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旅券法違反と公正証書原本不実記載罪でA逮捕?18年ぶりの2回目の逮捕Xデー
第1回目の逮捕=1997/6/28夕方
第2回目の逮捕=2015/X/XX ⇒顔・実名・家族構成・自宅など全面剥き出し
18年ぶりの2回目のA逮捕は近い?
元少年Aに旅券法違反などの疑惑 警察の強制捜査で逮捕の可能性も
元少年Aに飛び交う“逮捕説”「強制捜査の可能性」指摘の声も
2015年9月26日日刊ゲンダイ
神戸連続児童殺傷事件の犯人「酒鬼薔薇聖斗」こと元少年Aの周辺が何やら騒がしくなってきた。
2015/6月に手記「絶歌」を発売した後、2015/9月には自らのホームページHPを開設していたことも発覚。
そのおぞましい内容に、再び世間の注目が集まっている。
そんな中、関係者の間で飛び交っているのが、元少年Aの“逮捕情報”だ。
先週発売の女性セブンによると、
元少年Aは違法に「2つのパスポート」を持ち、そのパスポートの住所が、実際に生活を送る拠点と異なっているという。事実であれば、
❶「旅券法違反」と
❷「公正証書原本不実記載罪」に該当する。
逮捕される可能性はあるのか。
■元兵庫県警刑事の飛松五男はこう言う。■
「『公正証書原本不実記載罪』は決して軽い違反ではなく、法定刑(5年以下の懲役または50万円以下の罰金)は重く重罪。
旅券法違反との併合罪となれば、さらに重い刑を科せられる可能性があります。
世間的にも注目され、被害者感情も考慮すると、警察も強い態度で臨むでしょう。
任意捜査ではなく、強制捜査する可能性は十分にあると思います」(飛松五男)
手記やHPを分析した専門家からは「精神構造がまるで変わっていない」などと、
Aの再犯を心配する声も数多く上がっている。
警察が最悪の事態を避けるために、早期に動くのではとの臆測もある。
そして、いまAの存在を最も恐れているのが幻冬舎の見城徹だという。
Aはもともと幻冬舎から手記を出す予定だったが、途中で太田出版を紹介される形で出版するに至っている。
「Aは『絶歌』を出版する過程で、見城氏に利用されたと思い込んで【相当恨んでいる】。
最近、メディアに送った手紙の中でも『所詮あなたにとって少年Aは精神的オナニーのズリネタに過ぎなかったのでしょうか』と強い言葉で批判しています。”見城氏は『いつか襲われるんじゃないか』”と、本当に怯えているようです」(出版関係者)
Aの恨みが頂点に達した時に――・・・!!と考えるだけでも恐ろしい。
捜査当局の素早い対応が待たれる。
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少年A=東真一郎⇒東慎一郎⇒西岡真
1982年7月7日午前6時15分生まれ
(2015現在33歳)
・両親⇒離婚⇒母親(旧に戻り:西田の姓名に)
▼西岡真の写真はネットで見れる。
・東慎一郎の身長と西岡真の身長が同じか?確認は不明
・東慎一郎の耳型と西岡真の耳型が同じか?確認は不明
この中年A=西岡真33歳のHPでの
悪さをやらかす姿見の覆面・法被りの全裸の写真掲載で、
はたして、本人の裸体か?それとも手作り合成ソフト裸体写真か?
はいずれはっきりする。
2015現在の顔写真掲載もいずれ時間の問題で週刊誌公開(2回目の逮捕報道)される。
これで性犯罪者に付けるGPSチップがつけられたと同じ効力です。
⇒いずれ、逮捕で全面的剥き出しになるのは近い
捕捉され標的にされているA。
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週刊ポストの意味のなさない実名東慎一郎・14歳顔写真報道と安倍政権との関係と弱腰週刊ポスト飯田昌宏編集長
2015/9/15LITERA伊勢崎馨記事の抜粋[長文のため]
■「同じ小学館発行の『女性セブン』の2015/8月6日号では都内で生活するAと思われる人物のアパートを特定し、そこに住む男性を直撃しているんです。そのため「ポスト」にはこの際、隠し撮りしたAと思われる人物の近影なども掲載されるのではと言われていたんですが、結局「セブン」報道の真偽すら「ポスト」では報じられることはなかった。おそらく、飯田さんの事ですから、ギリギリのところで、日弁連などに抗議されるのを恐れて、引っ込めてしまったんでしょう」(週刊誌関係者)■
「週刊ポスト」(小学館)2015/10月2日号で、「少年Aの『実名』と「顔写真」を公開する」と題された記事が掲載された。
(きっかけは、)
・元少年AがHPを開設したことが大きな騒動となっている。
・このHPの存在は朝日新聞や「週刊文春」(文藝春秋)「週刊新潮」(新潮社)「女性セブン」(小学館)などに元少年Aが手紙とCD-ROMを送付した。
今回、意外だったのは、実名を掲載した週刊誌が「週刊ポスト」だったことだ。
これまで少年犯罪に関して実名や顔写真を掲載して物議を醸してきたのはもっぱら「週刊新潮」「週刊文春」であり、
「週刊ポスト」はこれまで少年犯罪について実名や顔写真を晒して報じたことはなかった。
▼それがなぜ???
一説には、今回の実名報道は今年2015/7月、編集長に返り咲いた「週刊ポスト」の飯田昌宏編集長のツルの一声で断行されたのだと言う。
だが、飯田編集長といえば、
もともと「死ぬまでセックス」シリーズなどのナンパ路線で知られる一方、
批判精神は乏しく、権力には、からっきし弱いという評判の編集者ではなかったか。
そもそも、飯田がわずか1年で復帰することになったのも、その「権力にたてつかない」姿勢が評価されてのことだった。
実は、飯田編集長が返り咲く前・・・
三井直也が編集長を務めていたときの「週刊ポスト」は反安倍政権の姿勢を鮮明にし、菅義偉官房長官の日本歯科医師連盟からの迂回献金問題や、高市早苗総務相の大臣秘書官をつとめる実弟が関わった「高市講演会企業の不透明融資」問題など、政権閣僚のスキャンダル記事を次々とスクープしていた
ところが、こうした「週刊ポスト」の報道に激怒した官邸は、様々な方法で「週刊ポスト」に圧力を加え続ける。
安倍首相と懇意の幻冬舎・見城徹社長を通した「週刊ポスト」発行人の森万紀子への執拗な抗議、マスコミ人脈を使った小学館上層部や幹部編集者への個別のプレッシャー。さらに、スキャンダルを暴かれた高市早苗サイドは、三井編集長、森発行人らを民事の名誉毀損訴訟だけでなく、刑事でも告訴。菅官房長官も訴訟の構えを見せた。
こうした安倍政権、官邸の圧力に震え上がった小学館は三井編集長が就任1年だったにもかかわらず更迭を決定、
その後釜に前編集長だった飯田昌宏を出戻らせるという仰天人事を行ったのだ。
(その返り咲いた飯田編集長の取った施策が・・・)
叩ける相手を見つけた時、もっともらしい“正義”をふりかざして糾弾する。
これでは、「ジャスティスハイ」▼丸出しの2ちゃんねらー▼たちとそう違いはないではないか。
■justice-high■⇒代表例:2ちゃんネラー■
・小さなルールを持ち出して正義派ぶる群衆
・不祥事を起こした人を徹底的に叩く事で、気持ち良くなり、歯止めがきかなくなっている状態
・犯人探しとバッシングが、発信者自身の閉塞感をまぎらわす代償行為となっている風習。
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女と印税逃避ドラマの始まりです⇒追いかけるネット・週刊誌記者~
1人で生活もウソ➽同棲のA・家族記述もウソ~こんな偽装手記をなぜ買うのだろう?
少年A手記 いかにも文学青年崩れ的な文章でゴーストライター説も
2015/6/23NEWSポストセブン
Aは事件後、医療少年院に入所したが、
その医療少年院に講師として招かれ、
少年らの授業を受け持った童話作家・森忠明に将来の希望を尋ねられ、
当時18歳だった少年Aは「小説家になりたい」と答えた。
森忠明は、
Aから短編小説[タイトル愛想笑いに手には名刺を・700字]を渡され感想を求められた。
👇18歳青年Aが書いた小説の一部を改めて抜粋する(週刊ポスト2001/3/9号)👇
《(以下すべて原文のママ)》
➽《題 愛想笑いに手には名刺を
(中略)「探偵さん」声が掛かる。振り返ると、傍らに背広を着た男性が。まずい、予定外の事に焦ってカメラを模索する。
「私達、籍を入れたのよ。」
やはりそうか、
「それはそれは、どうも実は俺、日本野鳥保護の会の者で……」という風太郎は証明を手に思う。依頼不通はこういうことだとは。》
~エンディングまで到底理解のできない文章が続く~。
➽《僕は、サクラの木に凭れ掛かる。風太郎の周りの木々がざわめき立つ。そして、サクラの匂い、項垂れる風太郎に優しく進学を断念させて下さった桜子教師の香り。
その戦慄が、風太郎の脳裏を又、掠める。僕は手帳を取り出す。心のままに記してみたくなったから。
──オキテだらけへの兆戦》
18歳Aのこの短編小説と、今回のA手記を比べると、
文章力は格段の進歩だ。
描かれた精神構造は別として、“ストーリー”は理解できる。
同じ人間が書いたものと思えず、
実際に「いかにも文学青年崩れが書きそうな【修飾過多の文章】からは、
一部ではゴーストライター作に違いないと見られている」(出版関係者)という。
➽👇森忠明コメント👇中年Aはすでに"抜け殻"👇
「当時から際だって表現欲求が旺盛でした。
ただし、私が彼(当時18)に会った14年半前にはすでに彼の中にいた魔物はおらず、
“抜け殻”のような印象がありました。
たしかに、私は彼(18)に“小説を書いたらどうか”と勧め、
彼(現在32)はその約束を守って今回の本を書いたのかもしれません。
ですが、“抜け殻”の彼が今後、歴史に名を残すような作家になれるとは思っていません。
いま彼を支えているのは、“自分を表現したい”という自己顕示欲だけなのかもしれない」(森)
ーーーーーー
森忠明(67)=日本の詩人・童話作家・東京都立川市出身/在住
1966年=寺山修司に師事し、詩と脚本を学ぶ
1973年=73児童演劇脚本募集でNHK賞を受賞。
1977年=『きみはサヨナラ族か』がNHK少年ドラマシリーズで放映される。
1987年=『へびいちごをめしあがれ』で新美南吉児童文学賞受賞。
1991年=『ホーン岬まで』で野間児童文芸賞受賞。
1998年=『グリーン・アイズ』で赤い鳥文学賞受賞。
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➽週刊ポストは2001年3月9日号に、
「全文掲載 18歳・酒鬼薔薇が綴った『700字小説』」
という特集を組み、そこに、Aの書いた「作文」を紹介した。
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元少年Aのゴーストライターは誰だ!?
2015/6/24日刊サイゾー(元木昌彦)↓[かなりの長文のため要約]↓
この手記をA自身が書いたのかと疑問を持つ人も多い。
その疑問を解く鍵が週刊ポスト2001/3/9号に載っている。
👇「18歳の青年Aが書いた短編小説の一部を改めて抜粋する👇
《(以下すべて原文ママ)》
《題 愛想笑いに手には名刺を
『桜木町』、『桜木町』。僕の横から現れた彼女に風太郎は書きかけの手帳を慌てて仕舞い込む。
彼女の口許には絶えず微笑が刻み込まれているがまだ、十代のあどけなさが残っている。
『この乗り物は、桜台二丁目まで行きますの?』はっと我に返った僕は職業心が芽生える。
まだ間もない身ではあるが、
『奇遇ですね、私の地本なんです』》
奇妙なタイトルもさることながら、
内容も要領を得ない。誤字も散見された」(ポスト)
この短編小説と今回の手記を比べると、
文章力は格段に進歩している。
同じ人間が書いたものと思えないとポストは言っているが、大方はそう思うだろう。
出版関係者もこう言っている。
「いかにも文学青年崩れが書きそうな【修飾過多の文章】からは、
一部ではゴーストライターの作に違いないとみられている」(出版関係者)
幻冬舎の見城は元々作家志望だったと聞くが、彼の手が多く入っているのではないか?
第1印象はこの文章は『作家崩れ』の編集者の手がかなり入っていると思った。
それに1部と2部の文章が微妙に違う気がするのは担当編集者が替わったからだろう。
「編集に携わった社員も“あまりに自己愛が強くて、文章は自己陶酔が激しい。
悔悟の気持ちがどれほどあるのかわからない”という印象を抱くようになったといいます。
また、手記の発表は幻冬舎と付き合いのある小説家らからの反発も予想されました」(出版関係者)
-----------↓
➽『週刊新潮』が太田出版の岡聡社長をインタビューしている。なかなか興味深い。
岡社長は
《野菜を切るための包丁を売ったのに、その包丁が人殺しに使われてしまった。
それで、『売る時に人殺しに使われると思わなかったのか!』と責められてもねえ~。
我々は野菜を切るために一番切れ味の良い包丁を提供した。
どこの物よりも野菜を切るのに役立つと思って出版したんです。》(岡)
バカな言い方をしたものだと思うが、週刊新潮もこう難じる。
《彼は知らなかったのだろうか。事件当時、少年Aが犯行声明に
「汚い野菜共には死の制裁を」と記していた事。
事件後に母親と面会した少年Aが、
「弱い者は野菜と同じや」と言い放ったと報じられている事を。
つまり、被害者を「野菜扱い」していた事を・・・》(週刊新潮)
週刊文春でノンフィクション作家の高山文彦が言っている事が的を射ていると思う。
《金銭を得る事を最優先に考えたため、この様なレベルの低い代物が出来上がったのでしょう。
(中略)本来、出版社の大人たちがAに対し、世の中の道義・論理を諭すべきなのに、
一緒になって金儲けに走っていて、呆れる他ない》(高山)
ーーーーーー↑
➽ノンフィクション・ライターの高山文彦は手厳しくこう言う。
「猫殺しの詳細な描写や愛した祖母の遺影の前で自慰にふけるシーンなどが再現ビデオのように精緻に描かれているだけで、
彼が本当に書かなければならなかった事には全く触れられていない。
それは淳君をはじめ被害者の殺害へ至る道程を自らの身体を切り刻むような思いで自己分析し、
なぜ淳君らが殺されなければならなかったかを明らかにする事です。
(中略)深い内省や苦悩も見られない低レベルの“私小説”で終わりにしようなんて、ムシがよすぎる」(高山)
➽弁護士の紀藤正樹も憤りを隠さない。
「これはAと出版社が一種の不当収益を得た事になります。
彼があの忌まわしい犯罪を行っていなければ今回の印税収入はなかったわけですから、結果的に“犯罪で得た収入”です。
凶悪な犯罪行為で有名になり、その知名度を背景に出した本により殺人犯が法外な収入を得るような事態を放置していいはずがありません。
ペナルティーなども含めて、早急に何らかの法的措置を整備する必要がある」(紀藤)
アメリカでは約40州で犯罪者が自らの事件の暴露などで得た利益は、
被害者の救済基金に納めなければならないとする「サムの息子法」が施行されている。
これまでも
・連続射殺魔・永山則夫の本(これは完成度の高いものだったが)や
・佐川一政の本[1981年にフランスで女子留学生を殺してその肉を食った佐川一政]
・連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤の本も出版されてきた。
各誌大きく取り上げているが、
➽新潮のタイトルは「気を付けろ!『元少年A』が歩いている!」
これは1981年にフランスで女子留学生を殺してその肉を食った佐川一政が、
心身喪失状態での犯行と判断されて不起訴処分になり、日本へ戻ってきた時、
新潮社の名編集者・斎藤十一が付けた
「気を付けろ! 佐川君が歩いている」は名タイトルといわれているが、それを真似た。
担当弁護士や有識者からも批判されている。
➽「ようやく遺族の方々に対して、誠意が伝わってきたのではないか。今回の出版は、そういう感触を得られた矢先の事で、
これまでの関係者の努力を無にしてしまった」(Aの両親の代理人を務める弁護士)
➽「全くの嘘を書いているとは思いませんが、
真実を余すところなく書こうとしているとは思えず、
何かしら意図をもって書かれた印象を受けました」(Aの弁護団長を務めた野口善國)
文春誌上で物書きたちは、
「読むに値する書きぶりだと思った」(関川夏央)と一定の評価をする人がいる一方で、
「A自身が、冷静に自己分析できないまま執筆した本は、まだ出されるべきではなかった」(久田惠)
「第一部の、どうだ見てみろと言わんばかりの装飾を凝らした文章に吐き気をおぼえる」(高山文彦)
というような批判も多い。
【高山文彦】
・ノンフィクション作家/57歳
・小学館ノンフィクション大賞選考委員
・代表作=『火花 北条民雄の生涯』(1999)
・『火花 北条民雄の生涯』により第31回大宅壮一ノンフィクション賞・第22回講談社ノンフィクション賞を受賞
・処女作=『いのちの器』
・『「少年A」14歳の肖像』(1998年新潮社→新潮文庫)
・『麻原彰晃の誕生』(2006年文春新書)
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酒鬼薔薇の手記は本当? 強力な支援者がいて六本木ヒルズに出入りと噂も
2015/6/23日刊サイゾー(文=ハイセーヤスダ)
・「酒鬼薔薇には強力な支援者がいて、六本木ヒルズに出入りしていた」と記者
・「肉体労働で各地を転々としていた話が本当かどうかは、怪しい」という
『絶歌』(太田出版)が、皮肉にもベストセラー化。
この本を仕掛けたのは別の出版社(幻冬舎)を経営する大物プロデューサー(見城)だが、
この勢いで早くも“第2弾”を画策しているという。
「次は酒鬼薔薇に書かせるのではなく、社会復帰後の彼を知る人物たちの証言をまとめたものにするというプランがあるらしく、
さらに酒鬼薔薇の動向を映像化したものを制作する提案まで持ち上がっているとか」(出版関係者)
皮肉にも『絶歌』は遺族の回収を求める声や世間のバッシングが広告効果となって売れ続けている。
読書好きで知られるクリス松村が「吐き気がした」と批判しても、これまた記事になって本の宣伝になってしまっている。
そのため“第2弾”を計画しているのは『絶歌』の関係者ばかりではなく、
他の出版関係者も便乗ビジネスに乗り出そうと躍起だ。
ある週刊誌の編集部でも「酒鬼薔薇についての情報を何でもいいから集めろ」と指示が出ており、
専属カメラマンも「すでに追跡を開始している」という。
「ただ、今回の本を出す直前に、それまでいた場所から姿を消していて、その反響も想定した動きをとっているようなので厄介」(カメラマン)。
別の雑誌の記者は、
「現在を追うのはもちろんですが、著書に書かれている話が本当なのか、検証作業をしている」ことを明かした。
「何しろ酒鬼薔薇には強力な支援者がいて、一時期、六本木ヒルズに出入りしていたという話があったほど。
肉体労働で各地を転々としていた話が本当かどうかは、怪しいところもあります」(記者)
たしかに、
『絶歌』は酒鬼薔薇が自らの社会復帰を美談のように書いた部分もあって、
その逆襲となるような本があれば売れる事は間違いない。
ただ、酒鬼薔薇を追うのはこうした記者だけでなく、
➽右翼団体の幹部も会員制のメールマガジンで、
「本を出した仕掛け人も許せないし、日本人の価値観を揺るがす行為だ」と激怒。
「裏社会とのネットワークとも連携して、真実を暴く何らかの行動に出る」(右翼団体)と書いている。
また、
事件現場などを動画配信して資金を募る一部のネットユーザーが
➽「かつて酒鬼薔薇が登録していた派遣会社を突き止めた」として足取りを追っている。
酒鬼薔薇は事件当時、新聞社に送りつけた声明で、
「これからも透明な存在であり続けるボク」と書いていたが、
出版後の「元少年A」はまるで“賞金首”のよう。“透明な存在”ではいられないかもしれない。
(文=ハイセーヤスダ)
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警察庁幹部 手記出版した酒鬼薔薇の悪のカリスマ化に危機感
2015年6月24日NEWSポストセブン[要約]↓
『「少年A」14歳の肖像』(1998新潮社)などの著書がある作家の高山文彦が指摘する。
「『絶歌』は、これが最初で最後の告白という意味でしょう。
深い内省や苦悩も見られない低レベルの“私小説”で終わりにしようなんて、ムシがよすぎる。
【手厚い更生プログラム】を経て社会に出た彼は、
今度は【特定の出版社に手厚く保護】されて華々しく作家デビューしようとしている。
多額な経済的利益も得た。『独我論』の復活を危惧します。出版社の責任は重大です」(高山文彦)
【独我論=「この世にあるすべての物は自分の自我とそれが産み出した者たちであって、
他者や彼らが形成しているものは、自分の自我の投影に過ぎない」といった歪な精神構造の事。Aは精神鑑定で独我論を指摘されていた】
多額の印税を手にした元・酒鬼薔薇聖斗はいまどこにいるのか。
警察庁幹部の話だ。
「少年院を退院して数年後まで、
警視庁や兵庫県警などの刑事部や公安部、更生を担当した法務省がAの動向を“監視”していた。
公安部が注視していたのは、
極左集団がAを政治活動に利用するため英雄視し、接触を図る危険性があったからだ。
事件から18年経ったいま、
Aの動向を捕捉しようとしているのは法務省のみだが、
そもそも法務省にはAを追跡する人員もスキルもない。
今回の手記出版で、再びAが“悪のカリスマ”として注目を浴びていることには危機感があるが、居場所を掴ツカめていない」(警察庁幹部)
事件後入所していた医療少年院では「作家になりたい」という将来の夢を語っていたAだが、
被害者遺族の心情を蹂躙する事で叶えた醜き《【中年A】》。
その本質が変わっていないのだとしたら、次に自己の虚栄心を満たすために、何をしようとしているのか。
蹂躙=ジュウリン=踏みにじって荒らす
叶えた=カナえた=上手く合わせた
醜き=ミニクき
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👇絶歌全文がネット上にアップロードPDF👇
元少年Aの手記を全文300pageネット上にアップ⇒一気に拡散した
2015年6月23日東スポWeb[要約]↓
A手記・絶歌で、
何者かがネット上に手記全文をアップロードし、波紋を呼んでいる。
2015/6/21にネット上にアップされたのは「絶歌」をスキャンしたとみられるファイルだ。
表紙から裏表紙まで全300ページに及び、
ダウンロードできるリンクアドレスが「2ちゃんねる」などに張られた。
投稿者は「個人的に楽しんでいただいても、拡散していただいても構いません」と説明し、
掲示板やツイッターなどで一気に拡散された。
「絶歌」を巡っては、被害者の1人である土師淳(11)の父親守が
「遺族に2次被害を与える」「出版を中止し、本を回収してほしい」と出版元に抗議したほか、
販売自粛する書店や取り扱わない図書館が相次いでいる。
また元Aが出版で約2000万円の印税を得るであろう事にも反発があり、
米で制定された「サムの息子法」と呼ばれる犯罪加害者が事件に関して得た利益は、
被害者側に充てる法を日本でも導入すべきとの声も多い。
初版10万部は売り切れ店が続出。ネット通販大手のアマゾンでは、ベストセラー1位になる。
5万部が増刷された。
ネット上にアップロードし、不特定多数が閲覧できる状態にした事は著作権法に触れる行為だ。
権利者に無断での行為でも非親告罪で、
元Aや出版元が訴え出なくても警察には独自に逮捕できる権限がある。
違法アップロードで、元Aや出版元への印税収入こそ微減するかもしれない。
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▼酒鬼薔薇 同年代の恋人女性と同棲証言あるも日本脱出は困難か▼
2015年6月21日NEWSポストセブン
1997年、「酒鬼薔薇聖斗」の名前で犯行を行い、日本中を震撼させた神戸連続児童殺傷事件。
小学生5人が襲われ、2人が死亡、3人が負傷。
中でも、土師ハセ淳(ジュン享年11)の殺害は、(友が丘)中学校の正門前に頭部の一部を置き去るなど凄惨なものだった。
日本中を驚かしたのは、逮捕されたのが14才少年(逮捕時中学3年生14歳)だった事。
犯人は、「少年A」と呼ばれ連日マスコミを騒がせた。
あれから18年――。
少年Aは、32才となり、手記『絶歌』(太田出版)を発売した。
[太田出版=資本金4200万円・設立1985年・社員数23名]
被害者遺族からの出版中止・回収の要求を無視。初版10万部は瞬く間に完売した。
本を出版する際、一般的な著者印税は8~10%程度。
Aが出版社と交わした印税契約は、この数字よりもかなり大きかったという。
印税が10%として1冊あたりAに150円が入る。
これから重版がかかって20万部、30万部と増刷されていけば、
■Aは5000万円以上の大金を手に入れる事になる。
なぜ18年経ったいま、Aは手記を世に出したのか。
実は今、彼Aの傍らには、喜びを共にするパートナー(女)がいるという。
出版関係者は語る。
「Aは昨年2014夏ごろには、東京都郊外にある団地に、
同年代の恋人女性と一緒に住んでいたようです。
手記を書いていた時期に一緒に住んでいるのですから、
当然この女性は、彼Aの過去も全て知っているのだと思います。
Aにとっても彼女はかけがえのない存在なのかもしれません。
なぜ手記の中でこの女性について一言も触れていないのかわかりませんが、
まとまったお金を必要としたのも、もしかしたらふたりで日本を脱出するなど、
誰も知らない場所で新生活を送る事を考えていたのかもしれません」(出版関係者)
現在Aは自由な身である。
Aの場合は犯行時14才で刑事裁判の対象外だった事に加え、
彼Aが送致された「少年院」は、あくまで保護施設であり、
《前科》はつかない。
しかし実際には、
■旅券法第13条に定められているように、
外務大臣が国の利益や公安を害する恐れがあると認めた場合、
その人物はパスポートを取得する事が難しい。
Aはこれに当たる可能性が高い。
※女性セブン2015年7月2日号
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発売10日程度で、A手記本で、ウソ事実が明るみに出た。
これから更に、多くの部分で偽り事実が出れば、
版元=太田出版にも、原稿の裏付け捜査もしないで発売した責任がある。
増刷もいいが・・・
急速に売れなくなれば、返品本の山で、こんな弱い出版社は傾くだろう。
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[A+A両親]との賠償額
▼第2の事件=山下彩花(死亡)・山下京子(母)への慰謝料=8000万円[1999年示談成立]
▼第2の事件=女児(生存)=刃渡り13cmのナイフで腹部刺され2週間のケガ=2000万円[1999年示談成立]
▼第3の事件=土師淳(死亡)・土師守への民事訴訟賠償額=1億4000万円[1999年判決]⇒Which1億4000万円or1億420万円裁判記録調査中?
