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凶悪な学歴詐称連続殺人鬼!
東大・京大教授、東大法学部卒の弁護士にまでなりすました「悪魔の申し子」とは?
■西口彰のその殺人鬼・逃亡連続殺し旅■
【1963年10月18日殺人事件発生/福岡県~1964年1月3日逮捕/熊本県=78日】の殺人事件
●前科4犯の西口彰=1925年12月14日生~1970/12/11死刑執行(44歳)、
➽映画公開日=1979年4月21日(上映時間=140分)
●西口彰連続殺人事件の発生時年齢37歳
●5人殺害=男38(絞殺)・男58(刺殺)➽女41(絞殺)・女61(絞殺)➽男81歳(絞殺)
5人もの人を殺してまで手にした金は合計80万円ほどであった。
●警察の要職を歴任した高松敬治は
「全国の警察は、西口逮捕のために懸命な捜査を続けたが、結果的には全国12万人余の警察官の目は幼い一人の少女(11)の目に及ばなかった」と語った。
その少女(11)も、2016現在は63歳。
●熊本県で、1/3朝逮捕●
1964年1月1日、西口彰は弁護士(東京都文京区の東大法学部卒川村角治弁護士と名乗る)
を騙って熊本県玉名市の冤罪事件防止に取り組む教戒師・古川泰龍宅を訪問。
しかし、古川の11歳の娘(小学5年古川るり子)が、指名手配のポスターから西口に気づく。
➽古川泰龍は最初は否定していたが、
弁護士団体の名前や自身が卒業したとする東大の著名な法学部教授を知らないなど、次第に弁護士としての基礎知識に欠けてることに気づいたため警察(玉名暑)に通報。
1964/1月3日朝に逮捕される。
[実は西口は以前詐欺罪で福岡刑務所に服役して時に、古川泰龍(教誨師)の顔を覚えていた]
[るり子は西口彰と1字違いの同級生(西原彰)がいたので登校のたびにポストに貼ってあった手配書を興味深く見ていた]
➽西口の逮捕劇でのコトバは、逮捕に来た捜査員に、
「弁護士の川村角治だ。何の用かね?」だった。
と堂々と話していたが~逮捕された。
延べ12万人に及ぶ警察の捜査網をかいくぐり、
78日間もの間逃亡したが、昭和39年1964/1/3に熊本県で逮捕され44歳で処刑された。
[1966年8月15日上告取り下げ死刑確定➽1970年昭和45年12月11日死刑執行]
➽[映画公開日=1979年4月21日上映時間140分]
学歴を詐称して発覚するタレントや政治家は度々現れるが、学歴を詐称した殺人犯は少ない。だが、学歴を詐称していた希有な殺人犯(西口彰)は存在した。
・ある時は京都大学教授[高橋と名乗る]
・ある時は静岡大学教授[??と名乗る]だと名乗り、
・ある時は東大法学部卒の弁護士[川村角治と名乗る]にもなりすましたのが、西口彰である。
■若い頃から犯罪を繰り返した西口彰■
1925年大正14年12/14、大阪。
代々がカトリック信徒の家で西口彰は生まれる。
西口彰も子ども(5歳)の頃に洗礼を受けた。
▼1941年昭和16年、
西口一家は大分県別府市に転居。
旧制中学に進んだ西口彰は、中学2年の時に家出して詐欺・窃盗を行い、
岩国の少年刑務所に入る。
▼1945昭和20年8月、終戦の翌日に出所すると、
▼1948昭和23年から3年間、恐喝事件で服役。
▼1952昭和27年から5年間、詐欺事件で服役。
▼1959昭和34年から3年間、やはり詐欺事件で服役している。
[⇈ここまでは殺人は一度もなかった。前科4犯となる。]
服役の合間に(娑婆にいた時に)1歳下の女と結婚し、西口彰は3人の子持ちになっていた。
別府刑務所を出た西口は、妻子を別府市の実家に預け、
福岡県行橋市に住みトラック運転手をしたが、1年あまりしか続かなかった。
別府刑務所を出所後は運転免許をとり、妻子(妻1+子3)を大分県別府市の両親に預け、
1人で出て来て福岡県行橋市で運転手をしていた。
この仕事は1963年10月5日まで続けていたが、それ以降は欠勤していた。
妻子が傍にいない間、
福岡県行橋市の理容師(女40)の他、飲食店店員(女)など愛人にし、
