただき、被害者支援を着実にそして迅速に進めてほしいと思います。

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酒鬼薔薇事件の少年Aが通っていた友が丘中学校の岩田信義校長(当時)
日刊ゲンダイ2010年12月13日(月)

●岩田信義のその後;;

1997年、日本中を震撼させた神戸の酒鬼薔薇事件。逮捕された少年Aが通っていた
「友が丘中学校」の岩田信義校長を覚えているだろうか。

卒業式当日、ストリップ劇場で観賞にいそしんでいる姿を写真誌にすっぱ抜かれて世の顰蹙(ひんしゅく)を買った。
事件から13年。少年Aはすでにシャバに出た今、
岩田校長はどうしているのか。
1997+13=2010

●「正直、ほんまアイツが真犯人なのかな、って迷いは今でもあります」

「晩メシ食うた後やったかなあ。捜査本部から自宅に“お宅の学校の生徒を逮捕しました”って電話があって、“お手数かけます”とだけ答えたのを覚えてます」

記者が会ったのは神戸市東灘区の自宅。
居間の掘りごたつで記者と向き合った岩田、
やや甲高い声でこう言った。

「実は逮捕前から予感めいたもんがあったんです。生徒らの間で、“アイツとちゃうか”って噂が広まってましてね。“目が据わってて、ジロッとにらまれると、すくみ上がる感じがする。アイツならやりかねん”って話だった。根も葉もない噂でしたが、胸騒ぎがしてたのも事実です」

警察の一報を受けた際も、
「やっぱり、アイツやったか!!」とあまり驚きはなかったという。

「ただ、酒鬼薔薇の挑戦状や、ノートに書いてたという東西の古典を引用した『懲役13年』を読んでも、あの子に書けたとはとうてい思えんのですわ。
正直、ほんまにアイツが真犯人なのかな、って迷いは今でもあります」

少年Aの逮捕後、
朝日新聞が「動機は学校で教師から受けた体罰」と報じる。と、
全国から非難の声が学校に殺到した。
「時が経てば冷静に読めるもんです」と話す段ボールに入った当時のハガキを見せてもらうと、真っ赤なペンで「校長は腹を切れ」の文字も。

「内容は罵倒68通、脅迫6通、不幸の手紙13通、宗教宣伝・商業宣伝20通、激励22通、誤解しながらの激励11通、目的不明11通。ざっとこんな感じです。でも、体罰はまったくの誤報で、指導記録を見る限り、教師らに何らの落ち度もありませんでした」

68+6+13+20+22+11+11=151通

さて、事件翌年の1998年3月、
今度は岩田校長自身がクローズアップされた。
ストリップ劇場で大股開きの踊り子をポラロイド撮影、舞台上で野球拳に興じる姿をフォーカスされたのだ。

「周りがどう言おうと、“ワシは何も悪いことしてへんで”って心境でした。
だって、勤務時間ならいざ知らず、時間外のことでしたから。卒業式で早く仕事が済み、
“ほな、行こか”といつも通りに行動しただけです」

とはいえ、
■定年退職を目前に控えながら、
神戸市教育委員会から謹慎処分を受けるハメに。
再就職の道も閉ざされた。

「それでも懲りずにストリップ通いは続けた。
“あんなんでやめてたまるか”って男の意地ですわ。
なじみの踊り子にも“大変やったね”と励まされました」

退職後、、
事件について月刊誌に手記を寄せたのを機に、
「大勢の人に読んでもらえる面白さが病みつきになった」と小説を書き始め、
今も月2回、大阪の講座で若い小説家の卵たちと文章修業を重ねている。

「短長編合わせて40本以上書きましたか。長いこと観賞してきた知識を生かし、
『観客席からストリップ50年史』を書き出したこともあります。
しかし、
ストリップ自体が廃れてもうて、今さら誰も読まんかなあと思い、途中でやめました」

岩田信義は、
妻、次男の3人暮らし。

(日刊ゲンダイ2010年12月10日)

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