➊男性Aの両親が1999年に出版した
《『少年A』この子を生んで…父と母悔恨の手記》(文藝春秋)
の印税は慰謝料に充てられた、
❷他に当初、A両親が毎月8000円、Aが毎月4000円を遺族に支払っていた。
❸Aの両親は退職金や手記本『「少年A」この子を生んで……』の印税などで、
これまでに、約8700万円(2015現在)を返済。
Aの仮退院後も返済を続け~~
2015直近で毎月7万円(Aが1万円+両親が6万円)を支払っていた[⇔資料=週刊朝日2015/6/26号・.dotより]。
➽A手記印税≒5000万円=1500円(税抜)×10%×30万部=4500万円
➽14000(1億)+8000+2000=2億4000万円(2億)≒2億円⇔初期賠償総額
20000万円ー8700万円≒1億2000万円⇔賠償総額の残額
当然ながら、Aの必要生活額を超える5000万円の一時収入で
賠償残額に充当せよ!!と+手記出版での慰謝料など損害賠償訴訟裁判はできる?
[太田出版=資本金4200万円・設立1985年・社員数23名]=この出版社も被告に
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元少年A 過去・埼玉県ある市にいた⇒そこの小学校PTAで騒動になった
2015年6月22日NEWSポストセブン
1998年3月から関東医療少年院に入ったAには、
そこで精神科医3人と統括官1人による「育て直し」教育が施された。
これは、精神科医や統括官がそれぞれ父・母・兄などの“模擬家族”を演じ、
Aを「赤ちゃんから育て直す」という徹底した矯正教育だった。
「この手法はAにも功を奏し、一時は母役を演じた女性医師に恋心を抱くまでになりました。
破壊衝動と性的快感が結びついていた事件当時と比べ、徐々に通常の思春期男性の精神状態に近づいて行ったんです」(法務省関係者)
2001年になると被害者遺族への謝罪を口にするようになったというAは、
◆2004年3月、法務省に「再犯の可能性はない」と判断され、仮退院する。
6年間という異例の長期入院だった。
「更生保護施設に入居し、日雇いの仕事も始めたのですが、どこかで必ず“アイツは酒鬼薔薇らしい”という噂が立ってしまうんです。
彼Aは常に、“いつ正体がばれるか”という恐怖と隣り合わせの日常を送っていました。
そのため、不穏な空気を感じるとすぐに仕事を辞め、職を転々としたそうです」(前出・法務省関係者)
◆2005年1月に保護観察期間が終わり更生保護施設を出てからも
ビル清掃や廃品回収など、日給6000~8000円の仕事で全国各地を漂流する生活に~
《東京都A市、鹿児島県B市、北海道C市、広島県D市、埼玉県E市、神奈川県F市…。
退院後のAの所在地として、これまで数多の地名が噂されてきた。
その全ての地を本誌は訪れたが、多くは噂の域を出ることはなく、実際にAの所在を確認するまでには至らなかった。》
しかし、
確かにAの存在を感じさせる地もあった。
「一時、Aは宅配会社で働いていたのですが、その時は埼玉県E市にいたという話が根強く出ていました。
具体的な宅配会社名も出て、働きぶりも聞こえてきましたからね。
実際、その当時、埼玉県E市のある小学校では、
“Aが近くに住んでいるという情報があり、子供の安全のためにも法務省に情報開示を呼びかけるべきだ”と、
PTAが学校に掛け合うという騒動が起きています」(全国紙記者)
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少年A=東慎一郎(あずま しんいちろう)=改名前
1982年7月7日午前6時15分生まれ
(2015現在32歳)
14歳当時の顔写真=google画像などで見れる
札幌市西区発寒での金属バット両親殺人事件の長男(犯人)も退院後は、
[北海道新聞コラム]で改名して生活していると書かれていた。
東慎一郎も改名している
14歳当時の顔も公開されているから印税整形もするだろう。
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第1種=人体切断=酒鬼薔薇事件
第2種=人体解体=平岡都事件
第3種=人体αβ=γδω事件➽未だ日本では発生してない
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Aは自分だけ安全圏にいて、
今も良き親切な人々に守られている日本で唯一の特別な人間と【絶叫】!!
酒鬼薔薇の手記 家族に関する記述だけは敢えて嘘を書いたか
[“帰れ豚野郎!”と母へ怒鳴り]
2015年6月20日NEWSポストセブン
小学生5人が襲われ、2人が死亡、3人が負傷した、神戸連続児童殺傷事件。
中でも、土師淳(享年11)が殺害され、
1997年5月27日市立中学校の正門前でその頭部の一部が発見された
犯行のあまりの残虐性に日本中が震撼した。
さらに淳の口のなかからは、
酒鬼薔薇聖斗を名乗る犯人からの挑戦的な犯行声明が見つかる。
日本中を驚かせたのは、事件の概要だけではなかった。
逮捕されたのが14才の少年だったことで、
犯人は、「少年A」と呼ばれ、マスコミでは連日少年法の妥当性が問われる事態となったのだ。
あれから18年。Aは、32才となり、手記『絶歌』(太田出版)を発売した。
被害者遺族からの出版中止、回収の要求を無視。
初版10万部は瞬く間に完売した。
毀誉褒貶相半ばの出版劇となったが、女性セブンはこの機に、Aに関する総力取材を開始。
すると、手記には書かれなかったAの思惑、そして極秘にされていた彼Aの近況が見えてきた。
■『文藝春秋』2015/5月号(神戸家裁決定全文/完全版公開記事)で、
Aの起こした事件に対する神戸家裁の判決文の全文が公開された。
そこでは、当時の彼Aの犯罪心理として、「母への愛憎」の可能性を指摘していた。
[文藝春秋1998/3月号では、成育歴などをカットで完全版ではなかった]
[絶歌発売が、対抗馬で完全版公開に踏み切らせた]
■《母は生後10か月で離乳を強行した。
(中略)1才までの母子一体の関係の時期が少年に最低限の満足を与えていなかった疑いがある》
(判決文より)
精神医学用語でいう「愛着障害」の可能性に触れ、
さらに母は排尿、排便、食事、着替え、玩具の片付けに至るまで、躾には極めて厳しく、
スパルタ教育を施していた事が、後にAの心を歪ませた疑いがあるとしていた。
実際、Aは小3の時の作文で、
◆「お母さんはえんまの大王でも手がだせない、まかいの大ま王です」◆
と書いており、
この“母との歪な関係”がAの凶行を生んだ発端だと、
逮捕直後からメディアでも盛んに叫ばれていた。
しかし、Aは手記でこの定説を自ら否定する。
◆《母親を憎んだ事なんて一度もなかった。母親は僕を本当に愛して、大事にしてくれた。
僕の起こした事件と母親には何の因果関係もない》
◆《事件の最中、母親の顔がよぎった事など一瞬たりともない》
こう綴りながら、
母との関係から事件を読み解いた報道の全てを事実誤認だと断じた。
しかし・・・
👇❖判決文を書いた神戸家裁でこの事件の審判をした元判事・井垣康弘が語る❖👇
酒鬼薔薇の手記 家族に関する記述だけは敢えて嘘を書いた。
「Aが長年母親に愛されていないと感じており、厳しい躾を虐待と捉え、
それらが自己肯定感を欠落させる原因になった事は、裁判時の精神鑑定からも明らかです。
鑑別所に初めて面会に行った母親に対して、
❖“帰れ豚野郎!”❖と怒鳴り、
心底の憎しみをもって睨み付けた事もありました。
Aは、手記の中で家族に関する部分だけは敢えて嘘をついたのでしょう。
この手記が、将来的に現れるかもしれない友人・恋人への“家族紹介”の役割を担っているからです。
同時に、彼Aが家族に対して徐々にオープンになってきている証でもあります。
【母の存在が事件の伏線になっている事を隠し】、
良い思い出だけを選び抜いて書いたのだと思います。
実際、父や弟を含め、家族の事については一切悪い事を書いていませんからね」
(神戸家裁/元判事・井垣康弘=現在は弁護士)
[井垣康弘=当時のA家裁審判の担当判事=本来は非公開の決定全文が出た張本人]
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A手記で偽りの家族文では、なんら少年犯罪の資料にならない。
対抗馬で文藝春秋2015/5月号が少年犯罪の資料を提供した。
共同通信神戸支局デスクとして取材に関わった佐々木央(共同通信社佐々木央編集委員)が、
文藝春秋1998/3月号では、審判決定の全文にあった成育歴の大半と精神鑑定主文の重要な部分が「要旨」から抜け落ちていた。
佐々木央は事件を担当した井垣康弘元判事に「ぜひ全文を開示してほしい」
と依頼し今回(2015/5月号)の掲載に至った。
[井垣康弘=大阪弁護士会で弁護士活動]
■文藝春秋2015/5月号■で、
👇神戸家裁・決定全文で書かれている少年A(長男)の成育歴0~14歳👇抜粋👇
➊長男として誕生時代=1982年7月7日午前6時15分に生まれる
少年Aは、会社員の父と専業主婦の母との間の【長男】として、待ち望まれて生まれた。
1年4月後に二男が、
3年2月後に三男が生まれた。
近くに住む少年Aの《母方祖母》が手助けをしてくれた。
❷卒乳の時代
少年Aは、母乳で育てられたが、母は生後10月で離乳を強行した。
具体的な事は分からないが、鑑定人は、
1才までの母子一体の関係の時期が少年に最低限の満足を与えていなかった疑いがあると言う
❸幼少躾スパルタ時代
母は、少年Aが幼稚園に行って恥をかく事のないよう、
団体生活で必要な生活習慣や能力をきっちり身に付けさせようと、
排尿・排便・食事・着替え・玩具の後片付け等を早め早めに厳しく仕付けた。
❹「幼稚園年長組」時代~厳しい叱責
少年Aは、幼稚園での場合と異なり、
家庭内では、玩具の取り合い等で毎日のように弟二人(2男と3男)と喧嘩をした。
下が泣くので必然的に兄の少年Aが叱られる事になった。
母親が中心となって少年Aには厳しく叱責を続けた。
体罰と言っても、社会常識を逸脱するような程度のものではなかったが、
少年Aは、
親の叱責がとても恐ろしく、泣いて見せると親の怒りが収まると知って、
悲しいという感情がないのに、先回りして泣いて逃げる方法を会得した。
❺「小学校1年」時代~最愛の祖母=母親の母
母と祖母はしょっちゅう少年Aの前で言い争いをしていた。
少年Aは、泣くか、祖母の部屋に逃げ込む事により、母の叱責を回避していた。
❻「小学校3年」時代
本当の情緒が育っていない。
母親は「スパルタで育てました」と言っていた。
少年Aの家庭は気取らず下町的な感じで、友人もよく遊びに行っていた(学校)。
母の過干渉による軽いノイローゼと診断され、
母は、その後、押しつけ的教育を改め、少年Aの意志を尊重しようと心掛けた。
Aは小3の時の作文で、
◆「お母さんはえんまの大王でも手がだせない、まかいの大ま王です」◆
と書いていた。
❼「小学校5年」時代~最愛の祖母死亡【解剖=ナメクジ➽カエル】
➽ナメクジを待ち針で止めて、刺刀で腹部を裂いたり、カエルを待ち針で机に張り付けにして解剖したりすることが始まった。切ったり割いたり内臓を見るのが楽しかった。ナメクジやカエルは計10匹位解剖した。身体の疼ウズきを感じた後に“性衝動の始まり”とわかった。
《最愛の祖母を小学5年の時に亡くし、寂しさから祖母の部屋へ通う内
➽押し入れから愛用の電気マッサージ器を見つけた少年A、
祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら~
祖母の遺品マッサージで、祖母の事を思いながら射精をした[A手記より]》
❽「小学校6年」時代~虐待での射精【解剖=カエル➽ネコ】
・カエルを解剖する事に飽きネコを殺し始めた。
・ネコの首を締め、口から脳へナイフを突き刺し、腹を割いて腸を引き出し、
首を切り、脚を切る等した。
・灯油をかけて焼死させた事もあった。
・ネコの舌を切り取り、塩漬けにし記念品とした。
殺したネコは20匹になるが親にバレる事は一切無かった。
➽ネコを虐待している時、性的に興奮し初めての射精を経験した。
性衝動と動物殺しとの関係を自覚し皆も同じと思って友達に話したが、
「君は変だ」と言われた。
❾「小学校卒業後中学校入学まで」時代
グループで万引きが流行った。
少年Aは専らナイフを盗んだ。
両親は、それまで少年Aを、
「素直で優しく、隠しごとをせず、長男の自覚がある」
と評価していたが、万引き事件で「意志が弱い。表と裏がある」とショックを受けた。
❿「中学校1年」時代=友が丘中学校【解剖=ネコ➽幻想人間】
卓球部に入り、部活動と門限の為、ネコ殺しはできなくなったが、
同時にネコ殺しでは物足りなくなり、
週に何回か自慰行為をする際のイメージは、
➽いつも人間の腹を割き、内臓に噛み付き、貪ムサボり食うシーンであった。
その人間は胴体と四肢だけで男でも女でもなかった。
友達もそうだろうと思って、殺人のイメージで自慰行為をしている事を話したが、
「おかしい」と言われた。
・[思春期発来前後のある時点で、動物の嗜虐的殺害が性的興奮と結合し、これに続く一時期、殺人幻想の白昼夢に耽り、食人幻想に因って自慰しつつ、現実の殺人の遂行を宿命的に不可避であると思い込むようになった。]
小学生の自転車をわざとパンクさせたり、
女子同級生の体育館シューズを隠し、焼却炉で燃やした事で、
学校から児童相談所へ相談に行くよう勧められたが、
母親は少年Aを病院へ連れて行った。
診断の結果、医師は母親に対し、発達障害の1種の注意欠陥(多動)症で認知能力に歪みがあり、
コミュニケーションがうまく行かないので、過度の干渉を止め、少年Aの自立性を尊重し、叱るよりも褒めた方が良いと指導した。
母がその指導に従った結果、
表面上は、少年Aは落ち着きが出て、学校からも、よく成長したと評価された。
⓫「中学校2年」時代
母親が少年Aに将来の希望を聞いても、
「何もない。しんどい。」としか言わず、
母親は少年Aの気持ちがわからなくなった。
⓬「中学校3年」時代=1997/2/10(中2)~5/27(中3)酒鬼薔薇聖斗事件を起こす!!
1997/5/27AM6:40=淳の頭部が友が丘中学校正門で発見
1997/6/28PM7:05=兵庫県警がA逮捕(逮捕時中学3年生14歳⇒当時の氏名=東慎一郎)
ーーーーー
・[未分化な性衝動と攻撃性の結合に因り、持続的且つ強固なサディズムが予て成立しており、
本件非行の重要な要因となった。
非行時並びに現在、離人症状・解離傾性が存在する。]
・[年齢的に人格等が尚発展途上にあるから、
今後普通の人間のような罪業感や良心が育っていく可能性がある。
また性的嗜好も通常の方向へ発達改善される可能性がある。
当分の間、落ち着いた、静かな、1人になれる環境に置き、最初は1対1の人間関係の中で愛情をふんだんに与える必要がある。]
・[性的嗜好を改善して性的な発達を促す為の性教育を行うについては、
治療スタッフに【女】が加わっていることが望まれる。]
・[尚、両親(特に母親)との関係の改善も重要である。
適当な時期に交流を持たせ、面会時には、家族カウンセリングの技法を活用すべきである。]
・[この直面化には熟練した精神科的接近法を要する。
しかし、良心或いは罪業感は両刃の刃であって、
直面化の過程で、分裂病・重症の抑鬱状態・解離性同一性障害(多重人格)等の重篤な精神障害が生起する可能性もある。]
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1997/5/27午前6時40分頃、兵庫県神戸市須磨区友が丘中学校の正門の前に、
人間の頭部が置いてあるのを、門を開けに来た用務員が発見した。
➊口は両耳のあたりまで刃物で切り裂かれ、
❷目の部分は×印に切られ、
❸頭の上にも短冊状に何本も切られた跡が残っていた、
❹口には、犯行声明文2通=
[さあゲームの始まりです~・・~酒鬼薔薇]と
長方形の紙に1行だけ[酒鬼薔薇聖斗] と書かれた紙。
1997/5/27AM6:40頭部発見から32日目の1997/6/28PM7:05逮捕
[東慎一郎=当時の氏名・中学3年14歳]
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■注意■
母の躾が少年に影響を与えた様な記述がある一方で、
父親についてはほとんど言及されていません。
父親がどの様に関与したか?or全く関与していなかったか?には触れてない。
ココが~重要なのかもしれない?
この男Aは、名前・住所・顔写真を執拗に隠したい・・
だから、どんなに叩き・殴られても警察・民事裁判に訴えない。
実に、臆病で影の薄い人間です。
ジッ~と無言でガマンで祖母の洞窟へ逃げ込む一生。
それを見透かす様に、ネット底辺民族が平然と殴り踏みつける。
ただ、印税数千万円の札束を握りしめて微笑むも?
遺族の賠償金=2億円超の支払いの大半が済んでない以上
その印税を充当せよ!!と民事裁判になれば・・
小保方晴子事件の様に、世間・TV・週刊誌記者が追います。
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少年Aの手記 遺族の理解得られぬと別の出版社(幻冬舎)はお蔵入りに
2015年6月19日NEWSポストセブン
神戸連続児童殺傷事件の犯人・元少年Aによる手記『絶歌』(太田出版)。
1冊1500円税抜、初版は10万部だったが、
今後重版がかかり、20万部、30万部と売れてていけば、
印税としてAに5000万円以上の大金が入る事もあるという。
そんな大金を生んだこの手記だが、出版に至るまでには紆余曲折があった。
実は、当初、別の出版社(幻冬舎)から発売される予定だったのだという。
「その出版社はすでに1年以上前からAと接触し、手記の出版に向けた編集チームまで結成されていました。
2015年初春の発売を予定して、原稿もできあがっていたんです」(出版関係者)
しかし、社内では反対する声も多かった。
そんな中、この出版計画が1月に週刊誌(週刊新潮2015/1/29号)にすっぱ抜かれ、
出版に反対する遺族の肉声が掲載された。
「結果、社内でも慎重論が盛り返し、一部の【大物作家】は“万が一この作品を出したら契約を打ち切る”と通達するなど大騒動に。
結局、“遺族の理解を得られないものは出すべきではない”と、お蔵入りになったんです」(前出・出版関係者)
こうして、一度はたち消えた手記出版計画だったが、Aは諦めなかった。
「“どうしても出したい”と、彼は編集チームに直訴したそうです。
そんなAの強い思いから最終的に太田出版へと原稿が持ち込まれることになったそうです」(前出・出版関係者)
綱渡りのような出版だったが、無事に手記が世に出た事を、Aは今、誰よりも喜んでいるそうだ。
※女性セブン2015年7月2日号
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<児童連続殺傷手記>明石市 書店や市民に「配慮」要請
2015/6/19毎日新聞【駒崎秀樹】
兵庫県明石市の泉房穂市長は6/19日、神戸市の児童連続殺傷事件の加害男性による手記「絶歌」について、
明石市犯罪被害者支援条例で2次的被害の防止を定めた規定に基づき、市内の書店や市民に対して配慮を要請すると発表した。
販売・購入の自粛などの具体的内容は含んでいないが、市立図書館では購入しない。
現行条例(2014年4月施行)に基づく配慮要請は初めて。
6/22日以降、市内の書店約10店に文書で通知し、市民には広報紙やホームページを通じて周知する。
泉市長は記者会見で、事件で殺害された土師(はせ)淳君(当時11歳)の【墓】が市内の寺にあることを挙げ
「遺族が書店で平積みされた本を目にする可能性がある。
条例に基づく対応を取る必要があると判断した」と述べ、
さらに「個人の思いとしては売らないでほしいし、買わないでほしい」という考えを示した。
淳君の父守(59)は市条例の改正の際に有識者として協力した。
明石市は今回の対応について守さんに意見を求め、発表内容も事前に伝えたという。
【駒崎秀樹】
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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
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絶歌・酒鬼薔薇聖斗の個人情報を遺族の訴訟で暴く
・絶歌に対し被害者遺族が損害賠償を求める訴訟を起こす案が浮上
・訴訟を起こせば、結果的に被告の実名や住所が公に出る事になる
・すでに遺族に近い弁護士が元少年Aの住所や名前を把握している
裁判となれば、
太田出版社にも損害賠償の被告になるから、1500×15万部≒2億円なんぞ吹っ飛び、
近場のボロ儲けを後悔するだろう。
被害者遺族が訴訟を起こせば……訴訟準備中・・・
◆『絶歌』出版の“酒鬼薔薇聖斗”現在の住所・名前が暴かれる日◆
2015/6/18日刊サイゾー(文=ジャーナリスト・片岡亮)
「酒鬼薔薇聖斗」の“現在(名前・住所)”が、公にさらされるかもしれない。
「出版差し止めは難しくても、被害者の遺族がこの本の内容に対し損害賠償を求める訴訟を起こせば、
結果的に被告の名前や住所が公に出てしまうことになる。
いま複数の弁護士が、その動きを後押ししようと動いている」
ある弁護士の情報では、
すでに遺族に近い弁護士が「酒鬼薔薇聖斗」の住所や名前を把握、
遺族の希望さえあれば訴訟を起こせる状況にあるという。
1997年に神戸連続児童殺傷事件を起こした自称「酒鬼薔薇聖斗」は先ごろ、手記『絶歌』(太田出版)を出版したが、
被害者の遺族からは抗議の声が上がっているほか、
著者名が少年法で守られたままの「元少年A」である事や、
ナルシスティックで自己顕示欲が見て取れる内容に、世間からの批判が巻き起こっている。
アメリカではニューヨーク州で犯罪者が、
自らの犯罪行為をネタに出版、販売して利益を得ることを阻止する「サムの息子法」と呼ばれる法律があり、
犯罪行為を商業利用することを禁じている。
同様の法律は他州や世界各国で類似したものが存在するが、
日本ではこれがないため、「酒鬼薔薇聖斗」は出版元の太田出版ともども、堂々と利益を手にできる状況だ。
◆「酒鬼薔薇聖斗」は、
児童の首を切るなど2人を殺害した上、
新聞社に「挑戦状」を送るなど、あまりに残酷な事件を起こしながら、
少年法の適用で罪には問われず、医療少年院を経て2004年に社会復帰した。
社会に守られて更生の道を進んだ元少年犯罪者が、
被害者遺族をさらに痛めつけるような本を出版したことで、
遺族からは出版社に回収要請があった。
しかし、現時点では法的にこれを差し止めることは難しい。
「でも、今回のケースを契機に新しい日本版の『サムの息子法』を作りたいと考える弁護士も少なくないです。
そのために大きな波風を立ててきっかけ作りにしようと話している弁護士もいて、
32歳の酒鬼薔薇聖斗が、少年法そのままの匿名で、過去の犯罪をビジネスに利用した事に対する報復として、
合法的に著者の現在を白日の下に引っ張り出すための裁判案を練っています」(同)
ネット上には酒鬼薔薇聖斗に妻子がいるなど確証のない話も書きこまれているが、
この弁護士によると
■「それよりも、もっと驚くべき社会復帰後の過去がある」■という。
「これは以前、彼Aを支援していた人脈から漏れ伝わってきた話だそうですが、
それが事実なら更生プログラムの失敗ともいえる話で、世間からの反発はより増すでしょう。
もし、
彼の実名と住所が表になる合法的な手段が取られた場合、
おのずとこの話も暴露されるかもしれません」(同)
◆酒鬼薔薇聖斗は、
本の中で、ネットカフェやカプセルホテルを泊まり歩く生活をしていたと記しているが、
事件を追ったある記者からは
■「退院した直後の時期、セレブの出入りする事で有名な都内の超高級マンションに滞在していた」■という話も聞かれる。
いずれにせよ、
記者の間でも続々と現在の生活についての情報がキャッチされており、
このまま「少年A」でいられるとも思えない状況だ。
「酒鬼薔薇聖斗」は本のあとがきに
「自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい」
「僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの生きる道」
と自己愛に満ちた出版理由を書いているが、
自分の身元が明らかになったとしても、堂々とその姿勢を貫けるのだろうか?