また事件直前には理容師(女40)の長女や店の見習(女)などにも手を伸ばしつつあった。
西口は、
「自分は大卒。両親は別府市の資産家。パチンコ店と旅館を経営している」
と言って女を落とした。
ーーーーーーーーーーーー殺人開始ーーーーーーーーーーーー
■ついに、殺人をする、京大教授に■
▼1963昭和38年10月18日、日本専売公社(現JT)の集金車を、福岡市近郊で襲った。
運転手(森五郎38歳)[2人目の殺人]を手ぬぐいで絞殺、集金人(村田幾男58歳)[1人目の殺人]を刺し殺(千枚通し)して、27万円を奪ったのだ。
目撃者もあり現場に指紋も残されていたので、西口彰は全国指名手配される。
西口は逃亡。
その間、ギャンブルで21万円も稼いだり、カトリック教会のミサにも参加している。
宇高連絡船「瀬戸丸」から飛び込み自殺した(10/24)。ように見せかけようとしたが、
これは捜査当局に見破られた。
❶玉野市の船乗り場近くの質店で西口らしい男に古い靴を売った。と言う証言が得られた事
❷10/24日夜遅くに玉野市の旅館に宿泊していた。らしい事がわかった。からである。
▼岡山、神戸、大阪、京都、名古屋、静岡と「京都大学教授の高橋」と名乗りながら、
西口は逃げ続けた。
▼静岡県浜松市のA旅館に泊まった際には、外から「京大の高橋先生はいらっしゃいますか。こちらは静岡大学の者です~」などと、自分で電話をかけている。
大学教授に見えるように、教育心理の専門書を持ち歩いたり、ダテ眼鏡をかけた。
[宿替えをする]
▼浜松市の別のB旅館<ふじみ>では、
静岡大学の教授の??と名乗って、女将(藤田ゆき41歳)と情交を結んでいる。
1963/昭和38/11月19日には、女将(藤田ゆき41:3人目殺人)とその母親(はる江61歳:4人目殺人)を絞殺して15万円を奪った。
[貴金属や衣類を奪った。それらも入質して計15万円を手にしている]
[この当時は、質屋で現金化する時代である]
▼広島では、
カトリック教会の神父に京大教授と名乗り、テレビを施設に寄付するので店を紹介してくれと頼み、もらった【紹介状】で詐取したテレビ5台のうち4台を質に入れ、8万円を手に入れている。
▼1963/昭和38/12月、西口彰は弁護士を名乗り、
・千葉刑務所の待合室に入り込み、息子の面会に来ていた女性(50歳)から、保釈金を詐取。
・東京地裁でも、罰金を納めに来た女性60歳に同様の犯行を行っている。
・千葉県弁護士会館で弁護士名簿を詐取。
ここから西口は大学教授から弁護士と名乗るようになる。
▼1963/12月5日、福島県常磐市(現・いわき市)の弁護士事務所で弁護士バッジを奪う。
▼1963/昭和38/12月29日、検事出身の81歳の神吉梅松弁護士(1人暮らし)に民事訴訟を依頼し、打ち合わせだとして彼の東京都豊島区雑司が谷のアパートに行き絞殺(神吉,5人目殺人)し、
西口彰は腕時計と神吉梅松81の弁護士バッジを奪った。
■11歳の少女に正体を見抜かれた偽弁護士■
▼1964/昭和39年の元旦(1/1)。弁護士バッジをつけた西口は、
立願寺(熊本県玉名市)の寺に現れた。東大法学部卒の弁護士[川村角治と名乗る]。
教誨師でもある住職(古川泰龍)は、戦後間もなく福岡で起きた殺人事件を冤罪と見て、再審請求運動を行っていた。これを助けたいと、西口彰は申し出たのだ。
住職は感激し、2人(彰&住職)は死刑論などを熱く語り合った。
[実は西口は以前詐欺罪で福岡刑務所に服役して時に、古川泰龍(教誨師)の顔を覚えていた]
[るり子は西口彰と1字違いの同級生(西原彰)がいたので登校のたびにポストに貼ってあった手配書を興味深く見ていた]
しかし、
「西口の顔が交番に貼られている指名手配の写真だとそっくりだ!!~」
と告げたのは、小学5年生の住職(古川泰龍)の次女(古川るり子11歳)だった。
最初は「失礼なことを言うな!!」と次女(11)をたしなめた住職だったが、
❶西口が卒業したはずの東大の著名な法学部教授を知らず、