(文=ジャーナリスト・片岡亮)
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《絶歌は幻冬舎プロジェクトチームが祭り上げて作った作品》
ウソの多い虚文となれば、
ダマされて買った人々は皆➽BOOKOFFへ捨て投げ!!
元少年A32が、当初は幻冬舎から出版する計画だった。
幻冬舎の見城徹社長(64)によれば、
・2012年冬に、【元少年A(酒鬼薔薇聖斗)】名で封書が届き、
・2013年にAと対面したと言う。
Aは「本を書きたい」と訴え、執筆が始まった。
~しかし~
・2015年に入って見城社長は出版しない事を決断し、2015/3に太田出版を紹介
・酒鬼薔薇聖斗から手紙を受け取った見城徹が、Aと3度会い、
《生活費400万円以上を貸して》太田出版に紹介をした(週刊文春pageタイトル)。
➽幻冬舎=1993設立・資本金3億・社員数81名
見城徹は角川書店をヤメ、仲間5人で1993に幻冬舎を立ち上げた。
➽2009幻冬舎事件=元社員の着服横領,8年間にわたり総額9億円
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少年A手記の影の仕掛人は幻冬舎・見城徹だった!
セコい事に、見城社長はこの出版権をゆずった際に【太田出版からお金を受け取った】とも
2015/6/18LITERA・田部祥太
批判を集めている神戸連続児童連続殺傷事件の元少年Aの『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』(太田出版)。
その矛先は、元少年Aだけでなく、版元の太田出版にも及び、ネットにはこんな声があふれた。
「こんな出版社潰せよ、犯罪幇助だろ」
「出版したやつら全員地獄に堕ちる」
「太田出版は許さん!」
「太田出版不買運動」
こうした事態に6月17日には同社の岡聡社長が「釈明文」を発表する事態にまで至ったほどだ。
しかし、実はこの騒動には、出版の本当の仕掛人でありながら、太田出版に押しつけ、マンマと逃げ切ったヤツがいる。
それが幻冬舎の見城徹社長だ。
「実は『絶歌』は、太田出版ではなく幻冬舎から出版される予定だったのです。
それを幻冬舎の見城社長が途中で出版を降り、太田出版に紹介したということのようです」(出版関係者)
最初の経緯ははっきりしないが、
幻冬舎は数年ほど前、少年Aとコンタクトをとり、それ以降、出版に向けてプロジェクトチームを組んで原稿を完成させていた。
実際、今年2015になり「週刊新潮」がこの動きをキャッチ。
「『少年A』の手記出版を企図した『幻冬舎』への風当たり」(2015/1月29日号)として記事にしている。
この際、幻冬舎総務局は「週刊新潮」の取材に対し、
「出版の予定はなく、元少年やその関係者に接触したこともありません」と回答。
また、見城社長本人も「万万が一、予定があったとして、出したらいけないの?」と否定、
「大体、手記を出したところで、売れないって!~」などと語っている。
しかし、幻冬舎や見城社長がどう否定しようが、
実際「元少年A」の手記は幻冬舎でつくり、
その後に、見城社長が太田出版に持ち込んだようだ。
この経緯に詳しい出版関係者がこう証言する。
「幻冬舎で「元少年A」の手記出版に向け動いていたのは間違いない。見城社長直々でね。
見城は「元少年A」と何度も会い話をしながら原稿の手直しも進めていた。
その上、経済的に困窮していた「元少年A」に【印税の前払い】として百万単位の金を渡していたらしいです」
しかし、
"ある時期"から見城社長は手記出版に難色を示すようになったという。
その1ッの原因として指摘されるのが、あの『殉愛』騒動だ。
昨年2014/11月に幻冬舎から出版された『殉愛』(百田尚樹)は大きな騒動を巻き起こしたことは記憶に新しい。
当代きっての売れっこ作家だった百田が故・やしきたかじんの未亡人の証言を元に書かれた『殉愛』だが、
未亡人の一方的な主張や◆嘘◇が次々発覚し、大きな批判を浴びたのだ。
「見城社長としては『殉愛』はベストセラー間違いなしだと意気込み、
様々なメディアに根回しまでしてプロモーションを仕掛けた渾身の一作のつもりだった。
しかし発売直後から内容の◆ウソ◇が次々と暴かれて、大バッシングが巻き起こった。
この騒動がトラウマとなり、さらに批判に晒される事が必至の元少年A の手記を出す事を尻込みし始めたんじゃないでしょうか。
それで、結局は、旧知の太田出版に話を持っていったという事でしょう」(週刊誌記者)
しかし、
見城社長と言えば「顰蹙はカネを払ってでも買え」というのを座右の銘とする出版業界きっての仕掛人だ。
しかも、
2011年には米国人女性殺害事件の市橋達也の手記『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』を平然と出版している。
にもかかわらず、
『殉愛』騒動だけで見城社長が「元少年A」手記という超ド級の話題本を手放すとは思えない。
この点について、
見城をよく知る人物がこんな解説をしてくれた。
「見城さんの変化の背景には、安倍首相や官邸との関係があるんじゃないでしょうか」
見城社長は第2次安倍内閣発足以降、安倍首相と急速に近づき、何度も食事するなどブレーン的立場になっている事は周知の事実だ。
一方でテレビ朝日の放送番組審議会委員長として権勢を振るい、安倍首相の意向を代弁する形で番組に介入する動きも見せている。
「見城さんはもともと上昇志向が強いんですが、時の最高権力者と昵懇になった事で、さらにそれが強くなっている。
最近は、完全にエスタブリッシュメント気取りで、本気でナベツネのような政界フィクサーをめざしている気配もある。
『元少年A』の手記についても、当初、乗り気だったのに、
その後どんどん安倍首相や官邸との距離を縮めていく中で、心変わりしたんじゃないでしょうか。
世間からの逆風が予想できる今回の手記出版は安倍首相にも迷惑をかけると、配慮したのかもしれません」(知る人物)
いやはや、安倍首相のお友だちになった途端、
出版人として慎重になり、ベストセラーを手放してしまうほどになってしまったのか!!。
しかも、セコい事に、
見城社長はこの出版権をゆずった際に、
【太田出版からお金を受け取った】ともいわれている。
現在の見城社長はもはや出版人などでなく、
身も心も安倍首相のお友だち、フィクサーなのかもしれない。
[LITERA田部祥太]
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「酒鬼薔薇聖斗」事件から18年!
「少年A」の手記出版を企図した「幻冬舎」への風当たり
◆[週刊新潮2015/1/29号]全文◆
あの忌まわしい“記憶”が、あらぬ形で甦りかねない――。
1997年に世間を震憾させた、神戸連続児童殺傷事件。惨劇からまもなく18年が経とうという中、
「酒鬼薔薇聖斗」を名乗っていた“元少年”の手記を出版せんと画策する向きがあるというのだ。
***
一連の事件は、97年2~5月に発生。神戸市須磨区で小学生が相次いで襲われ、2人が死亡、3人が重軽傷を負った。
同1997年6月下旬、通称「タンク山」で土師(はせ)淳君(享年11)を殺害した容疑で、
区内の【中学3年生だった14歳少年A】が逮捕され、全貌が明らかになっていく。
同1997年10月、医療少年院に収容された彼Aは、一時、中等少年院に移り、
2004年3月に仮退院。以降、まるで都市伝説のように、全国で“生息情報”が乱れ飛んできたのだった。
さる司法関係者によれば、
▼「出所後は、
法務省OBの人間を中心におよそ10人の支援チームが結成され、彼Aの生活を支えてきました。
現在でもサポート役がそばにおり、被害者の命日には毎年手紙を送っていますが、直接対面しての謝罪は、いまだ果たせていません」(司法関係者)
そんな折、耳を疑うような話が舞い込んできた。
この“元少年A”が近々、手記を上梓する予定だというのだ。
さる事情通によれば、
「版元は幻冬舎です。1年以上前から人づてに元少年Aと接触し、すでに聞き取り取材を終えている。
名前や写真は載せないものの、事件を懺悔する内容の手記という形で、原稿も出来上がっているのです」(事情通)
▼幻冬舎は、
1993年、角川書店を退社した見城徹社長が設立。
1998年には郷ひろみの告白本『ダディ』が大当たりし、2003年に株式を店頭登録。
その後、経営陣による自社買収(MBO)を実施するなど、何かと話題には事欠かない。
今回の手記は初め春先の刊行を見込んでいたと言い、
「2011年1月には、英国人女性殺害犯・市橋達也の“逃亡記”を出版して物議を醸しましたが、今回はさらなるハレーションが生じるのは明白。それもあって、企画は慎重かつ極秘に進められています。一方で、少年院時代から書き溜めてきた小説や詩なども入手しており、これらの“作品”を出す案も浮上しています」(同事情通)
■「いけないの?」
が、肝心の遺族はまるで蚊帳の外である。実際に、淳君の父・守さんは、
「本を出すとは、全く聞いておりません」(土師守)
と、驚きを隠さない。
「そもそも、商業ベースでやることではないでしょう。5月の淳の命日には毎年コメントを出させて貰っていますが、まずは彼(元少年A)が、自分の言葉で私たち家族に対して返事をしてくれればいいこと。その内容を人に見せないのは、当然の礼儀だと思います」(土師守)
現在でも命日が近づくと、元少年Aからは弁護士を介して手紙が届くのだが、
「内容を読む限り、彼の理解が、私たちの望んでいるような答えを出せるレベルに至っているかと言えば、まだ暫くは難しいと思います。小説や詩にしても、“メディアに出るようなことはして欲しくない”と、早い時期から要望してきたのですが……」(土師守)
そうした不信感は、おのずと版元にも向けられ、
「出版の話が本当であれば、あまりにも被害者や遺族を蔑ろにしているとしか言いようがありません。遺族に伝えることがまずなすべきことで、この話が嘘であってほしいと願っています」(土師守)
当の幻冬舎は、
「出版の予定はなく、元少年Aやその関係者に接触したこともありません」(幻冬舎総務局)
それでも見城社長に問うと、
「万万が一、予定があるとして、出したらいけないの? 彼は残虐な殺人を犯したけれど、法に従って少年院に入って、反省して出てきているわけでしょう。新たに犯罪を犯してもいないのに手記がダメなら、何のための法律ですか!!」(見城)
そう畳み掛けつつ、含みを持たせるのだ。
「僕は、あの市橋の手記で懲りたんだ。まだ裁判が始まる前で、たまたま被害者が海外の人だったから何も言ってこなかったけれど、やっぱり公判前はまずかった。僕は、本を出すたび、“果たして出してよかったのか”と反芻しているんだよ」(見城)
とはいえ確信犯には違いなく、つまりは、あくまで算盤ずくというわけだ。
「遺族だ、被害者だって言うけれど、屁理屈だよ。元少年は毎年遺族に手紙を書いているわけだし……。君たちだって、いちいち被害者に取材しないでしょう。大体、手記を出したところで、売れないって」(見城)
もしや、なかった事にするおつもりか。
↑[週刊新潮2015/1/29号]↑
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被害者=土師ハセ淳(11)=死亡
被害者=山下彩花(10)=死亡
神戸連続児童殺傷事件は
1997年に
兵庫県神戸市須磨区で発生した当時14歳の[友が丘中学校生]による連続殺傷事件。
この事件で、
2名が死亡し、3名が重軽傷を負った。
■概要
数ヶ月にわたり、複数の小学生が殺傷された事件である。
通り魔的犯行や遺体の損壊が伴なった点、
特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、
地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点など、強い暴力性が伴なう特異な事件であった。
また、犯人がいわゆる「普通の中学生」であった点も社会に衝撃を与えた。
警察は聞き込み捜査の結果、少年Aが動物への虐待行為をたびたびおこなっていたという情報や、
被害者男児と顔見知りである点などから、比較的早期から彼に対する嫌疑を深めていたが、
対象が中学生であるため、極めて慎重に捜査は進められた。
当時は、
中学生には到底不可能な犯行とされたこと、
警察が少年Aに虚偽の説明をして調書を作成したのでないか
などで冤罪の可能性も指摘されていた。
■事件の経緯■
■第1の事件➽離陸開始
▼1997年2月10日午後4時ごろ、
神戸市須磨区の路上で小学生の女児2人がハンマーで殴られ、1人が重傷を負った。
犯人がブレザー着用、学生鞄を所持していたと聞いた女児の父親は、近隣の中学校に対し犯人がわかるかもしれないので生徒の写真をみせてほしいと要望する。しかし、学校側は警察を通して欲しいとして拒否したため、父親は警察に被害届を出して生徒写真の閲覧を再度要求したものの、結局、開示されることはなかった。
この事実により、犯人逮捕後、学校側に対し、「この時点で何らかの対応をしていれば第2・第3の事件は防げたのではないか」「結果的に犯人をかばっていたことになる」との批判が起こった。
■第2の事件➽山下彩花殺害
▼1997/3月16日午後0時25分、
神戸市須磨区竜が台の公園で、付近にいた小学生の女児に手を洗える場所はないかとたずね、学校に案内させた後、「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」(少年Aの日記より)といい、振り返った女児を八角げんのう(金槌の1種)で殴りつけ逃走した。女児は病院に運ばれたが、3月27日に脳挫傷で死亡した。
さらに、
午後0時35分ごろ、別の小学生の女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺して2週間の怪我を負わせた。
■第3の事件➽土師淳殺害
▼1997/5月24日
5月24日午後、神戸市に住む男児を通称「タンク山」と呼ばれている近所の高台に誘い出し、殺害。
少年Aは人を殺したいという欲望から、殺すのに適当な人間を探すために、昼過ぎにママチャリに乗って家を出た。町内を約10分くらいブラブラしながら自転車を走らせた。その後、多井畑小学校の北側を東西に走っている道路の北側の歩道を、東から西に自転車を走らせていたところ、多井畑小学校の北側の歩道上に少年とは反対に、西から東に、1人で歩いてくる男児を偶然みつけた。
男児は同地区に住む放射線科医師の次男で、当時11歳であった。男児は祖父の家に行くといって午後1時40分ごろ、自宅を出ていた。咄嗟に少年Aは「淳君ならば、僕より小さいので殺せる」と思った。少年Aが男児を知った時期ははっきりとは覚えてはいないものの、田井畑小学校の5年生ころで同じ小学校のなかに、身体障害者のための「なかよし学級」があり、そのなかに男児がいることを知った。その後、男児が少年の家に遊びに来るようになった。これは少年Aが直接知り合ったわけではなく、少年Aの一番下の弟が同級であったからである。その際に少年Aの家で飼っていたカメに男児が興味を示したことからカメが好きなことを知る。
咄嗟に「土師ハセ淳君を殺そう」と思い、男児の方へ近づいた。近づきながら、少年Aは殺す場所を考えたが、タンク山が脳裏に浮かんだ。かつ、タンク山のケーブルテレビアンテナ施設のところならば、少年A自身よく知っており、人に見られることもないと考えそこで男児を殺そうと考えた。少年Aは男児に対し「青い色のカメがいる」とタンク山に誘い出し、その場で絞殺して遺体を隠した。
殺害は絞殺であったが、当初は手で締めていたものの、なかなか死なないため腕が疲れ、さまざまな体位で試み、ナイフで殺そうと考えるが、ナイフを忘れたことに気付く。そこで埋まっていた石があったため、撲殺を思いつき石を持とうとするが土中深く埋まっていたため、動かなかった。このため、今度は自らの運動靴の紐で絞殺をしようと考え、左足の運動靴の紐を少しずつ解いていく。それを輪にして首にかけうつ伏せになった男児の腰付近に馬乗りになり、力一杯両手で持ち上げる。一生懸命殺そうとするのになかなか死んでくれない男児に対し、少年Aは腹を立て、男児の顔や頭を踵で蹴ったり顔を殴ったりしている。最後は、仰向けになった男児の腹部に馬乗りになり靴紐を力一杯引く。このとき少年Aの手にはギュッと食い込む手応えがあり、しばらく締め続けたところで呼吸音が止まった。さらに、死んだかどうか分からなかったため、靴紐の端を施設のフェンスか桟に結びつけ、さらに締め続けた。死んだと思った後には男児の左胸に右耳を当て心音を確認している。
殺害の後、少年Aは男児の死体をどうするか考えたが、放置すればすぐにみつかってしまうと考えた。死体は発見されないに越したことはないし、発見されるにしても、できるだけ遅らせたいと考えた。死体が発見された段階で警察の捜査が始まると考えたからである。男児の死体は重いため遠くへは運べないと考え、ケーブルテレビアンテナ施設のなかの鉄の建物の床下が草が茂り、みえにくいと考えたが、施設の入り口には鍵がかかっていたため、咄嗟にその南京錠を壊し、床下へ運び込むとよいと考えた。そのための道具として糸ノコギリを準備しようと考えた。同時に、南京錠を壊しただけでは不審に思われると考え、新たな南京錠に付け替えるとよいと思い、かつて、カメの餌を買ったり、小学校6年当時に同級生仲間と斧、のこ、鎌を万引きしたりしたことがある生活協同組合コープこうべリビングセンター北須磨店(のちに、コーナンに変わったが、現在は万代スーパーになっている)で万引きすることを思いつく。
万引きしようと考えたのは、ひとつにはお金がなかったこと、ひとつはお金を出せば店員に顔を覚えられる可能性があったためである。男児をそのままにして少年Aは登ってきた道順と同じ道順でタンク山を降り、ママチャリに乗り、コープリビングセンター北須磨店へ向かった。そこでまず、糸ノコギリを盗む。次いで南京錠を盗んだ。南京錠は形や大きさが大体同じであればよいと考えていたので、正確に大きさを確認してはいない。その後、ふたたびママチャリでタンク山の「チョコレート階段」を登ったりして男児と一緒に上った道順と同じ道順でケーブルテレビ施設の前まで戻った。1分くらいかかって南京錠を切断すると、両手を男児の脇の下に入れ、上半身を浮かせて下半身は地面に付けたような感じで後ろ向きに引きずって施設の中へ入れた。
ところが、鉄の建物と施設の入り口との間にアンテナが置いてあったため、男児の死体を建物の床下に入れるには、そのアンテナが邪魔になったため、いったん死体を置き、アンテナをずらしさらに引きずり床下へ死体を蹴り込むような感じで押し込んだ。押し込んだ後で建物付近に男児の運動靴が一個落ちていたため、靴を拾い上げて死体のそばへ置いた。その後、万引きした南京錠を施設の出入り口のフェンスにかけるとタンク山を降りる。
この後、友人とビデオショップVの前で待ち合わせしていたため、万引きした糸ノコギリは邪魔になる上、友達に疑われる可能性があると考え、死体を隠したすぐ側の溝の落ち葉の下に隠した。切断した南京錠はジーパンのポケットに入れて持っていた。男児を殺した時点で待ち合わせ場所へ行っていたならば、午後4時には十分間に合っていたが、コープリビングセンター北須磨店に行ったり、死体を隠す工作のため時間がかかったりして、友達らとの待ち合わせ場所であるビデオショップV前へ着いたのは当日午後4時25分から30分の間であった。その後、友達らと遊んだ後、午後6時過ぎごろに自宅へ帰っている。
家に帰ると、少年Aの母が「土師淳君がおらんようになったみたいよ」と言ったが、少年は「ふうーん」と返事をした。その後、少年は2階の自室へ上がっている。その後、疲れた少年Aはベッドで寝てしまったため、夕食はとっていない。少年Aは、早く寝たときはよく夜中に目を覚ましたが、この日も時間は不明ながら目を覚ました。その際に一日のことを振り返った。男児を殺したときの様子を思い出すうちに、南京錠を切るのに使った糸ノコギリを施設内に隠しているのを思い出し、フッと自然にその糸ノコギリで人間の首を切ってみたいという衝動に駆られた。
具体的には、人間の体を支配しているのは頭だから、その司令塔である頭を胴体から切り離してみたい、その時に手に伝わってくる感覚や、切った後の切り口もみてみたいと思った。少年Aはそれまでに何十匹というネコを殺して首を切ったりしたが、ネコだとナイフ1本で簡単に切れるため、もっと大きなもの、しかも、自分と同じ種族である人間を切ってみたいと考えた。この衝動は以前からあったかもしれないが、ずっと忘れていて、この時、急に衝動に駆られたと供述している。
午後8時50分に被害男児の家族より須磨警察署に捜索願が提出された。
▼1997/5月25日
この日より、警察、PTA、近隣の保護者などが捜索に参加、公開捜査に踏み切る。
少年は10時から12時にかけて起床し、自分でパンを焼いて食べ、昼過ぎ(午後1時から3時の間)に男児の首を切るために自宅を出る。少年は人間の首を切ると大量の血が出ると考えたため、黒色のビニール袋2枚を準備する。首を切った後の糸ノコギリ持ち運ぶため、学校で使用している補助カバンももって出る。さらに、「龍馬」のナイフ3本と出刃包丁1本を持っていたが、「龍馬」のナイフの内、2本は親に取り上げられていたため、その1本をジーパンのポケットか腹に差して持って出た。
この日もママチャリに乗ってタンク山の下へ着いた。殺害日にはあせっていたため、「チョコレート階段」下に自転車を停めたが、この日は余裕があったため、人目に付かぬよう、入り口よりも右側に自転車を停めた。タンクの周りの獣道からケーブルテレビアンテナ施設へ着くと、新たに付け替えた南京錠の鍵を持っていたため、それで南京錠を開ける。この供述を聞いた検事は、当初、少年は「付け替えた南京錠の鍵は5月24日に捨てた」と話していたため、質問をすると少年は「僕の思い違いだったと思います」と答えている。
アンテナ施設の中に入った少年は隠していた糸ノコギリを取り出すと、「局舎」の床下に隠していた男児の死体の肩の服の部分をしゃがみこんで引っ張り、胸から上を床下から引っ張り出し、男児の首が溝の上付近に来るように置いた。このときの少年は特にワクワクするという気持ちはなかったと供述している。男児の首の下にビニール袋を敷くと、糸ノコギリの両端を持ち、一気に左右に2回切る。ノコの歯が細かったため、スムーズに切れ、切り口がのぞく。人間の肉が切れることを確認した少年は左手で男児の額のあたりを押さえながら、右手で首を切っていく。この時、少年は「現実に人間首を切っているんだなあ」と思うと、エキサイティングな気持ちになったと供述している。首を切っていく内に、段々と頭の安定が悪くなったため、男児の首の皮が1枚になった時に左手で髪をつかんで上に引っ張り上げ、首の皮を伸ばして一気に首の皮を切った。その後、しばらく地面に置き、鑑賞しながら、「この不可思議な映像は僕が作ったのだ」という満足感にひたった。
ところが、しばらくすると、男児の目は開いたままで、眠そうにみえ、どこか遠くを眺めているように少A年にはみえた。さらに、男児は少年Aの声を借りて、少年Aに対して、「よくも殺しやがって 苦しかったじゃないか」という文句をいった。それで、少年Aは男児に対し、「君があの時間にあそこにいたから悪いんじゃないか」といい返した。すると、男児の首はさらに文句をいった。少年Aは、これは死体にまだ魂が残っているためだと考え、魂を取り出すため、また、眠たそうな男児の目が気に入らなかったため、「龍馬」のナイフで男児の両目を突き刺し、さらに、両方の瞼を切り裂き、口の方からそれぞれ両耳に向け、切り裂いた。さらに少年Aは男児の首を鑑賞し続けたが、その後は文句をいわなくなった。さらに、「殺人をしている時の興奮をあとで思い出すための記念品」として持ち帰ろうと考え、舌を切り取ろうとしたが、死後硬直でかなわなかった。さらに、ビニール袋に溜まった男児の血を飲むが、金属をなめているような味がしたと述べている。
後に、少年Aは人の気配を感じ、来た方向ではなく、北須磨高校への獣道をたどり入角ノ池へ向かう。この池付近の森は人が来ず、ゆっくりと男児の頭部を鑑賞するのが目的であった。男児の頭部の入った黒いビニール袋を右手に持ったまま町中を歩いたが、特に神経がピリピリすることもなく、ボッーとしたような、しかし、いつもと同じ気持ちで歩いた。
池に向かうまでに、少年Aが多井畑小学校に通学していた当時に見覚えのある女性に出会っているが、少年は多井畑小学校の教職員だと思う。少年Aは女性が男児を探しているのだと考えた。その後、向畑ノ池の横を通り、池の南側の友が丘西公園へ行く。さらに、公園内に入り、公園のフェンス横の出入り口から森に入る。森に入ると道が険しくなったため、少年Aは糸ノコギリを入れていた補助カバンを腹の中から取り出すと、男児の首の入ったビニール袋を補助カバンに入れ直す。
さらに、右手に持ったまま入角ノ池へ歩き出すが、途中、機動隊と少年が思った3人に出会う。少年が機動隊と考えたのは、少年が知る警察官の格好ではなく、黒っぽい服に前にツバの付いた帽子をかぶり、肩には細い縄を掛け、身長よりも長い棒を持っているためであった。その3人の一人から「君はどこから入って来たんだ」と聞かれた少年は「公園の入口から入って来ました」と答えた。すると、その中の一人が少年に向かって「危ないから帰りや」といった。少年Aの記憶では3人に出会ったのが池へ向かう途中なのか、帰りなのかはっきりしない。検事に機動隊と思われる人たちに出会ったときの気持ちを聞かれ、「別になんとも思わず、平常心でした」と答えている。入角ノ池へは、過去に数回行ったことがあった。
少年Aは池に着くとロープを伝って池の淵へ下りる。男児の首を隠す場所を物色したところ、池付近に木の生えだしたところがあり、木の根元に丁度首の入る位の穴をみつける。そこで補助カバンから男児の首を取り出すと、至近距離からふたたび鑑賞する。少年Aは新たに人のいないところで首を鑑賞すれば、何か新しい感動が得られるのではないかと期待してのことであったが、たいした感動は得られず、「ああ、こんなものか」と思った程度であったと供述している。そのため、2-3分しか鑑賞せず、ビニール袋に入れると穴の中に袋ごと男児の首を押し込んだ。ふたたび来た道を帰り、向畑ノ池で糸ノコギリを投げ捨てた。その後、タンク山下付近に停めた自転車を取りに戻った後、帰宅した。時間は不明である。この夜も、少年Aは目を覚まし、物思いにふけるが、死体が時間とともにどう変化するかに大変興味を持つ。
▼1997/5月26日
5月26日、少年Aは10時頃に起床し、男児の首を見るため池へ向かう。この日は、5-6分観察する。少年Aの言葉では、鑑賞ではなく観察したという。観察の結果、男児の顔などは色が25日に増して青白くなっていただけで大きな変化はなく、もっと大きな変化があると期待していた少年はがっかりした。変化がなかったことから、興味がなくなり、今度はどこへ隠そうかと考え始めたが、日本の警察ならどこに隠そうと遅かれ早かれ胴体も頭部も発見されるだろうと考え、そうであるなら、むしろ自分からあえてさらすことで、警察の捜査から自分を遠ざけようと考えた。そのために、自分の通う友が丘中学校が警察にとって盲点になると考えた。
少年Aの供述では、
「友が丘中学校の生徒が、自分が通っている中学校に首を置くはずがないと思うだろうし、そうなれば、捜査の対象が、僕から逸れると考えた」からであった。もう一つの理由として、「僕自身、小さいころから親に、人に罪をなすりつけてはだめだといわれて育ちました」からだという。さらに、「それで、僕は、一方ではそんな僕自身に対して嫌悪感があったので、何とか責任逃れをしたいという気持ちもありました。しかし、人に罪をなすりつける訳にはいかないので、僕自身を納得させるために、学校が淳君を殺したのであり、僕が殺したわけではないと思いたかったのです。単に、学校に責任をなすりつけるための理由であり、実際に学校に対する怨みや学校の教育によって、こんな僕ができてしまったと思っていたわけではありません。友が丘中学校に土師淳君の首をさらすにしても、どこに置くかと考えましたが、当然、それは一番目立つ場所がよいと思い、そうなれば、当然、友が丘中学校の正門に置くのがよいと考えました。
そこで、僕はふたたび土師淳君の首を入れているビニール袋の入口を引き上げて、淳君の首をビニール袋の中にすっぽりと入れて袋の口を閉じました。そのビニール袋を持って、入角ノ池から自転車を停めている友が丘西公園まで歩いて行き、そこから土師淳君の首を入れたビニール袋を自転車の前カゴに入れて、自転車に乗って家へと帰ったのです。家に帰った時には、家には誰もいませんでした。家に帰る途中、僕は土師淳君の首を洗うことを考えました。
その理由は2つありました。一つは、殺害場所を特定されないように、頭部に付着している土とか葉っぱを洗い流すためでした。あと一つの理由は、警察の目を誤魔化すための道具になってもらうわけですから、血で土師淳君の顔が汚れていたので、「せいぜい警察の目から僕を遠ざけてくれよ、君の初舞台だよ」という意味で顔を綺麗にしてやろうと思ったのです。そこで、家に帰った後、僕は、すぐに1階の台所の奥にある風呂場に土師淳君の首を入れたビニール袋を持って行きました。そして、そのビニール袋を床に置き、庭にタライを取りに行きました。そのタライを風呂場に持ってきた後、ビニール袋から淳君の首を出し、その首をタライに入れました。」
その後、少年Aは風呂場の水道の蛇口にホースを取り付け、水を出し、そのホースでタライの中に立てて置いた男児の首に水を掛ける。頭に掛けたり、顔に掛けたり、あるいは水を掛けながら手で顔を拭いたり、頭をゴシゴシ洗ったりした。また、首の切り口部分にも泥が残っていたため、そこも洗う。さらに、口を両方に切り裂いた傷口にも水を掛けると、その水がおのずと口の中までを洗った。以上の作業は少年Aの供述によれば、かなり丁寧におこなわれた。
ここで、
▽検事は少年Aにこう質問した。
「君は、土師淳君の首を切断した時には、土師淳君の舌を切り取ろうとしたと話しているが、この時点で舌を切り取ることは考えなかったのか」
▽これに対して少年Aは
「考えませんでした。それは、僕が土師淳君の首を切った時の感動を思い返すためだったのであり、この時点では時間が経ちすぎていて、切り取ったとしても過去の産物になってしまうからです。要するに、この時点で土師淳君の舌を切り取ったとしても、切り取った舌を後で見ても、その舌から思い出すのは、土師淳君の首を洗っている時のことであり、その様なことを思い出しても意味がないからです」と答えた。
洗い終わると、少年Aは風呂場にあったタオルで男児の顔や髪の毛を拭いた。拭いた後には、男児の髪を洗面所にあった櫛かブラシでとかした。その後、少年Aは首を入れていたビニール袋と血を入れていたビニール袋を風呂場で洗った後、首を入れていたビニール袋に男児の首をあらためて入れた。首は友が丘中学校の正門前にさらすつもりであったが、人目を避け、深夜に持ち運ぶつもりで、その間、自室の天井裏へ隠した。少年の部屋の天井は片隅の天井板が自由に動く構造になっていた。その後、少年Aはベッドに横になり、思いをめぐらすが、男児の首を校門へ置くだけでは警察の目を自分から逸らすには物足りないため、さらに捜査をかく乱する方法を考えた。すぐによい方法は思い浮かばなかったものの、その日の夜までに少年Aが考え付いたのは男児の首に何かを添えればよいということだった。そう考えたとき、男児の口が開いているため、添える物は口にくわえさせようと考えた。加えさせるものは何がよいかと考えていくうちに、手紙が一番だと考えたが、その理由は「偽りの犯人像」を表現するには、手紙が一番表現しやすいと思ったからである。
その日の夕食は家族とともに食べたと思うが、はっきりとは覚えていないと供述(1997/7月10日)している。夜になり、手紙にはどんなことを書くべきか自室で考えた。これまで読んだことのある本の中から覚えている言葉や自分で頭に浮かんだ文章等を思い浮かべたりしたが、さらにインパクトのある表現が必要と考えた。そこで、自室にあった漫画本の内、『瑪羅門の家族』第3巻の目次に「積年の大怨に灼熱の裁きを」という文章が目に入ったが、この文章をみた少年Aは「積年の大怨」ということになれば、長年積もり積もった恨みを持った者の犯行と読んだ人間は思い、そうなればある程度歳のいった者の犯行と思われるのではないかと考えたため、この文章を使うことにした。ただ、「灼熱の裁きを」というところは別に男児の頭を焼いたわけではないので、イメージに合わないと思い、むしろ、血を連想するのがイメージに合うと考え、「流血の裁きを」という表現にしようと考えた。
さらに、
1997/7月10日の少年Aの供述はこう続く。
「そして、僕が考えた文章は、今でもよく覚えています。僕が書いた文章については、赤のペンと黒のペンで書きましたので、それぞれのペンを貸してくれれば、僕が書いたとおりに再現することができます」 (このとき、担当検事は、少年Aに対し、白紙とサインペンを渡したところ、任意に文章を作成したので、それを受け取り、資料1ッとして、この調書の末尾に添付することにした)
👇1997/7/10に少年Aは検事の前で以下の様に、再現して紙に書いた👇
《だが・・<大怨>であるのに、[大恐]と書いてしまう》
■
さあ ゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
僕を止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大恐に流血の裁きを⇔<大怨>
SHOOLL KILL⇔⇔KILLER⇔
学校殺死の酒鬼薔薇
■
「今書いたように、土師淳君の口にくわえさせる文章を書きました。なお、この文章の中で、『愚鈍な』という文字は、僕が別の本で読んで覚えていた文字であり『積年の大恐に流血の裁きを』というところは、先程話したように、『瑪羅門の家族』というマンガの本の第3巻の目次のところをそのまま書き写したのです。今書いた文章だと『恐』という文字を書きましたが、僕自身、この時はそのマンガを見ながら書いたのであり、僕が覚えていた字ではなかったので、間違っているかもしれません」
この時・・・
▽検事は少年Aに質問する。
「『汚い野菜』という表現は、どういうところから考えたのか」
▽少年A
「これは僕自身の言葉です。僕は小さい頃、親に『運動会で緊張するなら、周りの人間を野菜と思ったらいいよ』と言われていました。そこで僕は、周りの人間が『野菜』に見えてしまうのです。その他、ほとんどの文章は、僕は頭で考えたものであり、テレビで言っているような、何か小説から引っ張り出したといったものではありませんでした。この手紙には、マークを書いていますが、これは僕のマークであり、ナチスドイツの逆卍をヒントにしたものです。ナチスドイツの逆卍については、テレビでも見たことあるし、僕自身ヒットラーの『我が闘争』という本を読んでいました。この僕のマークは、小学校の頃に作ったものです。
英語でSHOOLL KILLと書きましたが、その時僕は、これでスクールキラーと呼ぶものだと思っていたので、このように書いたのです。
この手紙を書いた用紙は、部屋にあったスケッチブックに書きました。この手紙を包んだ紙も、同じスケッチブックの紙でした。包んだ紙の表の面には、『酒鬼薔薇聖斗』と赤いペンで書き、その名前の下に同じマークを黒のペンで書きました。裏の面には何も書きませんでした。
『酒鬼薔薇聖斗』とは、
別の機会で話したように、僕が小学校5,6年生の頃に、悪い方の僕自身に付けた名前でした。
『酒鬼薔薇聖斗』についてもマークを作っていました。そのマークは(調書にはその絵が添えられている)でした」
▽検事
「酒鬼薔薇聖斗のマークもあると言いながら、なぜこの時は君のマーク(逆卍風車)を付けたのか」
▽少年A
「分かりません。これらの文章は、5月26日の夜、僕の部屋で一気に書きました。なお、この文章を書くのに利用した『スケッチブック』や『瑪羅門の家族』の第3巻は、後で燃やしたと思います。このようにして、僕は、警察の捜査を撹乱させる目的で、土師淳君の頭部の口にくわえさせる手紙を完成させました。僕は、土師淳君の首を友が丘中学校の正門に置きに行くためには、家の者が寝静まった夜中がいいと思いましたので、夜中になるのを起きて待ちました。そして正確な時間は覚えていませんが、平成9年5月27日の午前1時頃から午前3時までの間に、土師淳君の首を置きに行ったのです」
この日、男児の行方不明事件として警察が捜索開始。
▼1997/5月27日
少年Aは、深夜未明、男児の首を友が丘中学校の校門前に置きに行くために、自室の天井裏に置いていた黒色のビニール袋を取り出す。さらに、男児の首にくわえさせる手紙をジーパンのポケットに入れる。ビニール袋は補助カバンに入れるた。少年Aの部屋は2階にあるため、1階に下りるには階段を下りねばならない。同じく7月10日の少年Aの供述によれば、
「しかし、僕の家の階段は、上り下りすると『ギー』という音がしますし、両親の部屋は、その階段のすぐ側なので、階段を下りて行けば、両親に見付かってしまう可能性があると思いました。そこで僕は、僕の部屋の窓から外へ出ることにしたのです。でも、重たい淳君の首を持ったままで、窓から外へ出るのは難しいと思いました。そのため、僕は、僕の机の中から電気コードを2,3本取り出し、それをつないで、片方の端を土師淳君の首を入れている補助カバンにくくりつけ、それを庭まで降ろしました。その後、今度は僕が窓から降り、先に降ろした補助カバンを持って、自転車置き場まで行き、僕が使っているママチャリの前のカゴの中に、その補助カバンを入れました。そして、ママチャリに乗って、友が丘中学校の正門に向かって行ったのです。僕の家から友が丘中学校の正門までの道順については、今、検事さんから受け取った地図に赤のボールペンで書き込みました」
(この時、担当検事は、
少年Aが任意に作成し、提出した図面を受け取り、資料二として本調書末尾に添付する事にした)
「友が丘中学校の正門の手前は、今地図に書いたように、車道ではなくて、歩道を通って行きました。僕の家を出た後、友が丘中学校の正門までは、誰とも会いませんでした。・・・~・・・」
「・・僕が、友が丘中学校の正門前に来て、自転車を停めた後、自転車の前カゴに置いていた補助カバンの中から、淳君の首を入れた黒色のビニール袋を取り出したのか~とにかく淳君の髪の毛を持って、その首を取り出しました。中学校の正門は、図面に書いたように、右側に塀があり、その左側に横に押す鉄の扉がありますが、その扉は閉まっていました。僕は、まず正門の右側の塀が目に入ったので、その塀の上に淳君の首を置くことにしました。
僕は、
■淳君の頭部の首付近を両手で持って、《背伸びをしながら》■
その塀の上に淳君の首を置きました。
そして、塀の上に置いた首が、どの様な感じに見えるのかと思い、
2~3歩後ろに下がって、淳君の首を見たのです。
ところが、その時、淳君の首の据わりが悪かったのか、淳君の首が手前に落ちて、地面に落ちました。僕は、まさか淳君の首が落ちるとは思っていなかったので、一瞬淳君の首が塀の上から消えたと思い、下を見ると淳君の首がありました。地面に落ちた時に、音はしたと思います。
そこで、僕は、淳君の首をどこに置こうかと考えまたが、正門の前だと、一番目に付くところだと思いましたし、地面の上ならば据わりもいいだろうと思い、淳君の首を持って、正門の鉄の扉の中央付近に、顔を道路側に向けて淳君の首を置きました。
淳君の首を置いた後、僕は、ジーパンのポケットに入れていた手紙を取り出し、淳君の口にくわえさせました。手紙の向きは、丁度酒鬼薔薇聖斗という文字が見えるように、縦にくわえさせました。
「酒」という文字の方を口にくわえさせたのです。
そのくわえさせた様子を僕は5~6分位眺めていました。その間、僕は、学校の正門前に首が生えているというような「ちょっと不思議な映像だな」と思って見ていたのです。
淳君の首を5~6分位眺めた後、僕は、再びママチャリに乗って家へと帰りました。
家に帰った後は、やはり家の側にある鉄の棚を利用して、窓から2階の僕の部屋へと戻りました。
部屋に戻った後は、眠たくなかったので、朝まで起きていました。
▽検事「5月27日午前5時頃に、中学校の正門に来た人が、淳君の首はなかったと話しているようだが、その点はどうか」
▽少年A「単なる思い違いです。何故なら、僕の親は、午前5時頃には、台所にいるので、とてもその様な時間帯に淳君の首を持って家を出ること等不可能なのです。少なくとも午前3時頃まででなければ、親に知られずに行動することは出来ないのです。従って、淳君の首を正門前に置いたのは、遅くとも午前3時頃までだと思います。
その後、5月27日のテレビを見ていると、その日の内に淳君の首が発見されたことが分かりました。淳君の首が発見されるように置いたのですから、その点については、当たり前のことなので、何とも思いませんでした。
ところが、その後、その日の内に、「タンク山」のケーブルテレビアンテナ施設の「局舎」の床下に隠していた淳君の胴体部分も発見されたのです。このニュースを見た時は、正直言って、「早すぎる」と思い、びっくりしました。僕は、今回の事件を起こす前から、いつも新聞の番組欄と三面記事の欄は見ていましたので、今回の事件を起こした後も、新聞記事を読んだりしました。また、テレビ等も見たりしたのですが、連日、淳君の事件の報道は、大きくなされていました。それらの報道を読んだり見たりした僕は、
僕が思った通りに、マスコミは、
➊犯人像を30代から40代の男としたり、
❷黒のブルーバードが目撃されたとか、
❸犯人は××(A自宅近辺)地区以外の人間である等と報道していました。
しかも、その報道の内容は、ほとんど嘘でした。
ここまで上手く行ったので、そうなると僕は、今後何をしても、僕が犯人だということは分からないだろうと思うようになりました。はっきり言って、調子づいてしまいました。
そこで、僕は、新たに「神戸新聞社宛の手紙」(第二の声明文)を書くことにしました・・・」
ーーーーーーーーーーーーーーーー
■1997/5月27日早朝■
2枚の紙片(犯行声明文)が添えられた被害男児の頭部が市内の友が丘中学校正門前で発見される。紙片のなかで、少年Aはみずからを「酒鬼薔薇聖斗」と称し、捜査機関などに対する挑戦的な文言をつづっている。
警察は記者会見で、
「酒鬼薔薇聖斗」を「さけ、おに、ばら…」と文字ごとに分割して読み、何を意味するか不明と発表、報道機関も発表と同じ表現をした。
■テレビ朝日の特別報道番組でジャーナリストの【 黒田清 】が ■
「サカキバラセイトという人名ではないか」と発言。
これ以降、マスコミや世間でも「さかきばら・せいと=人名」という解釈が広がった。
犯人が未成年で本名が公開されなかったことから、事件解決後の今でも、
この事件の犯人を「酒鬼薔薇」または「酒鬼薔薇聖斗」と呼ぶ人もいる。
1997/6月4日、神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。内容はこれまでの報道において「さかきばら」を「おにばら」と誤って読んだ事に強く抗議し、再び間違えた場合は報復する、としたものだった。また自身を「透明なボク」と表現、自分の存在を世間にアピールする為に殺人を犯した、と記載している。この二通目の声明文には校門前で発見された男児に添えられていた犯行声明文と同じ文書が同封されていた。最初の犯行声明文は一部文面を修正した形で報道されていたが、神戸新聞社に届いた声明文に同封されていた犯行声明文の一通目には、修正前と同じ文章で同封されていた。具体的には、遺体と共に発見された文面の5行目は「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だが、「人の死が見たくてしょうがない」と変更して報道された。神戸新聞社に届いた文面には、事件に関わった人物しか知ることができない「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と書かれていたため、この声明文はいたずらではなく犯人によるものだと確定された。いわゆる秘密の暴露である。
■■1997/6月28日、少年A逮捕■■
少年A逮捕以降の動き
・6月29日、兵庫県警捜査本部は、少年Aを男児殺害・死体遺棄容疑で神戸地検に送検。10日間の拘置が認められる。
・6月30日、頭部を一時、自宅に持ち帰ったなどの供述が報道される。
・7月1日、頭部切断は儀式とする供述が報道される。
・7月2日、少年Aの顔写真が掲載された『フォーカス』が発売される。犯行の経緯について「カメを見せる」と誘ったなど供述が報道される。
・7月6日、兵庫県警が向畑ノ池の捜索で、金ノコギリを発見。その様子が報道される。
・7月8日、拘置期限が切れたこの朝、地検は拘置延長を請求。神戸地裁は10日間の拘置延長を認める。池からハンマーが発見される。
・7月9日、別のハンマーが向畑ノ池で発見される。
・7月11日、少年Aをバスに乗せ、タンク山とその周辺を実況見分。
・7月15日、2月と3月の通り魔事件で少年Aを再逮捕。
・7月16日、午前に捜査本部は通り魔事件で少年Aを送検、10日間の拘置請求が地検で認められる。
・7月17日、少年宅から押収された犯行メモの内容が報道される。
・7月21日、警官2名が、少年Aの二人の弟に対し、少年Aが再逮捕された通り魔事件について、Aの学校での行動、言動などを聞く。特に少年Aの母方の祖母の死の前後の様子を執拗に尋ねる。
・7月24日、警官が少年Aの両親に対して、被害者側に対し電話なり、詫びをすることを促す。この際、警官は「誤認逮捕はありえない。もし、誤認逮捕であれば、兵庫県警は今後存続しないでしょう」と話す。
少年Aの犯行時の心境
▼1997/5月24日の第3の犯行時、男児を殺しているときは、一生懸命殺そうとしているにもかかわらずなかなか死なない男児に対して腹が立ったりしたものの、同時に男児を殺しているという緊張感、あるいはなかなか死なない怒りなども含めて、殺していること自体を楽しんでいた。最終的に男児が死んだと分かったときには、殺したことと男児が自分だけのものになった満足感でいっぱいになり、その満足感は過去2回の殺人で得られるであろうと思っていた満足感よりももっとすばらしいものであった供述。
▼1997/3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で女児2人を襲った際には、後日、ハンマーで殴った女児が死んだことを知ったが、一瞬のことなので大きな満足は得られなかった。男児の場合は殺すのに時間がかかったため、それだけ大きな満足感を得ることができた。しかし、男児を殺した満足感もあまり長続きはせず、死体をどこへ隠そうかと考え始めた時には、はや満足感は消滅していた。
■その後の少年Aの処遇
・1997年10月13日、
神戸家庭裁判所は少年Aを医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移される。
・1999年、
第2の事件で死亡した女児の遺族と少年A側で約8,000万円の慰謝料を支払うことで示談成立。
・2001年11月27日、
治療が順調であるとの判断から、東北中等少年院に移る。
・2002年7月、
神戸家庭裁判所は、治療は順調としながらも、なお綿密な教育が必要として、収容継続を決定。
・2004年3月10日、
成人したAは少年院を仮退院。この情報は法務省を通じ、被害者の家族に連絡された。
・2005年1月1日、Aの本退院が認可される。
・2005年5月24日、
被害者少年の八周忌。Aが弁護士を通じて、遺族に献花を申し出ていた事が明らかになる。遺族は申し出を断った。
・2007年3月、
第2の事件で死亡した女児へ、医療少年院退院後、初めて謝罪の手紙が届けられた。
しかし遺族は「必死に生きようとする姿が見えてこない」と賠償についても疑問を投げかけた。
■遺族への慰謝料は、
Aの両親が出版した本の印税の他、
1ヶ月にAから4,000円と両親から8,000円支払われていると報道された。
■少年Aに関するエピソード
少年Aが在籍していた友が丘中学校の当時の校長である
【 岩田信義 】は、少年Aには問題行動、正確にいえば、風変わりな行動が多かった
と証言している。
他の生徒の靴を隠して燃やす、ラケットで何もしていない生徒の頭を叩く、カッターナイフで他の生徒の自転車のタイヤを切るといった行為があったといわれ、少年Aが在籍していた小学校からは「刃物を一杯突き刺した不気味な粘土細工を制作していた」という報告を受けたという
担任の話によると、少年Aの表情は総じて動きに乏しく、注意しても教員の顔を直視することがなく、心が別のところにあり、意識がずれ、言葉が届かない感じを受けたという。