❷弁護士なら誰でも知っているはずの弁護士団体の名前も間違えていた。
「自由法曹団」を「自由法曹院」と間違っていた。
❸身長/ホクロの位置まで殺人犯と一致している事を確かめて、
住職(古川泰龍)は警察(玉名署)に通報した。
【古川家の恐怖の一夜】
その晩は、古川家にとっては恐怖だった。
感付かれれば、殺されるかもしれなかった。
古川は家族で話し合ったうえで、子ども部屋に鍵を付け、
また西口が寝静まったのを確認した上で玉名署に届けた。
▼1964昭和39/1/3日の朝、
駆けつけてきた刑事は、弁護士を装う西口の堂々たる態度に、
人違いではないかと逮捕するのをためらった。
指紋を確認して、ようやく逮捕に踏み切ったのだ。
1/3翌朝、駆けつけた警官に対しても、
西口は「弁護士の川村角治だ。何の用かね?」と堂々と話していたが逮捕された。
【映画・TVでもその”弁護士の川村角治だ。何の用かね”が滑稽に見えた】
■犯行の動機は、
「借金返済と、愛人の理容師の歓心を買う為」だった。
西口が、5人もの人を殺してまで手にした金は合計80万円ほどであった。
■西口は大学教授や弁護士を名乗る時は、必ず眼鏡をかけた。
インテリに見せるためである。
「疑われたことは1度もなかった」と豪語している。
汽車のなかでも旅館でも、教育心理の本を開いた。
難解で面白くもないような本だったが、読んでいるうちに内容がわかって、案外面白かったと言う。
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▼裁判が始まると、
・検察官は「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」と言い、
・裁判長も「悪魔の申し子」と言った。
福岡地裁小倉支部は、
▼1964/昭和39年12月23日、5人を殺害した西口彰に死刑判決を言い渡した。
▼1965/8/28福岡高裁は控訴棄却、
西口彰はいったんは上告したが、1966昭和41年8/15に上告を取り下げ死刑が確定した。
▼1970年昭和45年12月11日、死刑が執行された。享年44歳であった。
➽[映画公開日=1979年4月21日上映時間140分]
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この頃、西口の長男は、父親が殺人犯だと知り、グレて学校にも行かなくなった。
その事を聞かされた西口は、「俺のような人間の真似をするな!」と悲痛な声を上げ、
長男に20数枚の手紙を書き、立ち直った事を知って安心していた。
➽1966年8月15日、西口、上告取り下げ。死刑が確定した。
・1970年12月11日死刑執行(享年44)。
公判で検察側から、
「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」「悪魔の申し子」と形容された西口も、
執行の前は点字翻訳のボランティアに励んでいた。
ペンフレンドだった明治学院大学の女子大生からの依頼で、卒論用の哲学書を点字訳にした。この作業は1日ぶっ通しの作業で6ヶ月かかったが、完成した時には
「人のために、本気になって仕事したのはこれが初めてだった」と手記に記した。
[死刑確定者は刑務作業がないので、1日何もせずでもOK。逆に言えば1日中点字訳もOK]
●西口は、
少女(るり子11)に獄中から手紙を送付したが、
少女は、迷いながらも返事は出さなかった、出したくはなかったのである。
獄中での西口は、
「罪は海よりも深し」
という大学ノート8冊分の手記を記している。
その手記の最後にはこう記されていた。
[私が刑場に引かれる姿を想像して笑ってください
当然の制裁でありましょう
長いことお騒がせいたし恐縮です
失礼いたしました]
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西口彰が旧制中学2年の時から、犯罪に染まったきっかけは
家庭環境なのか?、中学校での先生/生徒なのか?~などは、