しかし、これら少年Aの行動は思春期前期の子供にままみられるパターンであり、非行と奇行のはざまにある行動だと岩田は指摘している。
中学校では入学早々から繰り返される少年Aの問題行動に手を焼いていた。Aの保護者も精神科医に診察を受けさせていたが、精神科医は学校の中で指導する方がいいという判断を下し、児童相談所には通所させなかった。それを受けて、学校は重点的に少年Aを指導し、事実、1年生の2学期になると問題行動は減ったという。
それでも、教員の一部にはうちの学校で事件をやったとするならば少年Aではないかという認識が煙のように漂っていたという。岩田はそういう話を聞くたびに「軽々しく口にすべきではない」と静止したが、岩田も「ひょっとしたら」と思っていたという。
▼1996年5月11日、当時、中学2年生の少年Aは母の日のプレゼントに母の花嫁姿の絵を描いて渡す。前日に「母さん、何がほしい?」と聞く少年Aに、母は「気持ちさえこもっていたら、別に何でもええよ。無理せんで」と答える。すると、少年Aは両親の結婚式の写真を押入れから出すと、「母さん、この女の人、誰や?」と問うので、「母さんなんやけど」と答えると「へー」といって、少年Aはその写真を見た後、マンガ用の画用紙の裏に一気にその絵を描き上げ、母に手渡すと、スーッと2階へ上がっていった。少年Aが母にプレゼントをしたのはこれが初めてであった。
事件前の少年Aの自宅の斜め向かいの家の雨樋にはいつも石がたくさん詰まっていたが、これは少年Aがネコめがけて投げ付けていたものが溜まったものであった。ところが、少年Aの母はそんなこととは露知らず、隣人に知らせ、親切にも自宅の2階に案内し、そこからわざわざみせていた。近所では少年Aが投げ付けた石であることをほとんどの人が知っていたが、この母だけが知らなかった。
少年Aは、第3の事件の犯行の9日前の5月15日から、友が丘中学校には登校せず、母親とともに神戸の児童相談所に通い始めていた。これは、5月13日に同級生を公園に呼び出し、自分の拳に時計を巻き付けて殴り、歯を折るなどの怪我を負わせたため、5月14日に学校から父親が呼び出しを受け、その後、両親が相談の上、学校を休ませ、児童相談所を紹介してもらったためである。暴行の原因は「少年Aが身体障害者の子供をいじめていた」と被害者の同級生が塾でいいふらしていたためと少年Aは答えているが、少年Aは「犯行ノート」に「アングリ(聖なる儀式)」を遂行する第1弾として学校を休むことにした」と書いていた。
▼1997/7月24日、警官が少年Aの父に対し、被害者への謝罪に関し、たずねた際、
警官は少年Aの父に対しこう質問した。
「お父さん、2月10日、3月16日の被害者の名前はご存知ですか?」
これに対し、少年Aの父は答えられなかった。
■マスコミ報道の様子
被害少年の首が学校の校門に晒されるという猟奇的な事件であった点から、マスコミはこの事件の報道を連日行った。この事件は海外においても報道の対象になっている。
当初マスコミは、頭部が発見された早朝に中学校近くをうろついていたとされる「黒いポリ袋を持った20代から30代のがっしりした体格の男性」について繰り返し報道していた。
各マスコミは犯罪心理学者や作家にプロファイリングを行わせたが、犯人が未成年男子であるという分析をしたのは「16歳から23歳くらいの男性」としたロバート・K・レスラーのみであり、14歳という年齢は誰も的中しなかった。
犯人逮捕後、マスコミ取材はますますエスカレートし、一部には、少年Aの写真を同級生から高額で買い取ったり、関係者や近隣住民にしつこくインタビューを求めるなど報道被害と批判される行為を行った。これら一連の取材合戦について、後に産経新聞が「命の重さ取材して~神戸・児童連続殺傷事件」(産経新聞大阪本社編集局)で批判と自戒の総括を行っている。
また、少年A逮捕を伝える臨時ニュースで、須磨警察署前のテレビカメラに向かって、地元の少年らが笑顔でピースサインする姿にも批判の声が上がった。
■少年の情報漏洩騒動
少年法61条に、「家庭裁判所の審判に付された少年犯の氏名、年齢、住所、容貌などが明らかとなる記事や写真を、新聞および出版物に掲載してはならない」と制定されている。だが「審判に付される前」を狙って、新潮社が少年の顔写真を掲載した雑誌を販売。これ以降、新潮社の雑誌では少年の情報漏洩が続いた。
写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』(1997年7月9日号)に少年の顔写真と実名が掲載されることが判明すると、直ちに大半の大手業者は販売を自粛決定したが、新潮社は回収せず販売を強行、一部の書店で販売された(即刻完売)。さらに翌日、『週刊新潮』が少年の顔写真を目隠し入りで掲載して販売。翌日、法務省が『FOCUS』および『週刊新潮』に回収勧告するが、双方は拒否。『FOCUS』発売直後、ウェブサイトで犯人の顔写真が数多く流布された。
また、審判終了後、『文藝春秋』(1998年3月号)に、検事供述調書が掲載される事が判明。一部で販売自粛、各地の公立図書館で閲覧停止措置となる。後の法務省の調査で、供述調書は革マル派が神戸市の病院に侵入してコピーしてフロッピーディスクに保存していたことが判明。塩田明男が逮捕された。立花隆は、これを雑誌に掲載するか否かについて当時の編集長平尾隆弘から緊急に相談を受け、2時間で7枚に及ぶ調書を精読、「どんなことがあっても掲載すべき」との判断を下す。少年法61条に抵触するか否かについては、この法令が報道することを禁じているのは、あくまで、本人のアイデンティティを推知できるような要素であって、それ以上ではない-従って、この調書を載せること自体は少年法61条に抵触することは全くないと判断。掲載を推薦し「文藝春秋」(1998年3月特別号)に掲載された。立花隆自身バッシングが起こることは確実と予想してのことであった。 立花は『FOCUS(フォーカス)』に少年の顔写真と実名が掲載されたことについては、別の理由から反対している。
その後も『FOCUS』には、少年の犯行記録ノートや神戸市教育委員会の指導要録など、本来なら外部に流出するはずのない資料が次々と掲載された。
■被害者側の人権
特に、この事件をきっかけにして、大きくクローズアップされだしたのが、被害者側の人権問題であった。これまでも、この種の少年犯罪による事件では、犯罪者側の人権は十分に保護されるにもかかわらず、被害者側は個人のプライバシーまで暴き出され、マスコミからもさまざまな迷惑や圧力を蒙ることが問題視されてきたが、特に世間が大きく注目したこの事件がきっかけとなり、その後、多少の変化の兆しが見られるようになった。また、被害者側の働きかけにより、この事件の審判の過程においても異例の措置がとられるなど、司法側にも幾分の配慮が見られた。
■少年法の壁
いわゆる少年事件では加害者の住所氏名すら被害者に伝えられず、審判は非公開でどんな事実認定がなされたかすら知るよしもない。それは、わが子を失った親が、「子供はどれほど苦しんだのか。何か言葉を残したのか。そして、目は閉じていたのか」(土師守『淳 それから』)すら知りえるすべがないということである。加害者が嘘をついたり、被害者に対し中傷したとしても、被害者側は反論や否定すら出来ない上、処分が出てもその内容すら知りえない。被害者側は完全に蚊帳の外に置かれる。第三の事件の被害者の父とその弁護人である井関勇司が取り組んだのは、まず「少年審判への関与と情報開示の要求」であった。そのため、まず担当判事である井垣康弘に要求したのは「加害者の法律記録および社会記録(鑑別結果、調査票など)を見せてほしい」ということであった。これらは、加害者側の弁護人には閲覧や謄写が認められているが、加害者側の弁護人には認められていない。従って、この要求に対して井垣判事は拒否した。また、「遺族に審判廷で意見を述べさせてほしい」との要求も行ったが、これも否認された。これに対して「それならば、少年は退廷させてからでいいから、審判廷で意見を述べさせたい」との要求を行ったが、これも却下された。しかし、その後の粘り強い井関弁護士の交渉が実を結び、最終的には、公式の審判では無理だが、判事室で判事が被害者遺族に会って話を聞くということになった。これは、画期的な異例の事態であった。
この「異例の意見聴取」は、第4回審判が開かれたのと同じ10月13日、約30分間にわたって行われた。17日には神戸家庭裁判所での最終審判で、少年Aの医療少年院送致宇の保護処分が決定したが、家裁は「正確な報道のための資料提供の観点から」という理由で「処分決定の要旨」をマスコミに公表した。これはあくまでもマスコミに向けたものであって、被害者へはあくまでもマスコミを通して知らされた。言うまでもなく、それまでも事件に関する情報は、被害者側が知るルートはすべてマスコミであった。
■マスコミによる暴力
上記のごとく、被害者側が知りえる事件の情報はすべてマスコミを通じたものであったが、同時に被害者はマスコミから24時間監視され、多大な苦痛を味わっている。特に猟奇的な犯行であった第三の事件では、犯人が逮捕されるまでは、被害者宅に数多くのマスコミが張り付き、周囲の道路は違法駐車の車で交通渋滞ができ、被害者宅ではカーテンすら開けられない状況が続いた。かつ、犯人は両親ではないかとの憶測すら乱れ飛んだ。土師守はこれを「マスコミによる暴力」と表現した。また、1999年2月10日には、文藝春秋社から、犯人の供述調書(検事調書)7枚分が掲載され「少年Aの全貌」という見出しの『文藝春秋』3月号が発売された。事前に警察からこの情報を聞かされていた土師守は勤めている病院の売店で買い求めるが、最初の解説の部分を少し読んだだけで、その後の記事は読んでいない。奇しくもこの日は、被害男児の誕生日でもあった。弁護士の井関勇司は「遺族の心情を考慮すると問題だ、興味本位で読まれるのはつらい」と土師にかわってコメントを発表した。
■民事告訴
1998年8月26日、第3の事件の被害者の両親は、少年Aおよびその両親に対して総額1億4000万円の支払いを求める民事訴訟を起こす。訴訟に先駆け、弁護人である井関勇司らによって、少年Aの両親の資産状況が調査されたが、すんでいた家屋も借家で、支払能力なし、との判断であり、また訴訟に対して犯人の両親は事実関係をすべて認めるとの意思を示していたため、争点にならず、開示も期待できない状況であったが、「裁判所という公式なものの中で、きちんと犯人の両親の責任を認めてほしい」という2人の強い意志により、訴訟は起こされた。途中、和解勧告が出されたものの、成立せず、
1999年3月11日に全額の支払いを命ずる判決が出た。両親は、「現在の法律では、少年犯罪の場合、その責任の所在と償いということがうやむやになっている場合が多いが、その意味においても、この判決は意義のあるものだと思います」とのコメントを出した。
このしばらく後に、少年Aの両親が手記を出版することになった
(『「少年A」この子を生んで…父と母悔恨の手記』 文藝春秋)。
被害者の両親の疑問に答えること、賠償金支払いの目的などがあったとされるが、
被害者側の土師は不快に感じ、出版の中止を望んだ。
◆少年Aの母が2002年5月に少年Aと面会し、★冤罪の可能性★について尋ねた際、
彼Aは「それはありえない」と語っている。
現在の支払額は、
少年A=毎月4000円
両親=毎月8000円
14000万/1万2000≒11700ヶ月≒972年間≒1000年完済
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20011文字数
第1種=人体切断=酒鬼薔薇事件
第2種=人体解体=平岡都事件
第3種=人体αβ=γδω事件⇒未だ現在日本で発生してない。
■神戸連続児童殺傷事件、元少年Aが[絶歌ゼッカ]手記出版(太田出版)■
2015/6/10朝日新聞
1997年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の加害男性A(32)が、
▼「元少年A」の名▼で手記「絶歌ゼッカ」(太田出版)を出す。
犯行に至った経緯や事件後の生活、現在の心境などをつづっている。
2015/6/10から書店に並んだ。
太田出版の岡聡社長は、
「少年犯罪が社会を驚愕(キョウガク)させている中で、彼Aの心に何があったのか社会は知るべきだと思った」と出版の意図を説明。
「本は本人Aの手紙を添えて遺族に届けたい」と話している。
当時14歳だった元少年Aは、1997年2〜5月に同じ区内に住む児童5人を襲い、
・小4の女児と小6の男児を殺害、
・3人に重軽傷を負わせた。
事件は社会に大きな衝撃を与え、
刑事罰の対象年齢を16歳から14歳に引き下げる少年法改正のきっかけにもなった。
・手記(絶歌)は全294ページ。
・手記の帯には<1997年6月28日。僕は、僕ではなくなった。>と記載。
・扉のpageにA3歳の頃、祖母と撮ったという写真を載せている。
<どうしても処分できなかった>と、1枚だけ持っているA自身の写真という。
・「精神鑑定でも、関東医療少年院で受けたカウンセリングでも、
ついに誰にも打ち明ける事ができず、
20年以上もの間、心の金庫に仕舞い込んできた」
として事件前からの性的衝動を明かし、犯行に至るまでの自身の精神状況を振り返っている。
また後半では、
2004年3月に関東医療少年院を仮退院後、家族と離れて身元を隠し、
溶接工や日雇いアルバイトで、◆《1人で暮らしていた》◆事を書き記している。
現実社会の厳しさに直面しつつ、周囲の人々の支えによって罪と向き合う姿がつづられる。
一方で
「自分の物語を自分の言葉で書いてみたい衝動に駆られた」などとして、
書く事が生きる支えになっていた事も明かしている。
巻末では
「被害者のご家族の皆様へ」と題し、「どれほど大切なかけがえのない存在を、
皆様から奪ってしまったのかを、思い知るようになりました」とつづった。
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[太田出版=資本金4200万円・設立1985年・社員数23名]
講談社etcなどの大手出版社でなく、ココになった理由がある。
大手出版社であれば、人の出入りも多く・自己中で進められない~
影忍者のお忍び原稿打合せであっても、妖怪神出鬼没で思惑通りに行くにはキケン
スマホで盗撮されるキケン性・顔/風貌が他人に見られnet発信キケン性
➽当初は幻冬舎でボッ➽太田出版社へタライ回しで発売
●手記の帯には<1997年6月28日。僕は、僕ではなくなった。>と記載されている●
このコトバがAのすべての凝縮した答えだ。
【1997/6/28の意味➽Aが兵庫県警に逮捕された日】
【自己自由が奪われ・上手く逃げ切れなかった日に執着している➽殺す側の悔しさ】
・1997/6/27以前=僕は、僕であった=暴沸する間歇泉を沈めるが如く、自由に人を殺せた
・1997/6/28以降=僕は、僕ではなくなった=冷たい鉄格子に入れられ~解き放されたるも、
白夜に生き続ける・・吹き上がる血潮を、ただタダ垂れ流す日々・・
この僕を、誰が救済をしてくれとぞ!!
僕は、僕であり続ける、その日が来るまで・・
但し➽絶歌では<6/28にモンスターになり名前を失った日>と説明変換している。
太田出版社は販売継続(目先の儲かる中国的ビジネス)で、好調に売れている。
【絶歌の評価方法】
➊1年後or2年後にBOOKOFFで108円でゴミ本として投げ売りされていれば
➽単なる週刊誌的に読まれただけ~1度読んだらもう読み返す事のしない破棄本
❷3年後でもBOOKOFFに108円で投げ売り本として並んでいなければ
➽まさに、書物として買われた事になる。2度目を読まなくても家に保管したい本となる。
❸絶歌の評価は、BOOKOFFがリトマス試験紙である。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
◆1997年5月27日早朝、
神戸市須磨区の中学校正門に、
切断された男児の頭部が放置されているのを通行人が発見し、警察に通報。
◆1997/5月24日から行方不明となっていた近隣マンションに住む11歳の男児(土師淳)の頭部とわかった。
耳まで切り裂かれた被害者(淳)の口には、
「酒鬼薔薇聖斗」名の犯行声明文が挟まれており、
その残虐さと特異さからマスメディアを通じて全国に報道された。
◆1997/6月4日に犯人から第二の犯行声明文が神戸新聞社に郵送され、報道はさらに過熱。
◆1997/6月28日に兵庫県警の捜査により、犯人[A少年14歳]逮捕。
2004年3月、仮退院[関東医療少年院・当時の院長=杉本研士(精神科医)]した後、
2005年1月、に本退院[関東医療少年院]となって社会復帰した➽100%完全自由の身!!!
▼殺害された児童▼
・土師ハセ守(59)の次男⇔土師淳[小学6年生11歳]
・山下京子(59)の女児⇔山下彩花[小学4年生10歳]
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▼山下彩花・山下京子への慰謝料=8000万円[1999年示談成立]
▼土師淳・土師守への民事訴訟賠償額=1億4000万円[1999年判決]
➊男性Aの両親が1999年に出版した
《『少年A』この子を生んで…父と母悔恨の手記》(文藝春秋)
の印税は慰謝料に充てられた、
❷他に当初、A両親が毎月8000円、男性Aが毎月4000円を遺族に支払っていた。
❸Aの両親は退職金や手記本『「少年A」この子を生んで……』の印税などで、
これまで約8700万円(2015)を返済。
Aの仮退院後も返済を続け~~
2015直近で毎月7万円(Aが1万円+両親が6万円)を支払っていた[週刊朝日2015/6/26号・.dot]。
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神戸連続児童殺傷事件から18年…酒鬼薔薇聖斗が「自己救済」手記
2015/6/11スポニチ
今年2015/1月の段階で、手記が出されるとの情報が流れ、
遺族は「本当ならば被害者や遺族をないがしろにしている」と反発。
「ウソであってほしいと願っている」としていただけに、議論を呼びそうだ。
太田出版の岡聡社長(54)は6/10、男性A32が自ら出版を希望した事を明かした。
今年2015/3月初めに仲介者(見城徹)を通じて連絡があり、直接会って手記の草稿を受け取ったという。
被害者遺族に知らせないまま刊行し、初版は10万部。
◆印税については通常通りの契約をしており、男性A32に入る(太田出版営業部/取締役落合美砂)◆
その後の使途については明らかにしていない。
絶歌ゼッカ手記は、
男性Aが関東医療少年院に入院するまでと、
仮退院以降の生活についての2部構成。
1部では、犯行に至るまでの性的衝動や動物への残虐行為などを回想。
2部では、2004年3月の仮退院後にアルバイトや溶接工として働いた事に触れている。
男性A32は、
「自分の過去と対峙し、切り結び、それを書く事が、僕に残された唯一の自己救済」
だったと執筆の理由を説明。
最愛の祖母をA小学5年の時に亡くし、寂しさから祖母の部屋へ通う内、
祖母が愛用していたマッサージ器を使って精通を経験した事などを告白する描写もある。
➽祖母の死後、押し入れから愛用の電気マッサージ器を見つけた少年A、
《祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら~
祖母の愛用していた遺品で、祖母の事を思いながら、精通を経験した》という。
「酒鬼薔薇」は、Aの自作漫画に登場するキャラクターの名前だったとしている。
☆酒鬼薔薇=榊原(中学校女教師)☆
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👇犯罪・罪を本にして、元犯罪者がカネ・儲けるのは許されるのか!!の問題👇
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酒鬼薔薇事件で注目【サムの息子法】は日本にも導入できるのか?
2015/6/15[シェアしたくなる法律相談所/星野宏明弁護士]
酒鬼薔薇事件の加害者(通称=少年A)が現在の心境や、当時の精神状態などついてつづった手記が発売され、波紋を広げています。
特にに注目されているのは、数千万円にもなる可能性があるといわれている印税の行方です。
一部では慰謝料に充てるのはないかともいわれていますが、
◆犯罪者が自らの罪を商業的に利用する事、自体が問題視されている側面もあります◆
そして、この問題で注目されている法律があります。
それは《サムの息子法》と呼ばれるニューヨーク州の法律です。
この法律はなぜこのタイミングで注目されているのでしょうか。
そして、この法律は日本に導入する事は可能なのでしょうか?
■《サムの息子法》の内容■
ニューヨーク州の「サムの息子法」と呼ばれる法律は、
犯罪者が手記を書くなどして当該犯罪行為を基に収入を得た場合、
遺族など被害者側の申立てにより、手記出版による収益を取り上げる事ができるというものです。
➽1976年に、大手出版社がニューヨークで起きた【連続殺人事件の犯人】に
手記を書かせて売ろうとした事がきっかけで制定されたものです。
その後、
➽1984年に連邦レベルでも犯罪被害者法が制定され、
出版による収益だけでなく、没収された保釈金や犯人の差押財産も基金として
遺族や被害者のために分配される仕組みができました。
■日本にも《サムの息子法》を導入できるか?■
今回、酒鬼薔薇事件の犯人による手記出版に対し、遺族被害者が、差し止めを求めていますが、
日本でも導入する事は憲法上可能だと考えます。
➊導入する際に最大の問題となるのが、憲法が保障する表現の自由との関係です。
憲法が保障する表現の自由により、たとえ犯罪者による事件に関する出版であっても、
原則として国家(政府・裁判所)は制限できません。
もっとも、
他人のプライバシー侵害や名誉棄損を伴うものは例外的に差し止めできる場合がありますし、
いかなる時も表現行為を絶対的に抑制できないわけではありません。
犯罪加害者による出版である事だけを理由として、事件関係の出版を一律に禁止する法律は、
規制範囲が広範になりすぎるため、憲法違反のおそれがありますが、
アメリカの《サムの息子法》と同様、出版行為を認めた上で、
印税など犯人が出版により得る収益を没収するという内容であれば、
表現の自由の問題をクリアする余地はあると思います。
❷厳密にいうと、憲法上は、犯人の収益没収による財産権侵害についても問題となります。
これまで憲法学でも深く議論されていない問題ですが、
出版行為自体は認めた上で、収益没収も全額ではなく、例えば70%~90%没収とするなどすれば、
違憲を回避することは十分可能だと思います。
《サムの息子法》は、
アメリカでも無制限の出版制限は表現の自由を定めた合衆国憲法に違反するとして、
制限内容を限定するよう判例で指摘されました。
日本で導入する場合も、正面から憲法の➊表現の自由や❷財産権侵害が問題となりますが、
犯罪被害者保護の重要性が認知されつつある昨今、今後議論を深めていく価値がある論点だと思います。
△弁護士/星野宏明=星野法律事務所△
顧問法務,不動産,太陽光自然エネルギー,中国法務,農業,不貞による慰謝料,外国人の離婚事件等が専門
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↑アメリカ・ニューヨーク州【サムの息子法】↑
サムの息子=デヴィッド・リチャード・バーコヴィッツDavid Richard Berkowitz=酒鬼薔薇聖斗の様にSon of Samを使いマスコミ・警察に手紙を送った。
1976年から1977年にかけて、ニューヨークで若い女性やカップルら13人を44口径拳銃やショットガンで銃撃(1人は刃物で刺)して6人を殺害し、8人に重軽傷を負わせた。
1977年8月10日、ニューヨーク市に隣接するヨンカーズで逮捕された。
その後、殺人と共に2000件の放火を自供(犯人が丁寧に2000を記録していた)。
懲役365年となった(ニューヨーク州に死刑がない)。2015現在62歳で模範囚として服役している。
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■「思い踏みにじられた!!」神戸連続児童殺傷事件の遺族・土師守
➽「元少年A」(32歳)の<絶歌>手記出版中止を求める!!
2015/6/10産経新聞
平成9年1997[18年前]に神戸市須磨区で発生した連続児童殺傷事件で、
当時14歳だった加害男性(32)が手記を出版した事をめぐり、
殺害された土師淳=当時(11)=の父、土師守は6/10日、代理人弁護士を通じ、
「私たちの思いは無視され、踏みにじられた」とするコメントを公表し、
出版の中止と本の回収を求めた。
土師守は、
「何故、この様に更に私たちを苦しめる事をしようとするのか、全く理解できない。
遺族に対して悪い事をしたという気持ちが無い事が、
今回の件で良く理解できた」としている。
👇全文は次の通り(原文のまま)👇。
《加害男性が手記を出すと言うことは、本日の報道で知りました。
彼に大事な子供の命を奪われた遺族としては、
以前から、彼がメディアに出すようなことはしてほしくないと伝えていましたが、
私たちの思いは完全に無視されてしまいました。
何故、このように更に私たちを苦しめることをしようとするのか、全く理解できません。
先月、送られてきた彼からの手紙を読んで、彼なりに分析した結果を綴ってもらえたことで、
私たちとしては、これ以上はもういいのではないかと考えていました。
しかし、
今回の手記出版は、そのような私たちの思いを踏みにじるものでした。
結局、文字だけの謝罪であり、遺族に対して悪いことをしたという気持ちが無いことが、
今回の件で良く理解できました。
もし、少しでも遺族に対して悪いことをしたという気持ちがあるのなら、今すぐに、出版を中止し、本を回収して欲しいと思っています。
平成27年6月10日土師守》
注意=殺害された小4女児の親も<絶歌>の発売の事は、
2015/6/10に知ったとの事[TV報道]。
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神戸連続児童殺傷「何のため手記出版か!!」山下彩花の母・山下京子コメント全文
2015/6/10神戸新聞
神戸市須磨区で1997年に起きた連続児童殺傷事件の加害男性32が手記を出版した事を受け、
小学4年の山下彩花(当時10)を殺害された母親の山下京子(59)が神戸新聞社にコメントを寄せた。
👇全文は次の通り👇
《神戸連続児童殺傷事件の加害男性が手記を出版するとのことを、
今日の朝、新聞社からの電話で知り驚いています。
何事にも順序というものがあり、本来なら当事者である私たち遺族や被害者が最初に知るべき重要な事柄が、
このように間接的な形で知らされたことは非常に残念に思います。
もちろん、私の手元には現時点で手記も手紙も届いてはいません。
情報によると、手記には「精神鑑定でも、医療少年院で受けたカウンセリングでも、
ついに誰にも打ち明けることができず、
20年もの間心の金庫にしまい込んできた」と自身の精神状況を振り返るところや、
罪と向き合う姿がつづられているようです。
「自分の物語を自分の言葉で書いてみたい衝動に駆られた」
というのが加害男性自身の出版の動機だとすれば、
贖罪(ショクザイ)とは少し違う気がします。
自分の物語を自分の言葉で書きたかったのなら、
日記のような形で記し自分の手元に残せば済む話です。
毎年、彩花の命日に届く加害男性からの手紙を読むたびに、
「年に1度のイベントのような手紙ではなく、事件や彩花に関して湧き上がってきた思いを、
その都度文字に残して、
メモ書きでもいいから書きためたものを送ってほしい」
とメディアを通して何度も発信したメッセージが届いていなかったのかと思うと複雑な気持ちになります。
何のために手記を出版したのかという彼の本当の動機が知りたいです。》
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➊2015/6/10発売当日に突然遺族が知った。よって、
遺族取材をしていない本である。出版社として、何ら裏付け努力もしていない本。
▼遺族
・土師ハセ守(59)⇔土師淳[小学6年生11歳/次男]
・山下京子(59)⇔山下彩花[小学4年生10歳]
❷見城徹幻冬舎のプロジェクトチームが原稿を仕立て上げていた
だから、太田出版社がなんら手をかけずにそのママ印刷状態である。
酒鬼薔薇聖斗Aは素案は提示しただろうが・・
絶歌は、幻冬舎が祭り上げた作品である。
絶歌=1500円税抜き・1620円税込
❸酒鬼薔薇聖斗➽社会の晒し者的に危険動物として、オリの網から覗かれる【化け物】として、
鬱積したやるせない悔しさを、本の印税で少しでもカネに変えたい!!!
1500×10万部=1億5000万円➽×10%=1500万円の楽して現金収入
しかし、
今まで、カーテンごしで隠れ洞窟から、目ざし帽を被りノコのこ出て来て、
カネだけ受け取り、匿名・幽霊顔で、
社会をアザケ笑うが如く、都合良く上手く逃げ切れるか?
自ら本を出す以上、「少年A」という「匿名」特権は許される事ではない。
このAは、ある意味で永久執行猶予の刑と同じである。
暴行・自動車事故・痴漢・万引きなど何らかの警察関連事件を起こせば、
売上増で週刊誌記者が飛びつき、名前・顔写真が全国拡販される。
それから逃れるため、
神経を細め・血走った眼で辺りを見渡し、忍び足で階段を歩き、
歩く時,人とブッかってケンカになり警察ザタで週刊誌ネタにならない様に
神経を使い歩く気遣い・・
これを、死ぬまでヤリ続ける~のである➽さて、いつまで・・??
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■島根県立大1年生の平岡都(19歳)バラバラ解体人肉食い殺人鬼事件■
捜査筋が口にした【 酒鬼薔薇 】の名前
2009年11月21日/日刊ゲンダイ
●想像を絶する遺体の凄惨
島根県境の広島県の山中で、島根県立大1年生の平岡都さん(19)のバラバラ遺体が見つかった事件は、時間が経つにつれ、猟奇的な色合いが強まっている。見つかった遺体の状態が尋常ではないのだ。
「遺体は四肢が切断され、
乳房がえぐり取られた上、
性器部分も切り取られてグチャグチャになっていました。
そのため、
胴体が発見された当初は、すぐに性別が判断できなかった。
腹部が切られ、
内臓の大部分がなくなっています。
胴体の一部は焼けていて、
血を抜かれ、
皮膚もはいであった。
両腕と右足はまだ見つかっていません」(捜査事情通)
にわかには信じがたいが、犯人が肉片を食べた形跡もあるという。
「頭部と胴体の発見場所から約2キロ離れた地点で見つかった
左の大腿骨(だいたいこつ)は、肉がきれいにそぎ落とされていた。
捜査員は、てっきりイノシシかシカの骨が風化したものと思って拾ったそうです。
野犬の仕業では、こうはならない。明らかに人為的なものです。また、遺体の一部には、ミンチ状に切り刻まれた形跡もあった。
犯人が食べたとしか思えないのです。
『羊たちの沈黙』のレクター博士じゃありませんが、
血抜きをしたり、右腕の関節をはずしたあとがあることから、
犯人はある程度、医学的な知識があるとみられます」(社会部記者)
▼上智大名誉教授の福島章氏(犯罪心理学)は、犯人像をこう分析する。
「快楽殺人にしろストーカー殺人にしろ、性器やそれに準ずるものに執着していることから見て、犯人は98%の確率で男でしょう。殺して遺体を解体すること自体にサディスティックな喜びを感じる性的異常者です。平岡さんが夜遅くひとりで帰宅することを知って、狙いを定めていたのかもしれません。遺体を遺棄した場所から考えて、土地勘はあるはずです。首を切り落とすというのも、性的異常者によく見られる現象。神戸の酒鬼薔薇事件を彷彿(ほうふつ)とさせます」
実際、
酒鬼薔薇事件との関連性を疑う声もあったという。
前出の捜査事情通が「ここだけの話ですが……」と、こう打ち明ける。
■< 酒鬼薔薇聖斗の住所:広島県の呉市 >■
「更生した酒鬼薔薇が広島の呉市で働いているという情報があったため、
広島県警は一応、所在確認をするようです。
彼自身は無関係とは思いますが、模倣犯の可能性はある。
事件が思わぬところに飛び火してしまいました」
捜査本部としては、ワラをもつかむ思いなのかもしれないが、
正体不明の人食い殺人鬼が捕まらないかぎり、不安が広がる一方だ。
(日刊ゲンダイ2009年11月18日)
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↓□↓写真数値解析↓□↓↓
↓□酒鬼薔薇聖斗(14歳当時の写真)と 麻原彰晃の顔写真を対比して、
砂時計形状での幾何学的数値解析した内容のブログ記事□↓
【 酒鬼薔薇聖斗の顔は鼻央型であるが、
【麻原彰晃のeyespanの2乗型】A3ではない/顔の三重点が怖さを与える 】
http://blog.goo.ne.jp/ygv123/e/77a6893bd76f02f18a76cc4d4173df18
↑□↑写真数値解析↑□↑↑
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22歳当時の酒鬼薔薇聖斗
少年A=東慎一郎(あずま しんいちろう)
1982年7月7日午前6時15分生まれ
(2011年現在29歳)
14歳当時の顔写真=Google画像などで見れる
札幌市西区発寒での金属バット両親殺人事件の長男(犯人)も退院後は、
北海道新聞(夕刊)コラムで「 改名して生活している 」と書かれていた。
ので、
東慎一郎も【 改名 】していると思う。
14歳当時の顔も公開されているから整形もしているだろう。
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週刊新潮2005年1月20日号より
女医を襲った!「少年A=東慎一郎」
今年(2005年)1月1日、神戸児童連続殺傷事件の「少年A」こと東慎一郎(22)が、ついに関東医療少年院を正式に退院した。はたして病気は完治したのか。事件は昨年(2004年)12月下旬に起こった。東慎一郎が、カウンセラーの精神科の女医を暴行しようとしたというのだ。本来ならば、即刻、仮退院は取り消しのはず。だが、その事実は密かに闇に葬られ、東真一郎は社会に放たれた。
2004年12月24日、法務省は「少年Aの保護観察が31日で終了し、年明けに完全に社会復帰する」との見通しを発表した。
はたして東慎一郎の病気は完治したのだろうか。被害者のみならず、一般の関心がその点に向かうのは当然である。しかし、法務省は、「被害者への贖罪の気持ちを持ち続けている。定職に就き、更生に向けた努力を重ね、精神的にも安定した生活を送っている」
と、そっけない説明を加えただけだ。加害者の人権に配慮するあまり、具体的な居住地や仕事の内容、生活ぶりなどには一切触れていない。事件の被害者にも納得できる説明はなかった。
「昨年12月中旬頃、神戸の保護観察所で、法務省の方から最終報告という形で少年の現状について一通りの説明を受けました」
と話すのは、東慎一郎にナイフで刺されて重傷を負った少女(当時9歳)の父親の堀川耕一郎さんである。
「精神的な面でも何ら問題がなく更生していると聞きました。ただし、法務省の人たちは絶対に具体的な話をしてくれないのです。我々が突っ込んだ質問をしても、それについてはお答えできませんと繰り返すばかりです」
堀川さんは半信半疑で聞くしかなかった。
「法務省の説明では、関東医療少年院からずっと彼を担当している精神科のドクターが、定期的にカウンセリングを行ってきた。そのドクターが、今後、一切、薬物の投与も必要ない、本人がそういった形で更生しているので、再犯の恐れはない、とお墨付きを与えたということでした。我々としては法務省の言うことですから、100%信用せざるをえない」
だが、それで被害者の不安が払拭されたわけではなく、不信感が残っただけだ。
「法務省の方とは、昨年8月にも一度お会いして話を聞きました。その8月時点と12月では、相も変わらず同じ話を繰り返しているだけなんです。本人は更生しています、12月いっぱいで我々の手を離れます、と。こう言っては何ですが、野放し状態になるわけですよ。ですから我々は、8月のときにも、可能であれば、年が明けてからも監視のようなものを幾分でも継続できないかとお願いしてみたのです。が、それに関しては一切できない、と。代わりにボランティアの人たちがどういう状況で生活しているのかということを定期的に我々の方に報告いただけるということでした。本当にお役人というか、そうしたことを淡々と言うものですから、決められたことは仕方がないんだな、と感じただけでした」
少年犯罪としては異例の7年余にわたる入院期間だった。東慎一郎は、平成9年10月に東京都府中市にある関東医療少年院に収容された。平成13年11月から1年間、宮城県の東北少年院で職業訓練を受けた後、再び関東医療少年院に戻り、昨年3月にいよいよ社会復帰に向けて仮退院。法務省は、年明けの退院までの手続きを、滞りなく進めることだけに腐心していたかのような印象を受けるのだ。
事件はその最中に起こっていた。
東慎一郎が心を開いた相手
仮退院中の東真一郎の居住地について、法務省は 「近畿地方以外」としか発表していないが、彼は、首都圏近郊で生活している。
法務省関係者はいう。
「彼は、ひきこもりや不登校の子供たちを支援し、就労などの世話をする民間の団体の関係先にいます。その団体には協力企業が何社かある。その団体の自立支援プログラムに沿って、彼はそのうちの1社で働いています」
東慎一郎には、保護観察官が24時間体制で張り付いていた。また、関東医療少年院で担当だった精神科の女医のカウンセリングを、1週間に1度の割合で受けていた。退院に向けて、順調に回復しているように見えたのだろう。だが、それは彼を更生させたいという当局の希望的観測に過ぎなかった。
昨年12月のことである。
「実は、東慎一郎が、カウンセリングの最中に、その女医を押し倒して暴行を働こうとしたのです」
と、先の法務省関係者は打ち明けるのだ。
「それで大騒ぎになり、東慎一郎本人も精神的に非常に不安定になったので、急遽、精神病院に入院させた。とてもじゃないが、社会復帰させられる状態ではなかった」
東慎一郎は、居住地に比較的近い国立の精神病院にひとまず入院させられた。ところが、そこでまた問題が生じたという。
「東慎一郎を入院させた直後にわかったのですが、昨年秋に、その病院の井戸からヒ素が検出されて問題になり、新聞沙汰になったことがあった。ヒ素の件でまたマスコミが取材に来たら、東慎一郎が入院していることも漏れてしまうんじゃないか、という恐れがあり、法務省や警察庁の担当部局は転院先を探すので、一時、てんやわんやの騒ぎになった。結局、その病院は出て、別の病院に転院したのです」(同)
▼東慎一郎は、どうしてその女医を襲ったのか。
「彼は、その女医に心を開いており、医者と患者を超えた信頼関係があった」
と話すのは、関東医療少年院の関係者である。
「東慎一郎の性的サディズムなどの異常な性格は、母親との関係が大きく影響していた。彼は母親を憎んでおり、心を閉ざした彼を治療するためには、職員が擬似家族的な関係を作ってカウンセリングに当たる必要があったのです。そのために彼女がスタッフとして加わった。東慎一郎の母親より3歳年下ですが、細身で髪の長い面長の女性で、年齢よりずっと若く見える。松本零士のマンガに出てくる女性のような美人です。彼女が親身になって接したおかげで、彼は心を開くようになった」
別の関係者もこう話す。
「彼は最初は女医を母親のように思っていたが、やがて恋心に変わっていったようだ。院生の話によれば、その女医に『キスしてください』と頼んだことがあったし、院生の1人が東慎一郎の前で女医の悪口を言ったら、東慎一郎は本当に怒って、ボールペンでその院生を刺そうとしたこともあったのです」
東慎一郎の性的関心が、残虐行為からようやく異性に向けられるようになった。彼にとっては、閉ざされた医療少年院の生活の中で、深い触れ合いを持った唯一の女性だったのである。
攻撃性に性衝動が結びついた
だが、そうした性衝動は、必ずしも東慎一郎の病気が完治したことにはならない。
▼帝塚山学院大教授の小田晋教授は語る。
「カウンセリングの過程で、感情転移ということが起こる。精神分析的な療法をやる際に、心の絆を作るために母親のような愛憎を与えようとすると、相手は本当に好きになってしまうんですね。しかしその感情に母親役の女医は当然応えられなくなってしまう。東慎一郎にしてみれば、裏切られたという気持ちになって、そうした行動に出たのだと思う。彼は、東北少年院で、他の院生から、からかわれて、自分の性器を切断しようとした一件があった。これは衝動性に、性的なことが絡んでいる傾向が切れていないということです。攻撃性に性衝動が結びついている。女医に手を掛けたということは、まだ性と結びついた衝動性が治っていないということなのです」
精神科医の町澤静夫もいう。
「女医を襲ったという行為は、東慎一郎が性的な感情のコントロールを十分にできていないととらえることができる。仮に性的サディズムが克服されていても、それでは、私たちは安心することはできない。また、性的サディズムがある一方で、普通の性愛もあるということは非常によくあるケース。現在の状態は、性的サディズムが心の奥に隠れて表に出なくなっただけということも十分ありえます」
専門家は、現状での退院に疑問を呈するのである。
前出、被害者の堀川氏はこう話す。
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加害男性から謝罪の手紙 神戸児童連続殺傷事件
2009.3.21産経新聞
神戸市須磨区で平成9年に発生した連続児童殺傷事件で殺害された小学4年、山下彩花ちゃん=当時(10)=の遺族に、4年前に医療少年院を退院した加害男性(26)から謝罪の手紙が届いていたことが21日、分かった。
23日の命日を前に手紙が送られるのは3年連続。
彩花ちゃんの母親、京子さん(53)によると、手紙は便箋3枚にペンで書かれており、19日夜に男性の両親を通じて手渡された。
「私信」ということもあり、内容は明らかにしていないが、謝罪の言葉はあったという。住所や具体的な生活状況は書かれていなかった。
京子さんは「これまでの無機質な言葉が並んでいた手紙と違い、感情表現がある内容だった。
いかに自分が奪ったものが大きかったかに、ようやく気付いてきたようだ」と話している。
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■あれから17年~~■
遺族の許しはありえるのか!!?神戸・児童連続殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗事件
淳の父「加害男性の言葉と向き合うことが淳への愛情」
2014/11/12産経新聞
平成9年1997年、土師淳が殺害された。酒鬼薔薇聖斗事件(被害者=土師淳)
2014年長崎・佐世保で女子高生1年生が殺害された。徳勝もなみ事件(被害者=松尾愛和)
2014年神戸市で小1女児生田美玲が遺体で見つかる。生田美玲事件(犯人=君野康弘)
凶悪事件が絶えない[産経新聞提供]
「僕が生きている間、許すことはないだろうと思います」。
静かに、だが揺るぎのない口調で、土師守(58)は、息子(土師淳)の命を奪った男性(32酒鬼薔薇聖斗)への思いを語った。
平成9(1997)年に世間を震撼させた神戸・児童連続殺傷事件。
11歳だった淳が犠牲になり、穏やかな土師家族の生活は一変した。
17年の歳月が流れてなお、「気が変になりそう」な深い傷を心に残している。
2014-1997=17
今年2014は、
長崎・佐世保で高1の女子生徒松尾愛和が同級生・徳勝もなみ16に惨殺され、
神戸では小1女児・生田美玲6が失踪後に遺体で発見される殺人事件が起きた。
事件の数だけ、癒えることのない悲しみを背負った遺族と、命を奪った殺人者も増えていく。
両者[被害者と殺人者]の間には、計り知れぬほどに深い溝が横たわる。
遺族の心に届く「謝罪の言葉」はあるのだろうか。
■言葉に向き合う苦しさ■
父・土師守58にとって、
男性(酒鬼薔薇聖斗32)の言葉は、毎年、淳の命日の前に、弁護士を介して届く手紙が全てだ。
「すみません」。
謝罪の言葉は当初、誰かに書かされている感じがあった。
事件当時、男性は14歳。成長するにつれ、文面は重みを増した。
「最近は罪深さを自覚していると感じられるようにもなった」と言う。
しかし土師守に、謝罪を受け入れる気持ちはない。
理由は、犯行にいたるまでの一つ一つの行動、心境の変化を本人の言葉で説明していないから。
「事件の経緯を話さずに謝られても、何を悪いと思って謝罪しているのか分からない」
毎年、進んで読みたいとも思わない手紙の封を切る理由は一つ。
なぜ淳が殺されなければならなかったのか-。脳裏を離れない疑問への答えが、
「本人の言葉で語られているかもしれない」と思うからだ。
男性(酒鬼薔薇聖斗32)の犯行時の心理は、多くの専門家が分析を試みてきた。
だが、土師守は「事件にいたる男性の心の中の動きは、結局、男性にしか分からない」と信じる。
事件を思い出すのは苦しい。
それでも、「真相を知ることが親の義務」と思うから、男性の言葉と向き合ってきた。
もし男性32が当時の心境を自分の言葉で語り、謝罪の手紙を書いたら、許すことができるだろうか-。
間を置かずに、土師守は首を振った。
奪われたのはモノやカネではない、かけがえのない命だ。
「自分の子供を殺された親が、加害者に『すみません』と言われて、『いいですよ』と答えるなんてありえない」
償いとは、誠実に命をかけて謝り続けること
遺族は絶対に加害者を許さないのだろうか。
歌手、さだまさしに「償い」という作品がある。交通事故で夫を亡くした女性と、加害者の若者の胸中を歌う。
事故の直後、女性は「人殺し アンタを許さない」とののしった。
床に頭をこすりつけて謝った若者は、「償いきれるはずもないが せめてもと」、毎月、仕送りを続けた。
7年後、女性から若者に初めて手紙が届く。
感謝の気持ちを伝えた上で、仕送りをやめ、人生をやり直すように求めていた。
作品は、さだの知人の実話をもとにした創作だ。
しかし優れた芸術には真実が宿るという。東京地裁の裁判長が説諭に引用したり、交通キャンペーンに使われたり、「償い」は創作を超えた「真実の物語」として受け入れられてきた。
▼現実の世界で息子を亡くし、今も心に深い傷を負う土師守は「償い」の物語に否定的だ。
「そんな簡単なものではないでしょう。世間は美談を求めたがる」と皮肉すら口にする。
ただ、命を奪った罪への謝罪は言葉だけでは足りないという考え方は「償い」のテーマと共通する。
「大事なのは『すみません』という言葉を態度で示すことだ」と土師守は言う。
「謝罪して許されるかどうかは問題ではない。誠実に命をかけて謝り続ける行為こそが償いでしょう。それならば、遺族に届く『真摯な言葉』がない事はないだろうと思います」
来年2015も男性(来年33)から手紙が届けば、土師は悲しみをこらえて封を切るだろう。
「男性の言葉と向き合い、殺害された理由を知る事が淳への愛情であり、14歳の少年だった男性が更生するために『大人』としてできる唯一のことだから」
(平田雄介)=敬称略、おわり
◇ ◇
【用語解説】神戸・児童連続殺傷事件
神戸市須磨区で平成9年1997/2~5月、小学生5人が襲われ、
小6の土師淳=当時(11歳)=ら児童2人が死亡した。
殺人容疑などで逮捕された中3の少年=当時14歳、2014現在32歳の男性=は、H17年2005年に関東医療少年院を退院し、社会復帰している。
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■神戸の児童殺傷事件11年 土師(はせ)淳君の父が手記
2008/5/23産経新聞
被害者=土師(はせ)淳=死亡
その父=土師(はせ)守
1997+11=2008
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「被害者支援を着実、迅速に」
神戸市須磨区で平成9年に起きた児童連続殺傷事件の被害者の1人、土師(はせ)淳君=当時(11)=が殺害されてから丸11年となる24日を前に、父親で医師の土師守さん(52)が、心境をつづった手記などを報道機関に寄せた。
「事件のことは今もつい先日のように思いだしますし、11年が過ぎたからといって子供への思いは変わりません」とする一方、来年から刑事裁判への被害者参加が実現するなど被害者側の権利獲得が進んできたことについて、「少年審判の傍聴や弁護士の育成など、被害者の本当のニーズにあった社会制度の整備を」と訴えている。
「(24日は)特別に変わったことはしません」という土師さんは、今も妻とともに月照寺(兵庫県明石市)にある淳君の墓に参り、月命日の供養を欠かさないという。
当時中学生だった加害男性の情報が、十分に寄せられていない状況は今も変わっていない。わずかな知らせとなるのは、毎年男性から送られてくる手紙だ。今年も弁護士を通じ、14日に土師さんのもとに届いた。
土師さんは、今まで通り手紙の公開はしないつもりだが、内容について「字の形や文章の雰囲気などから以前に受けとった手紙に比較すると、徐々にですが彼自身が変化しているように感じる」と話す。しかし、「(少年院を)本退院後の男性の状況については現在も十分な情報を得ることはできていません。今後も粘り強く交渉していきたい」という。
一方で、土師さんも参加する全国犯罪被害者の会(あすの会)などが強く求めてきた、刑事裁判への被害者参加を盛り込んだ刑事訴訟法改正案が昨年成立、来年からいよいよ被害者参加制度が始まる。
土師さんは「事件が起きた11年前と現在では、犯罪被害者が置かれている状況はかなり改善したと思いますが、まだ十分とはいえない」と指摘。今国会に提出された少年法改正案についても「少年審判の傍聴を認める少年法の改正はまだ実現していません。今国会中にはぜひとも成立させてほしいと願っています」とした。
■神戸の連続児童殺傷事件で殺害された土師淳君の父、
土師守さんが寄せた手記全文は次の通り。
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この5月24日は、淳の11回目の命日です。11年という期間は、長いように思いますが、私たちにとって事件そのものは、昨日のように思い出します。11年という期間が過ぎたからといって子供への思いは今も変わることはありません。
今年も、井関(勇司)弁護士を通じて、5月14日に
加害男性からの手紙を受け取りました。
内容については公開することはできませんが、
以前に受け取った手紙に比較しますと、徐々にですが、彼自身が変化しているように感じます。また、本退院後の加害男性の状況については、現在も十分な情報を得ることはできていません。今後も、井関弁護士とともに粘り強く交渉していきたいと思います。
私たちの子供の事件が起きた11年前と現在では、犯罪被害者が置かれている状況はかなり改善したと思いますが、まだ十分とは言えない状況だと思います。犯罪被害者基本法が成立して以降、刑事訴訟法も改正され、私たち被害者が切望していた(刑事裁判の)被害者参加制度が来年には実施されることになりました。しかしながら、少年事件においては、少年審判の傍聴を認める少年法の改正は、まだ実現していません。迅速に審議し、今国会中にはぜひとも成立させてほしいと願っています。