その大学ノート8冊に書かれているのか?不明
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【専売公社現金強奪殺人事件】詳細
▼1963年10月18日朝▼
福岡県京都郡苅田町堤の国鉄日豊線苅田駅西側の山道で、専売公社(JT日本たばこ産業の前身)福岡出張所に勤務する村田幾男(58歳)がキリの様な物で刺されて血まみれで死んでいるのが発見された。
近くには凶器と見られる千枚通しが落ちていた。
同じ頃、約2km離れた同県田川郡香春町仲哀峠の国道近くで、専売公社福岡出張所がチャーターした行橋通運の小型トラックが放置されており、車から350mほど離れた場所で、運転手・森五郎(38歳)が手拭で首を絞められて殺されているのが見つかった。
村田と森は前日朝から集金に回っていたが、苅田町内のZ方に集金に訪れ、
ここで夕食をすませた午後5時半頃から行方がわからなくなっていた。
車内からは集金したはずの43万円のうち27万円が紛失していた。
▼1963/10月19~21日
2人村田&森がZ方を訪れた時に、もう1人が時々連れてきた事のある男(西口彰)が小型トラックに乗っていたのを見た家人の証言からだった。
この男こそ西口で、残された指紋も一致した。
西口の家からは血のついた衣類も見つかり、
愛人の理容師(当時40歳)宅も突きとめたが、肝心の西口の行方はわからなかった。
福岡県行橋市内に住む前科4犯の元運転手・西口彰(当時37歳)が全国に指名手配された。
■この現金強奪計画は前日(1963/10/17)に練ったもので、
知り合いの村田幾男58歳のトラックを待ちうけて乗り、たばこ配達に付き合った。
その翌日(10/19)、福岡市新柳町(現・中央区清川)旅館<一力荘>に売春婦と思われる女性連れで訪れ、その翌朝(10/20)の朝刊で事件記事に自分の名前と顔写真が出ているのを見つけた。
1963/10/21日、ギャンブル好きの西口は佐賀県唐津の競艇レースで21万円もの大金を得た
同じ日(10/21)には佐賀市のカトリック教会のミサにも参加。
夜には小倉の平和台球場でナイターを観ていたが、
その日(10/21)の夕刊で自分が指名手配されている事を知った。
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【詳細な殺害への流れと時間流れ】
■船/自殺かく乱計画■のため
福岡県行橋市の妻と行橋署に手紙を送っている。
※行橋署宛て
[警察署や世間を騒がせて申しわけないと思っている。
捕まって笑われるようなことはしない。東京にて記す。]
※妻宛て
[捕まって世間に笑われるようなことはぜったいしない。
死ぬつもりだ。]
▼1963/10月24日▼海飛び込み自殺偽装▼
岡山県宇野と香川県高松を結ぶ国鉄宇高連絡船<瀬戸丸>の甲板に、
背広の上着と黒い革靴が置かれているのを乗客が発見。
上着のポケットに西口の書いた2枚のハガキがあり、海へ飛びこんで自殺したのではないか?
と見られた。
だが付近を捜索しても遺体は発見されなかった。
●2通のハガキは次のような文面だった。
※10/19日宿泊の福岡市新柳町 <一力荘>宛て
[先だって平和台の野球を見に行って泊まった者です。
旅館を出るとき私の旅行カバン、日用品、靴を預けたものです。
これについては後で連絡する アキラ
荷造りして送ってください。]
※長男宛て
[先立つ不幸許して下さい。
今度は本当に御迷惑をかけました。胸が一杯で何も書けません。
御幸に御元気で何時迄も御幸にね。馬鹿な彰を許して下さい。
この道を選ぶより外はなかったのです。]
捜査本部も「偽装である」と断定していた。
これは警察が玉野市、高松市近隣の古物商や質屋などをあたったところ、
❶玉野市の船乗り場近くの質店で、西口らしい男に古い靴を売ったと言う証言が得られた事
❷10/24日夜遅くに玉野市の旅館に宿泊していたらしい事がわかったからである。
(自殺したはずの西口彰がなぜ宿泊をする?)
西口は岡山から神戸、大阪、京都、名古屋と逃げ続けていた。
「京都大学教授の高橋」と名乗った。
▼1963/10月、静岡県浜松市の旅館に宿泊(2泊)。
やはり大学教授を名乗ったが、もちろん巧妙に「静岡大学から電話がかかってくるかもしれない」と言っておいて、外から自分で電話をかけ「京大の高橋先生はいらっしゃいますか。こちらは静岡大学の者ですが~」などと言って宿の人を信用させていた。
先の旅館に2泊した西口は、市内の貸し席「ふじみ」に宿替えした。
意気投合した女将・藤田ゆき(41歳)にも静岡大教授と名乗り関係を結んだ。
その後なぜか?広島へ。
この時の所持金は800円ほどしかなかったため、カトリック教会の神父に、やはり京大教授と名乗り「施設にテレビを寄付したいので電気器具商を紹介してくれと言って【紹介状】をもらい、テレビ5台を詐取してうち4台を質に入れて8万円を受け取った。
▼1963/11月19日、「ふじみ」に戻った西口は、
女将・藤田ゆき(41)と、外出から帰ってきた母・はる江(61歳)を絞殺、
貴金属や衣類を奪った。それらも入質して計15万円を手にしている。
警察はこの犯行も西口によるものと断定し、公開捜査を行う。
▼1963/12月、千葉市では、
千葉地裁内で罰金を納めに来た女性(当時60歳)に弁護士と名乗って声をかけ現金を詐取。
千葉県弁護士会館で弁護士名簿を詐取。
ここから西口は大学教授から弁護士と名乗るようになる。
大胆にも千葉刑務所の待合室に入りこみ、女性(当時50歳)から息子の保釈金を詐取した。
▼1963/12月5日、福島県常磐市(現・いわき市)の弁護士事務所で弁護士バッジを奪う。
▼1963/12月7日、北海道沙流郡門別町の洋品店に弁護士を装って訪れ弁護料を詐取。
さらに都内で弁護料として現金を詐取。
栃木県の旅館で宿賃を踏み倒したうえ、
市内の弁護士宅を訪れ、「汽車賃を貸して欲しい」と言って現金を詐取した。
▼1963/12月20日、東京地裁内で保釈手続きに来た女性(当時48歳)から保釈金を騙し取る。
▼1963/12月29日、豊島区雑司ヶ谷のアパートで検事出身の弁護士神吉梅松(81歳)を絞殺、腕時計と弁護士バッジを奪う。
東京地裁の待合室で知り合い、民事訴訟を依頼、1人暮らしであることを知り、打ち合わせと言って同行していた。
神吉梅松殺害後、西口はこの弁護士宅に再び訪れ、来訪した男性(当時57歳)から保釈金名目の現金を詐取、東京地裁へ行ってまたも保釈金を詐取した。
西口は年末になって都内を離れ、豊橋、名古屋に立ち寄った後、九州を目指した。
▼1964年1月3日逮捕劇■
福岡事件の支援活動をしていた古川泰龍(当時43歳)方の、立願寺(熊本県玉名市)に「東京都文京区の東大法学部卒川村角治弁護士」と名乗る男(西口)がやってきて、運動への協力を申し出た。この男は西口であり、本物の弁護士バッジをつけていた。
実は、
西口は以前詐欺罪で福岡刑務所に服役して時に、古川泰龍(教誨師)の顔を覚えていた。
協力の申し出に古川は感激し、2人(古川&西口)で話しこんだ。
その時、西口は死刑論などについて熱く語って床についたという。
「お父さん、あのお客さんはポスターにあった殺人犯の西口にそっくりよ!!~」(次女)
古川の次女で小学5年るり子(当時11歳)は、
この男が連続殺人犯・西口彰である事を見抜き、父親に知らせた。
実は、
るり子11歳には西口彰と1字違いの同級生(西原彰)がいたので、登校のたびに興味深くポストに貼ってあった手配書を見ていたのだと言う。
古川は当初、
「お客さんに失礼なことを言うな!!」と娘(次女11)を叱ったが、
❶身長・ホクロといった特徴が殺人犯と見事に一致していた。
❷それに東大卒の弁護士と名乗ったが、有名教授の名を知らなかったり、