補償関係についてもかなり改善されてきていますが、今回の改正でもまだ十分と言える状況ではありません。
最高額ではなく、通常の補償も自賠責保険に近づけるようにしてほしいと思います。また、犯罪被害者に対する支援もまだまだ十分とは言えません。実際に被害者支援を担当する地方自治体には、被害者支援に対する認識を深めていただき、被害者支援を着実にそして迅速に進めてほしいと思います。
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酒鬼薔薇事件の少年Aが通っていた友が丘中学校の岩田信義校長(当時)
日刊ゲンダイ2010年12月13日(月)
●岩田信義のその後;;
1997年、日本中を震撼させた神戸の酒鬼薔薇事件。逮捕された少年Aが通っていた
「友が丘中学校」の岩田信義校長を覚えているだろうか。
卒業式当日、ストリップ劇場で観賞にいそしんでいる姿を写真誌にすっぱ抜かれて世の顰蹙(ひんしゅく)を買った。
事件から13年。少年Aはすでにシャバに出た今、
岩田校長はどうしているのか。
1997+13=2010
●「正直、ほんまアイツが真犯人なのかな、って迷いは今でもあります」
「晩メシ食うた後やったかなあ。捜査本部から自宅に“お宅の学校の生徒を逮捕しました”って電話があって、“お手数かけます”とだけ答えたのを覚えてます」
記者が会ったのは神戸市東灘区の自宅。
居間の掘りごたつで記者と向き合った岩田、
やや甲高い声でこう言った。
「実は逮捕前から予感めいたもんがあったんです。生徒らの間で、“アイツとちゃうか”って噂が広まってましてね。“目が据わってて、ジロッとにらまれると、すくみ上がる感じがする。アイツならやりかねん”って話だった。根も葉もない噂でしたが、胸騒ぎがしてたのも事実です」
警察の一報を受けた際も、
「やっぱり、アイツやったか!!」とあまり驚きはなかったという。
「ただ、酒鬼薔薇の挑戦状や、ノートに書いてたという東西の古典を引用した『懲役13年』を読んでも、あの子に書けたとはとうてい思えんのですわ。
正直、ほんまにアイツが真犯人なのかな、って迷いは今でもあります」
少年Aの逮捕後、
朝日新聞が「動機は学校で教師から受けた体罰」と報じる。と、
全国から非難の声が学校に殺到した。
「時が経てば冷静に読めるもんです」と話す段ボールに入った当時のハガキを見せてもらうと、真っ赤なペンで「校長は腹を切れ」の文字も。
「内容は罵倒68通、脅迫6通、不幸の手紙13通、宗教宣伝・商業宣伝20通、激励22通、誤解しながらの激励11通、目的不明11通。ざっとこんな感じです。でも、体罰はまったくの誤報で、指導記録を見る限り、教師らに何らの落ち度もありませんでした」
68+6+13+20+22+11+11=151通
さて、事件翌年の1998年3月、
今度は岩田校長自身がクローズアップされた。
ストリップ劇場で大股開きの踊り子をポラロイド撮影、舞台上で野球拳に興じる姿をフォーカスされたのだ。
「周りがどう言おうと、“ワシは何も悪いことしてへんで”って心境でした。
だって、勤務時間ならいざ知らず、時間外のことでしたから。卒業式で早く仕事が済み、
“ほな、行こか”といつも通りに行動しただけです」
とはいえ、
■定年退職を目前に控えながら、
神戸市教育委員会から謹慎処分を受けるハメに。
再就職の道も閉ざされた。
「それでも懲りずにストリップ通いは続けた。
“あんなんでやめてたまるか”って男の意地ですわ。
なじみの踊り子にも“大変やったね”と励まされました」
退職後、、
事件について月刊誌に手記を寄せたのを機に、
「大勢の人に読んでもらえる面白さが病みつきになった」と小説を書き始め、
今も月2回、大阪の講座で若い小説家の卵たちと文章修業を重ねている。
「短長編合わせて40本以上書きましたか。長いこと観賞してきた知識を生かし、
『観客席からストリップ50年史』を書き出したこともあります。
しかし、
ストリップ自体が廃れてもうて、今さら誰も読まんかなあと思い、途中でやめました」
岩田信義は、
妻、次男の3人暮らし。
(日刊ゲンダイ2010年12月10日)
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2015年9月26日土曜日
2015年6月17日水曜日
名大女子大生・大内万里亜19の手斧殺人事件と聖ウルスラ学院英智高校タリウム毒盛り失明事件
14000文字数
名大女子大生・大内万里亜19の手斧殺人事件と聖ウルスラ学院英智高校タリウム毒盛り失明事件
しかし、手斧の刃でなく、斧の裏で攻撃⇒死に至らずマフラーで首絞め老婆殺害
タリウム飲ませた女子生徒見舞いに…症状確認か
2015年5月17日読売新聞
名古屋大学の女子学生(19)が高校時代、
別の高校の女子生徒ら2人に劇物の硫酸タリウムを飲ませたとして殺人未遂容疑で再逮捕された事件で、
女子学生(19)が、
体調不良で入院した女子生徒を見舞いに訪れていた事が、関係者への取材でわかった。
女子学生(19)は、
「タリウムを飲ませて症状を観察したかった」と供述しており、
愛知、宮城両県警は、生徒の中毒症状を確認する目的だった可能性があるとみている。
女子生徒の家族によると、
生徒は体調を崩し、2012年7月下旬から8月頃に5日間入院。
女子学生(19)はその際、病室に花を持って見舞いに来たという。
2人は小中学生の時から一緒にカラオケに行ったり、互いの家で遊んだりするなど仲が良く、
別々の高校に進学してからも連絡を取り合っていたという。
両県警によると、
女子学生(19)は高校2年だった2012年5月27日頃、宮城県内のカラオケ店で女子生徒の飲み物にタリウムを混ぜて飲ませた疑いがある。
女子生徒は手足にしびれなどの症状が出たが、現在は生活に支障がない程度まで回復しているという。
当時は原因不明だったが、その後の捜査で女子生徒からタリウムが検出された。
[注意]
別の高校の女子生徒ら2人=別の高校の女子生徒(19)+同級生の男子生徒(19)
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<殺人未遂容疑>名大生を再逮捕…高校同級生らにタリウム
2015年5月15日毎日新聞【谷口拓未、金寿英】
愛知、宮城両県警合同捜査本部は2015/5/15日、名古屋市のアパートで女性を殺害した容疑で今年2015/1月に逮捕された名古屋大の女子学生(19)が、
宮城県の私立高校在学時、同級生ら2人に猛毒の「硫酸タリウム」を飲ませ、殺害しようとした疑いが強まったとして、女子学生(19)を殺人未遂容疑で再逮捕した
愛知県警の調べに「タリウムを飲ませて、観察したかった」などと容疑を認めているという。
再逮捕容疑は、
(1)2012年5月27日頃、宮城県内の飲食店で女子生徒(19)に対し、
(2)また同2012/5/28日頃から6月上旬頃にかけ、通っていた高校内で同級生の男子生徒(19)に対し、
それぞれ殺意を持って硫酸タリウムを飲み物に混ぜて飲ませ、2人を中毒にさせたとしている。
女子学生(19)は昨年2014/12月、名古屋市の自宅アパートで、同市千種区の森外茂子(ともこ)(当時77歳)の頭をおので殴り、マフラーで首を絞めて殺害したとして、
今年2015/1月に殺人容疑で逮捕された。
名古屋地検は鑑定留置の結果、刑事責任能力があるとみている。【谷口拓未、金寿英】
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<老女殺害>名大生実家捜索5時間 母親か…捜査員と共に
2015/1/31毎日新聞
名古屋市で森外茂子(77)が殺害された事件で、愛知県警は1/31日、殺人容疑で逮捕した女子学生の宮城県の実家へ家宅捜索に入った。
捜査関係者によると、家宅捜索は午前9時前から始まり、約5時間続いた。
捜査員が段ボール箱を運び出すと、母親とみられる女性が捜査員に伴われて家から出てきた。
母親らしき女性はうつむき加減に車に乗り込み、記者の問いかけには答えなかった。
名古屋市昭和区の女子学生のアパートへの家宅捜索では、
殺人事件に関する書籍や毒性の強いタリウムとみられる薬品が多数押収されている。
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名大女子学生(大内万里亜)⇒応援団部員に「タリウム入りジュース」飲ます?
2015年1月31日東スポWeb
名古屋大学理学部1年の女子学生(19)が無職森外茂子(77)殺害容疑で逮捕された事件で1/29日、名古屋市内の女子学生の部屋から複数の薬品や過去の殺人事件に関連する書籍が押収されていた事がわかった。
女子学生は「高校時代に同級生に毒を盛った」と供述しているが、大学でも部員相手に“手作りジュース”に混ぜて薬物を飲ませた疑いも出てきた。
女子学生は「人を殺して達成感があった」と供述しているという。
事件当日の昨年2014/12月7日、ツイッターに「ついにやった」と書き込んでおり、それと重なる内容だ。
女子学生は、
「高校時代に同級生に毒を飲ませて後遺症を残したことがある」とも供述している。
これを裏付けるように、在籍していた宮城・仙台の高校[宮城県私立聖ウルスラ学院英智高等学校]では、
2012年6月ごろ、同級生の女子生徒が体調不良を訴え、視力低下で一時休学した。
さらに、同級生の男子生徒は視力と筋力の低下を訴え入院。
地元関係者によると「このとき医師は薬物など特殊な成分が体内に入った疑いがあると診断したが、原因は結局不明だった。
男子生徒は入退院を繰り返し、失明し、特別支援学校に転入した」。宮城県警は1/29日、供述を受けて「傷害容疑で捜査中」としている。
ツイッターなどでは薬物への異常な興味をつづり、
「未開封の硫酸タリウム瓶には25グラム、つまり約13人分の生命が入っているわけだ! それだけで神秘じゃないか」などとつぶやいた。
同級生への毒は、症状からこのタリウムだった可能性が高い。
女子学生をめぐっては名古屋大進学後、所属していた名大応援団が新入部員を紹介する動画が、
昨年2014/6月ごろからネット上に出回っており、その紹介内容が“余罪”の可能性を示唆しているとも言われる。男子部員が女子学生を紹介した文句はこうだ。
「家には様々な薬品を取り揃え(中略)三度のメシより化学実験が大好き。入団した時から持ってきてくれるジュースが非常においしく、このジュースがどこで売っているのか尋ねてみたところ(中略)化学実験で作ったジュースだったのであります。おいしいからと飲み続けていた結果、私の体にある異変が起き始めていたのでございます。(額を見せて)私の前線はこの女の実験によって後退してしまった。私はこの女の実験動物にされたのでございます」
女子学生はツイッターで昨年2014/4月に「薬局での品物取り寄せは日常茶飯事よ☆」、2014/9月には「タリウム素手で触っちまった」、2014/11月には「硫酸タリウム買ったんだけどね」などともつぶやいた。過去に起きた、実母にタリウムを飲ませた殺人未遂事件で逮捕された女子高生への並々ならぬ関心も示していた。
タリウムは摂取すると頭痛、吐き気、幻覚などの症状のほか失明、さらには呼吸まひによる死亡の危険性もある。
2012年には、硫酸タリウム入りウーロン茶を同僚の男女5人に飲ませて重症を負わせ、大量に脱毛させた傷害罪に問われた男に懲役3年、執行猶予4年の判決が下っており、ハゲることでも知られる。
本紙は前出の応援団男子部員を電話で直撃。
すると「あれは冗談です。一度も彼女の作ったジュースなんて飲んだことはありません。そのような事実はありませんので…」
と困惑した口調で電話を切った。
別の名大生は男子部員の心中をおもんぱかり、こう話す。
「応援団は部員1人の時代もあり、今でも3~4人。後期に入って女子学生が学校に来なくなった時も、皆で迎えに行ったほど結束が固い。“自分たちに刃を向けられた”という、万が一の可能性も考えたくないのでは」・・・・
女子学生が“身内”の部員にまで毒を盛って実験していたとしたら、おぞましすぎる。
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「硫酸タリウム買った」名大生、事件前ツイート⇒硫酸タリウムTl2SO4
2015年1月31日読売新聞
名古屋大学の女子学生(19)が名古屋市昭和区の自宅アパートで同市千種区、無職森外茂子(ともこ77)を殺害した事件で、
女子学生のものとみられる簡易投稿サイト「ツイッター」の書き込みに、劇物に指定されている硫酸タリウムを所有していることを示す内容があることが分かった。
愛知県警は女子学生のアパートから複数の薬品を押収しており、こうした劇物が含まれているか鑑定する方針。
ツイッターには、昨年2014/11月10日付で、
「硫酸タリウム買った」「硫酸タリウムの半数致死量は1gグラム(成人男性)だろ?未開封の硫酸タリウム瓶には25g、つまり約13人分の生命が入っているわけだ」
との記述があるほか、同2014/9月15日には「タリウム素手で触っちまった」とも書かれていた。
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■Twitterプロフィール紹介には
「上中→聖ウルスラ→名古屋大学理学部1年(今ここ)→名古屋大学大学院→自宅警備員→刑務所→拘置所・宮城→愛知」と記載されている。
https://twitter.com/thallium123⇔大内万里亜のツイッター⇔現在はまだ閉鎖されてない。
■プロフィール(名大サークル※現在削除済み)
http://www2.jimu.nagoya-u.ac.jp/ohendan/contents/danin/ouchi/ouchi.html
名前=大内万里亜(おおうち まりあ)
生年月日=1995年10月5日[2015/10/5で20歳][オウムサリン地下鉄事件の時に生れる]
在籍大学=名古屋大学理学部(1年生)
所属=リーダー部
出身中学=仙台市立上杉山中学校?
出身高校=宮城県私立聖ウルスラ学院英智高等学校(偏差値45~65)
※特別志学コース(65)・特別志学コース(58)・尚志コース(45)
血液型=A型
趣味=薬品コレクション
特技=しりとり
今後の目標=警察にお世話にならないよう頑張ります。
ひとこと=私は清楚です。
■殺害時刻に大内万里亜Twitterで報告しています。
▼ニュースでの犯行時刻=2014年12月7日昼ごろ
▼Twitterの報告「ついにやった。」(2014年12月7日17:15)
⇊■19歳少女を殺人容疑で逮捕 「人を殺してみたかった」■⇊
2015年1月27日朝日新聞
名古屋市昭和区のアパートの一室で、顔見知りの女性・森外茂子(77)をおので殴るなどして殺害したとして、
愛知県警は2015/1月27日、この部屋に住む名古屋大学1年の少女(19)を殺人の疑いで緊急逮捕し発表した。
容疑を認め、「人を殺してみたかった」と話しているという。
県警によると、少女は、
❶昨年2014/12月7日昼ごろ、自室で、同市千種区の無職、森外茂子(ともこ)の頭をおので数回殴ったり、マフラーで首を絞めたりして殺害した。
❷2015/1月27日午前9時40分ごろ、少女19と共に部屋を訪れた警察官が、風呂場の洗い場で、服を着たまま倒れた状態で死亡していた森を発見した。
少女は昨年2014/12月上旬、森から宗教の勧誘を受けて知り合い、
2014/12月7日午前には2人で同市昭和区の宗教施設を訪れていた。
その後、少女は自室で森を襲い、遺体をそのまま放置し、宮城県の実家に戻っていたという。
森外茂子の夫が12/7日夕、外茂子が予定の時間に帰宅せず、携帯電話にも出ない事から警察に行方不明を届け出た。
県警が捜査したところ、2人が会っていたという目撃情報があり、少女が浮上した。
少女は昨年2014/4月に大学に入学し、アパートで一人暮らしをしていた。
調べに対し、少女は
「手おので殴ったが、完全に死んでいないのでマフラーで首を絞めた」
「部屋で殺し、遺体を風呂場に運んだ」などと話しているといい、県警は動機を調べている。
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女子学生、被害女性の遺体撮影か 愛知県警が携帯電話データ確認
2015年1月30日共同通信
名古屋市のアパートで無職森外茂子(77)が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された名古屋大の女子学生(19)の携帯電話に森の遺体とみられる画像データが残っていた事が1/30日、捜査関係者への取材で分かった。愛知県警がアパートから押収した携帯電話を解析しデータを確認。女子学生がカメラ機能を使い撮影したとみられる。県警は画像を撮った目的や撮影時の状況を調べる。
県警によると、遺体は発見時、
首にマフラーが巻かれ、浴室床に横たわった状態だった。
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名古屋大女学生 毒マニアを殺人犯にした大人たちの“隠蔽”
2015/1/31日刊ゲンダイ
名古屋市の77歳女性殺害事件で、容疑者の名大女子学生A子(19)は、中学生のころから“毒マニア”だったという。
周囲の大人も、危険信号に気づいていたはずだ。
殺害現場のA子の自宅からは、毒性の強い劇薬タリウムが押収された。大学の同級生には「趣味は薬品コレクション」と話していたという。
「A子は中学生時代から毒キノコや化学薬品について熱心に調べるほどの“毒マニア”だったそうです。飼っていたハムスターに自作の薬品をかける“実験”も行っていた。はさみやカッターを常に持ち歩き、『猫の中身を見てみたい』と友人に漏らしていたといいます」(捜査事情通)
どう考えても異常だ。周囲が気づかないわけがない。そして悲劇が起きた。
宮城県内の市立中から私立高に進学したA子は「同級生だった男子生徒に毒を盛った」と、逮捕後に供述している。
「男子生徒は両目の視力が急激に落ち、その後、特別支援学校に転校しています。当時、男子生徒を診た医師は『薬物が原因の可能性がある』と警察に届け出ましたが、学校側は校内の薬品を調べただけで、ウヤムヤにしようとした。事件を公表しなかった。校長は『在校生に動揺を与えたくなかった』などと話していますが、隠蔽しようとしたと勘繰られても仕方がないでしょう」(地元マスコミ関係者)
いまになって宮城県警は傷害事件として捜査を始めたというが、もっと早く動いていれば、今回の殺害事件を防げたかもしれない。
A子は大学進学後も、ツイッターでサリンなどの毒物についてつぶやいていた。
異常な執着があるから理学部に進んだのだろうが、不思議なのはそれほどの毒マニアなのに、77歳女性はおので殴って、マフラーで首を絞めて殺害したことだ。
「A子は取り調べに淡々と応じ、『悪かったとは思う』と反省の弁を述べているそうです。なぜ毒殺じゃないのか? それはまだ謎です」(前出の捜査事情通)
昨年2014の長崎・佐世保市の同級生殺害事件も、結局、周囲が加害少女の異常性を隠蔽し続けようとしたせいで、悲劇を招いた。今回の事件もまったく同じじゃないか。
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▽手斧過去類似事件▽
■斧少女(16歳)殺人事件=2007/9/18(事件日)■⇔この殺人事件は斧の刃で直接に攻撃して殺害⇔次女の父に対する怨念!!、は手斧で晴らす
京田辺警察官殺害事件(きょうたなべ)とは、
2007年9月18日に京都府京田辺市で、当時16歳の少女が警察官(京都府警南警察署勤務)である父親を殺害した事件。
■経緯□
❶2007年9月18日午前4時頃、少女16[次女]は自宅2階の寝室で寝ていた父親の首を手斧(刃渡り11cm、柄約30cm)で切りつけて失血死させた。
❷2007/9/18午前4時40分頃、少女16の母親が「父親が首を切って自殺した」と119番通報。
しかし、
消防からの連絡で田辺署員が駆け付けたところ、2階の寝室のベッドで血塗れで死亡している事が確認された。
1階キッチンに手斧が落ちており、そばにいた少女16の服に返り血が付いていた為、署員が事情を聞いたところ犯行を認めたため、殺人容疑で緊急逮捕した。
少女は犯行の5日前に自宅近くのホームセンターで手斧を購入していた。
少女は動機について「父親の女性関係に数年前から疑問を抱いていた。ギロチンにしようと思った」と府警の調べに供述したとされる。
❸2007/10月5日、京都地検は少女を殺人の非行事実で家裁に送致したが、計画性と残虐性を考慮して刑事処分相当との意見を付けた。
❹2007/10月18日、第1回審判で京都家裁は少女の心理状態鑑定を決定した。
■家裁送致⇒結論⇒決定⇒確定(保護処分=この時次女は17歳になっていた)□
保護処分とする特段の事情があると結論。
謝罪する気持ちがある事や家族の処罰感情が強くない事も考慮し、
長期間の矯正教育を施して更生を図るべきだとして、中等少年院送致の保護処分を決定した。異議はなく、そのまま確定した。
■事件の影響□
少女16が中学2年以降からゴシック・アンド・ロリータ(ゴスロリ)に興味を示すようになり、犯行時もそれらの服を着ていたと報じた。
また、2007年9月24日には、長野間で15歳の少年が斧で父親を殴打し負傷させる事件が発生し、逮捕された少年は、テレビで京田辺の事件を見て斧を凶器に選んだと供述していた。
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▽タリウム過去類似事件▽
■硫酸タリウムTl2SO4⇔タリウムは1価=Tl+■化学式量=204.4×2+96=504.8
❶無味無臭⇔水への溶解度 4.87g (20 °C)
❷水に易溶である
❸可溶性で致死量は大人で平均致死量は約1グラム。500mgを超えると致命的で、
タリウムの硫酸塩は身体に入った後、腎臓、肝臓、脳などに影響が出る。 経口摂取や吸入、
❹皮膚に触れると危険。
❺有毒性のために家庭用の製品にタリウムの硫酸塩(化合物含む)の使用を禁止した。
今では、殺鼠剤、分析用試薬として利用されている。
殺鼠剤の誤飲などの事故でタリウムを摂取した場合の治療薬としてプルシアンブルー[紺青、ヘキサシアノ鉄(Ⅱ)酸鉄(Ⅲ)]が用いられる。
■酢酸タリウム⇔CH3COOTl■化学式量=204.4+59=263.4 ⇔ 263.4の2倍=526.8⇔硫酸タリウムの化学式量504.8とほぼ同じ⇒致死量はほぼ同じとなる
❶無味無臭の白い粉末⇔水への溶解度は酢酸塩らしくかなり溶ける
❷成人の致死量は約1グラムで、急性症状としては吐き気・下痢・昏睡などがあり、呼吸器や循環器の障害により死亡する。
❸少量を継続して摂取しても重金属のため体に蓄積して慢性症状を示し、徐々に衰弱して死亡するため病死と見せかけて毒殺するのに使われ、
事件例としては、
・イギリスのグレアム・ヤングの母親殺し、
・1991年の東大技官タリウム殺人事件(東京大学医学部)
・2005年の静岡女子高生母親毒殺未遂事件などがある。
かつてはよく殺鼠剤に使用され、現在でもその殺鼠剤は薬局で入手可能、黒色に着色されている。
しかしもっと安全な材質(クマリン系)の殺鼠剤が出回っているため、あえて酢酸タリウムをネズミ退治の目的で入手する意義はない。
殺鼠剤の誤飲などの事故でタリウムを摂取した場合の治療薬としてプルシアンブルー[紺青、ヘキサシアノ鉄(Ⅱ)酸鉄(Ⅲ)]が用いられる。
□タリウム毒殺事件は酢酸タリウムが多い□
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■東大技官タリウム毒殺事件の要約■
死亡=被害者=内田賢二(38)=死亡日=1991/2/14PM6:00
犯人=加害者=中村良一(44)=逮捕日=1993/7/22⇒最高裁2000/6/8=1審の懲役11年を支持して中村の刑が確定した。
毒物=酢酸タリウムCH3COOTl
▼1991(平成3)年2月14日18:00、東京大学医学部付属動物実験施設の技官・内田賢二(38)が。
「同僚に毒を盛られたかもしれない」と呟きながら死亡した。
内田賢二は、
前年の1990(平成2)年12月13日、全身が痛み、手足が痺れて、脱毛症状も見られたため入院した。
年が明けても容体は悪化する一方で、1991/2月14日に死亡した。
担当医は、内田が、
「毒を盛られたかもしれない」という最後の言葉を重く見て、警察に通報すると共に、遺体を司法解剖した。
その結果、臓器から「酢酸タリウムCH3COOTl」が検出された。
タリウムTlは金属元素の一つ。特質は鉛や水銀に近いが毒性はさらに強く、致死量は成人で約1グラム[硫酸タリウムとして約1g]。
以前は殺鼠剤として広範囲で使用されていたが、現在では人口宝石の製造や医療関係でしか使用されていない。
警視庁は、毒殺事件として捜査を開始した。
同施設は教授ら研究職、事務職、アルバイトなど数十人が勤務していた。
酢酸タリウムを混入させるには内部の人間以外にはありえない。このため、職員らの身辺調査を実施した。
▼その結果、内田賢二と日頃から仲が悪かった技官・中村良一(44)が捜査上に浮上してきた。
内田は、都内の私立高校を卒業し、動物飼育の会社に入社。この関係で、同施設に技官として採用された。主な任務は実験動物の飼育だった。
一方、中村良一は日本獣医畜産大学を卒業後、国立予防研究所などを経て同施設に配属された。
内田&中村2人の性格は正反対で、勤務態度もおのずと異なり、しばしば対立していた。
●内田は、動物好きだったが、性格は無愛想。職場の付き合いは悪く、朝の挨拶もしない状態だった。
しかも、職場を連絡所にして中古自動車のブローカー(内職・副業)もやっていた。
●中村は、職場の同僚に対して気配りが行き届き、誰に対しても愛想が良かった。
正義感が強い中村は、内田に勤務態度の改善や中古車ブローカーのアルバイトを止めるよう再三注意してきた。
だが、内田は、中村の注意を一切無視した。
捜査班は、中村に対して内偵を開始した。そんな中、捜査員がある情報を収集した。
それによると1990(平成2)年4月中旬、内田が同施設長(教授)に、
「自分のコーヒ豆の缶に白い粉が入っている。調査して欲しい」と申し出たというものだった。
▼同施設長が調べた結果、白い粉は酢酸タリウムだった。
この時は悪質な悪戯という事で警察に通報する事もなく片付けられていた。
その後、内田は脅え始め、食事は外食・飲料はミネラルウォータ以外に口にしなかった。
■1993(平成5)年7月22日、警視庁は中村を殺人容疑で逮捕した(事件発生から2年半が経過)。
警察の取調べで、中村良一は素直に犯行を認めた。
殺害の動機は、自分(中村)の注意を無視し自分(中村)を馬鹿にしたからという単純なものだった。
2000(平成12)年6月8日、最高裁は1審の懲役11年を支持して中村の刑が確定した。
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■東大技官タリウム毒殺事件■憎しみを込めて毒殺を実行~殺したい程に延々と酢酸タリウムを飲まし続けるその怨念!!