❸「自由法曹団」を「自由法曹院」と間違っていた事を古川は思い出した。
その晩は、古川家にとっては恐怖の1日だった。
感ずかれれば、殺されるかもしれなかった。
古川は家族で話し合ったうえで、子ども部屋に鍵を付け、
また西口が寝静まったのを確認した上で玉名署に届けた。
翌朝(1/3)、駆けつけた警官に対しても、
西口は「弁護士の川村角治だ。何の用かね?」と堂々と話していたが逮捕された。
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『復讐するは我にあり』は、佐木隆三原作の小説(代表作)。
5人を殺害した西口彰事件を題材にした長編小説である。
1976年第74回直木賞を受賞。
1979年に映画化、
1984年と2007年にテレビドラマが放映された。
2015/10/31下咽頭ガンのため北九州市小倉北区の病院で死去(78歳没)
タイトルの「復讐するは我にあり」は、
新約聖書(ローマ人への手紙・第12章第19節)に出てくる
「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して
『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり」
という言葉の一部で、悪人に報復を与えるのは神である、を意味する。
こういう男がいたことを調査したとして、
佐木自身は主人公を肯定も否定もしない気持ちを込めてタイトルに引用した。
■ストーリー
西口彰➽榎津巌として小説・映画化・TV化
昭和38年。当時の日本の人々はたった一人の男に恐怖していた。榎津巌(えのきづ いわお)。キリスト教カトリック信者で「俺は千一屋だ。千に一つしか本当のことは言わない」と豪語する詐欺師にして、女性や老人を含む5人の人間を殺した連続殺人犯。
延べ12万人に及ぶ警察の捜査網をかいくぐり、78日間もの間逃亡したが、
昭和39年に熊本で逮捕され、43歳で処刑された。
映画ではこの稀代の犯罪者の犯行の軌跡と人間像に迫る。
■映画:復讐するは我にあり
監督=今村昌平
出演者=緒形拳・三國連太郎ミヤコ蝶々倍賞美津子小川真由美
配給=松竹
公開日=1979年4月21日(西口彰1970/12/11死刑執行44歳)
上映時間=140分
3分の2がロケ撮影され、残りが浜松の家のセット撮影である。
弁護士殺害シーンは実際の殺害事件の現場であるアパートで撮影されたが、
殺人のあった部屋そのものではなくその向かい部屋である
■1984年4月7日の「ザ・サスペンス」枠で、
『一億人を敵にした男 復讐するは我にあり』の題名でTBSにより制作・放送された。
主演は根津甚八。
■2007年3月28日の20時00分~22時48分(3時間)にテレビ東京系列で放送された。
主演は柳葉敏郎。
同作品の映像化は、TBS版から数えて約23年振り(1984+23=2007)。
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この西口彰連続殺人旅事件は、
人間的ドラマ事件として小説になる。
九州~北海道まで、飛び回り詐欺、日帰り、
その行動力が抜群で、大胆不敵・めぐるましく機転を変えて、人をもて遊ぶ
行動の点変で、殺人を起こす。
これから見ると、
酒鬼薔薇事件は、軽薄で人間味がなく小説の題材にならない。
発展的な人間性の動向・流線もなく、単発的でタダの猫殺し。
行動力は貧弱で、日陰体質。
これでは小説の題材にはならないだろう。
タダの週刊誌のネタ程度で終わります。
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2016年3月28日月曜日
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