■【事件概要】■
1991年2/14PM6:00死亡、
東大付属の動物実験施設に勤める男性技官内田賢二(38歳)が病院で死亡した。
内田賢二は前年から不調を訴えており、遺体からはタリウムが検出された。
2年半後、同僚技官中村良一(当時44歳)が殺人容疑で逮捕された。
■技官中村良一=犯人=加害者▼
【技官内田賢二の死=被害者】
1991年2月14日午後5時59分、東京大学医学部付属動物実験施設(文京区)の技官内田賢二(38歳)が、病院で腎不全のため死亡した。
内田は前年1990/12月13日に、仕事を休んで府中市の整形外科の診察を受けていた。
内田が訴えるには、両手足の痺れがひどく、身体が激しく痛むというらしく、医師は多発性神経炎と診断した。
内田はその後都立神経病院に転院したが、年が明けて容体が悪化していた。重金属中毒の症状を起こしていたのである。
内田が、
「毒を飲まされたようだ」と言い残していた事もあって、医師は念の為警察に通報。
司法解剖された内田の臓器からタリウム化合物が検出された。
内田は農業科の高校から、動物飼育会社を経て、この施設に勤務していた。
技官と言っても、仕事の内容は犬100匹の世話と、実験の後片付けである。
最初はアルバイトだったが、動物好きの内田にとっては良い仕事で、後に正式に採用された。
勤めていた実験動物施設では、⇔【1990/4タリウム粉末混入騒動事件】
以前にもコーヒーの缶にタリウムが混入されるという事があった。
この施設では滅菌用に常備されていたのだ。
さらに酢酸タリウム1瓶(25g入り)が紛失している事もわかった。
職場は内田の他にもう1人動物の世話をする技官がおり、事務職、研究職、施設長(教授)、アルバイトを含め十数人が出入りしていた。
内部の人間なら誰でもタリウムを混入するチャンスはあったのだが、
▼当初は、内田の自殺自演という噂もあった。
内田が「入退院を繰り返せば入院保険金が入る」と話していた事から、保険金目当てで飲む内に、量を間違えたのではないのか?というのだ。
■【憎しみは毒に込めて実行】▼
事件から2年半が過ぎて。
1993年7月22日、同僚の中村良一技官(当時44歳)が殺人容疑で逮捕された。
鑑定に出していた施設保管のタリウムと、遺体から検出されたタリウムの成分比が一致したことを受けての逮捕だった。
中村は、
日本獣医畜産大学卒業、東大医科研、国立予防衛生研などで家畜の微生物の研究を経てこの施設に採用された。
以前の施設長に誘われたからで、ここで動物実験施設でマイコプラズマの分離に関する研究プロジェクトに入った。
この時に、中村はタリウムについて熟達している。
だがその教授が退職し、別の教授が赴任すると、中村は次第に研究よりかは実験動物の管理を任されるようになった。
ちなみに、中村良一は1975年4月にこの施設に採用されており、内田賢二がアルバイトとして入ってきたのはその半年後の事である。
■中村良一の供述➊■
「後輩のクセに、仕事の事でいくら注意しても無視するので、長年、鬱積したものがあった」
中村は内田の先輩であり、年上でもある。
同じ技官という立場だが、獣医であるというプライドも中村にはあった。
2人とも勤務態度は真面目であったが、内田の方は職場の行事には一切参加せず、挨拶もろくにしない事があるなど、人付き合いの方に問題があった。
中村良一はそうした態度を度々注意していたのだが、そのたび無視されたという。
また、
内田賢二が施設を事務所がわりに中古車の仲介アルバイトをしているのを知り、
「公務員の副業は禁じられている」と忠告したが、これもことごとく無視され、
結局、中村良一は上司に知らせたのだが、この事で2人の関係はさらに悪化した。
■中村良一の 供述❷▼
「長年仲が悪く、10年ほど前からタリウムを飲ませるチャンスを狙っていた」
中村は1985年頃から内田のタオルにタリウムを振り掛けるなどしていた。
そして1990年春頃から、
内田の飲みかけの茶碗などにタリウムの粉末を入れたが、異臭を気づかれ、ことごとく失敗した。
同年1990/4月、内田賢二は、⇔【1990/4タリウム粉末混入騒動事件】
「コーヒー豆の缶に、何か白い粉が入っています」と施設長に見せた。
この粉がタリウムとわかって大騒ぎとなったが、誰も通報などはせず、「悪質ないたずら」として片付けられた。
この1件位後も、
中村はタリウム混入を企て続けたが、
内田の方が疑心暗鬼になり、食事や飲み物にも気を使うようになり、部屋の鍵も取りつけた。
だが1990年12月中旬、今度は巧妙に、タリウムを水に溶かして無味無臭の水溶液を入れた。
そして内田賢二は欠勤、そのまま入院生活となった。
中村良一にとっては、
10年来の憎しみがようやくはらされた瞬間だった。⇒10年間の怨念の達成感!!!
さらにタリウム入りのお茶の缶を内田専用の冷蔵庫にいれておくなど、自殺に見せる偽装工作も行った。
逮捕までに、2年半あったものの、中村は当初から疑われていた。
仲が悪かった事も職場の人の知るところであったし、タリウムを扱うのは大抵中村良一だったからだ。
東大施設という事件の舞台のわりに、安易な計画、軽々しい動機の犯行だった。
■中村良一の【裁判】■
❶1995年12月19日、東京地裁、中村良一に懲役11年の判決。
❷1996年11月21日、東京高裁、控訴棄却。
❸2000年6月8日、最高裁、上告棄却⇒懲役11年の確定。
❹2002年4月15日、内田の遺族が約1億円の損害賠償を求めた訴訟で、
東京地裁・山名学裁判長は、
「東大側の安全管理に過失があった」として、6684万円余を支払うよう命じた。
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▼2005年、静岡県内の女子高生が、母親にタリウムを飲ませるという事件が起こった。
日本犯罪史上、❶福岡大学病院事件、❷東大技官タリウム毒殺事件に次いで3例目のタリウム事件だった。
■≪タリウム事件参考文献≫■
①角川書店「ニッポン列島毒殺事件簿」植松黎
②データハウス「毒物犯罪カタログ」 国民自衛研究会
③東京法経学院出版「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」事件・犯罪研究会・編
④二見書房「日本中を震えあがらせた恐怖の毒薬犯罪99の事件簿」楠木誠一郎
⑤毎日新聞社「事件記者の110番講座」三木賢治
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タリウムは、1861年にイギリスのウィリアム・クルークスとラミーによって、硫酸工場の鉛室の泥中で発見された。
重金属の毒で、鉛や水銀に近いが毒性はさらに強い。
金属タリウム色は銀白色であるが空気にふれるとすぐ酸化されて灰色となる。
致死量は0.2~1g。無味無臭で水に溶けやすい。
飲んでもすぐには症状は出ず、だいたい数日から10日後に、手足に痺れや痛みを生じさせる。
また神経炎、神経痛、肺炎、発疹チフス、アルコール中毒などと間違われやすいという恐るべき毒物である。
かつて日本では硫酸タリウムを砂糖、でん粉、グリセリン、水でこねて殺鼠剤に使われた。
また女性の除毛剤としても売られていた事もある。
1970年代に欧米で使用禁止となったタリウムは、日本でも日常的に使われる事はなくなり、
現在では医局の試薬、特殊ガラス・人工宝石の製造などに使われる。
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名大女子大生・大内万里亜19の手斧殺人事件と聖ウルスラ学院英智高校タリウム毒盛り失明事件
しかし、手斧の刃でなく、斧の裏で攻撃⇒死に至らずマフラーで首絞め老婆殺害
タリウム飲ませた女子生徒見舞いに…症状確認か
2015年5月17日読売新聞
名古屋大学の女子学生(19)が高校時代、
別の高校の女子生徒ら2人に劇物の硫酸タリウムを飲ませたとして殺人未遂容疑で再逮捕された事件で、
女子学生(19)が、
体調不良で入院した女子生徒を見舞いに訪れていた事が、関係者への取材でわかった。
女子学生(19)は、
「タリウムを飲ませて症状を観察したかった」と供述しており、
愛知、宮城両県警は、生徒の中毒症状を確認する目的だった可能性があるとみている。
女子生徒の家族によると、
生徒は体調を崩し、2012年7月下旬から8月頃に5日間入院。
女子学生(19)はその際、病室に花を持って見舞いに来たという。
2人は小中学生の時から一緒にカラオケに行ったり、互いの家で遊んだりするなど仲が良く、
別々の高校に進学してからも連絡を取り合っていたという。
両県警によると、
女子学生(19)は高校2年だった2012年5月27日頃、宮城県内のカラオケ店で女子生徒の飲み物にタリウムを混ぜて飲ませた疑いがある。
女子生徒は手足にしびれなどの症状が出たが、現在は生活に支障がない程度まで回復しているという。
当時は原因不明だったが、その後の捜査で女子生徒からタリウムが検出された。
[注意]
別の高校の女子生徒ら2人=別の高校の女子生徒(19)+同級生の男子生徒(19)
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<殺人未遂容疑>名大生を再逮捕…高校同級生らにタリウム
2015年5月15日毎日新聞【谷口拓未、金寿英】
愛知、宮城両県警合同捜査本部は2015/5/15日、名古屋市のアパートで女性を殺害した容疑で今年2015/1月に逮捕された名古屋大の女子学生(19)が、
宮城県の私立高校在学時、同級生ら2人に猛毒の「硫酸タリウム」を飲ませ、殺害しようとした疑いが強まったとして、女子学生(19)を殺人未遂容疑で再逮捕した
愛知県警の調べに「タリウムを飲ませて、観察したかった」などと容疑を認めているという。
再逮捕容疑は、
(1)2012年5月27日頃、宮城県内の飲食店で女子生徒(19)に対し、
(2)また同2012/5/28日頃から6月上旬頃にかけ、通っていた高校内で同級生の男子生徒(19)に対し、
それぞれ殺意を持って硫酸タリウムを飲み物に混ぜて飲ませ、2人を中毒にさせたとしている。
女子学生(19)は昨年2014/12月、名古屋市の自宅アパートで、同市千種区の森外茂子(ともこ)(当時77歳)の頭をおので殴り、マフラーで首を絞めて殺害したとして、
今年2015/1月に殺人容疑で逮捕された。
名古屋地検は鑑定留置の結果、刑事責任能力があるとみている。【谷口拓未、金寿英】
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<老女殺害>名大生実家捜索5時間 母親か…捜査員と共に
2015/1/31毎日新聞
名古屋市で森外茂子(77)が殺害された事件で、愛知県警は1/31日、殺人容疑で逮捕した女子学生の宮城県の実家へ家宅捜索に入った。
捜査関係者によると、家宅捜索は午前9時前から始まり、約5時間続いた。
捜査員が段ボール箱を運び出すと、母親とみられる女性が捜査員に伴われて家から出てきた。
母親らしき女性はうつむき加減に車に乗り込み、記者の問いかけには答えなかった。
名古屋市昭和区の女子学生のアパートへの家宅捜索では、
殺人事件に関する書籍や毒性の強いタリウムとみられる薬品が多数押収されている。
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名大女子学生(大内万里亜)⇒応援団部員に「タリウム入りジュース」飲ます?
2015年1月31日東スポWeb
名古屋大学理学部1年の女子学生(19)が無職森外茂子(77)殺害容疑で逮捕された事件で1/29日、名古屋市内の女子学生の部屋から複数の薬品や過去の殺人事件に関連する書籍が押収されていた事がわかった。
女子学生は「高校時代に同級生に毒を盛った」と供述しているが、大学でも部員相手に“手作りジュース”に混ぜて薬物を飲ませた疑いも出てきた。
女子学生は「人を殺して達成感があった」と供述しているという。
事件当日の昨年2014/12月7日、ツイッターに「ついにやった」と書き込んでおり、それと重なる内容だ。
女子学生は、
「高校時代に同級生に毒を飲ませて後遺症を残したことがある」とも供述している。
これを裏付けるように、在籍していた宮城・仙台の高校[宮城県私立聖ウルスラ学院英智高等学校]では、
2012年6月ごろ、同級生の女子生徒が体調不良を訴え、視力低下で一時休学した。
さらに、同級生の男子生徒は視力と筋力の低下を訴え入院。
地元関係者によると「このとき医師は薬物など特殊な成分が体内に入った疑いがあると診断したが、原因は結局不明だった。
男子生徒は入退院を繰り返し、失明し、特別支援学校に転入した」。宮城県警は1/29日、供述を受けて「傷害容疑で捜査中」としている。
ツイッターなどでは薬物への異常な興味をつづり、
「未開封の硫酸タリウム瓶には25グラム、つまり約13人分の生命が入っているわけだ! それだけで神秘じゃないか」などとつぶやいた。
同級生への毒は、症状からこのタリウムだった可能性が高い。
女子学生をめぐっては名古屋大進学後、所属していた名大応援団が新入部員を紹介する動画が、
昨年2014/6月ごろからネット上に出回っており、その紹介内容が“余罪”の可能性を示唆しているとも言われる。男子部員が女子学生を紹介した文句はこうだ。
「家には様々な薬品を取り揃え(中略)三度のメシより化学実験が大好き。入団した時から持ってきてくれるジュースが非常においしく、このジュースがどこで売っているのか尋ねてみたところ(中略)化学実験で作ったジュースだったのであります。おいしいからと飲み続けていた結果、私の体にある異変が起き始めていたのでございます。(額を見せて)私の前線はこの女の実験によって後退してしまった。私はこの女の実験動物にされたのでございます」
女子学生はツイッターで昨年2014/4月に「薬局での品物取り寄せは日常茶飯事よ☆」、2014/9月には「タリウム素手で触っちまった」、2014/11月には「硫酸タリウム買ったんだけどね」などともつぶやいた。過去に起きた、実母にタリウムを飲ませた殺人未遂事件で逮捕された女子高生への並々ならぬ関心も示していた。
タリウムは摂取すると頭痛、吐き気、幻覚などの症状のほか失明、さらには呼吸まひによる死亡の危険性もある。
2012年には、硫酸タリウム入りウーロン茶を同僚の男女5人に飲ませて重症を負わせ、大量に脱毛させた傷害罪に問われた男に懲役3年、執行猶予4年の判決が下っており、ハゲることでも知られる。
本紙は前出の応援団男子部員を電話で直撃。
すると「あれは冗談です。一度も彼女の作ったジュースなんて飲んだことはありません。そのような事実はありませんので…」
と困惑した口調で電話を切った。
別の名大生は男子部員の心中をおもんぱかり、こう話す。
「応援団は部員1人の時代もあり、今でも3~4人。後期に入って女子学生が学校に来なくなった時も、皆で迎えに行ったほど結束が固い。“自分たちに刃を向けられた”という、万が一の可能性も考えたくないのでは」・・・・
女子学生が“身内”の部員にまで毒を盛って実験していたとしたら、おぞましすぎる。
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「硫酸タリウム買った」名大生、事件前ツイート⇒硫酸タリウムTl2SO4
2015年1月31日読売新聞
名古屋大学の女子学生(19)が名古屋市昭和区の自宅アパートで同市千種区、無職森外茂子(ともこ77)を殺害した事件で、
女子学生のものとみられる簡易投稿サイト「ツイッター」の書き込みに、劇物に指定されている硫酸タリウムを所有していることを示す内容があることが分かった。
愛知県警は女子学生のアパートから複数の薬品を押収しており、こうした劇物が含まれているか鑑定する方針。
ツイッターには、昨年2014/11月10日付で、
「硫酸タリウム買った」「硫酸タリウムの半数致死量は1gグラム(成人男性)だろ?未開封の硫酸タリウム瓶には25g、つまり約13人分の生命が入っているわけだ」
との記述があるほか、同2014/9月15日には「タリウム素手で触っちまった」とも書かれていた。
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■Twitterプロフィール紹介には
「上中→聖ウルスラ→名古屋大学理学部1年(今ここ)→名古屋大学大学院→自宅警備員→刑務所→拘置所・宮城→愛知」と記載されている。
https://twitter.com/thallium123⇔大内万里亜のツイッター⇔現在はまだ閉鎖されてない。
■プロフィール(名大サークル※現在削除済み)
http://www2.jimu.nagoya-u.ac.jp/ohendan/contents/danin/ouchi/ouchi.html
名前=大内万里亜(おおうち まりあ)
生年月日=1995年10月5日[2015/10/5で20歳][オウムサリン地下鉄事件の時に生れる]
在籍大学=名古屋大学理学部(1年生)
所属=リーダー部
出身中学=仙台市立上杉山中学校?
出身高校=宮城県私立聖ウルスラ学院英智高等学校(偏差値45~65)
※特別志学コース(65)・特別志学コース(58)・尚志コース(45)
血液型=A型
趣味=薬品コレクション
特技=しりとり
今後の目標=警察にお世話にならないよう頑張ります。
ひとこと=私は清楚です。
■殺害時刻に大内万里亜Twitterで報告しています。
▼ニュースでの犯行時刻=2014年12月7日昼ごろ
▼Twitterの報告「ついにやった。」(2014年12月7日17:15)
⇊■19歳少女を殺人容疑で逮捕 「人を殺してみたかった」■⇊
2015年1月27日朝日新聞
名古屋市昭和区のアパートの一室で、顔見知りの女性・森外茂子(77)をおので殴るなどして殺害したとして、
愛知県警は2015/1月27日、この部屋に住む名古屋大学1年の少女(19)を殺人の疑いで緊急逮捕し発表した。
容疑を認め、「人を殺してみたかった」と話しているという。
県警によると、少女は、
❶昨年2014/12月7日昼ごろ、自室で、同市千種区の無職、森外茂子(ともこ)の頭をおので数回殴ったり、マフラーで首を絞めたりして殺害した。
❷2015/1月27日午前9時40分ごろ、少女19と共に部屋を訪れた警察官が、風呂場の洗い場で、服を着たまま倒れた状態で死亡していた森を発見した。
少女は昨年2014/12月上旬、森から宗教の勧誘を受けて知り合い、
2014/12月7日午前には2人で同市昭和区の宗教施設を訪れていた。
その後、少女は自室で森を襲い、遺体をそのまま放置し、宮城県の実家に戻っていたという。
森外茂子の夫が12/7日夕、外茂子が予定の時間に帰宅せず、携帯電話にも出ない事から警察に行方不明を届け出た。
県警が捜査したところ、2人が会っていたという目撃情報があり、少女が浮上した。
少女は昨年2014/4月に大学に入学し、アパートで一人暮らしをしていた。
調べに対し、少女は
「手おので殴ったが、完全に死んでいないのでマフラーで首を絞めた」
「部屋で殺し、遺体を風呂場に運んだ」などと話しているといい、県警は動機を調べている。
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女子学生、被害女性の遺体撮影か 愛知県警が携帯電話データ確認
2015年1月30日共同通信
名古屋市のアパートで無職森外茂子(77)が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された名古屋大の女子学生(19)の携帯電話に森の遺体とみられる画像データが残っていた事が1/30日、捜査関係者への取材で分かった。愛知県警がアパートから押収した携帯電話を解析しデータを確認。女子学生がカメラ機能を使い撮影したとみられる。県警は画像を撮った目的や撮影時の状況を調べる。
県警によると、遺体は発見時、
首にマフラーが巻かれ、浴室床に横たわった状態だった。
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名古屋大女学生 毒マニアを殺人犯にした大人たちの“隠蔽”
2015/1/31日刊ゲンダイ
名古屋市の77歳女性殺害事件で、容疑者の名大女子学生A子(19)は、中学生のころから“毒マニア”だったという。
周囲の大人も、危険信号に気づいていたはずだ。
殺害現場のA子の自宅からは、毒性の強い劇薬タリウムが押収された。大学の同級生には「趣味は薬品コレクション」と話していたという。
「A子は中学生時代から毒キノコや化学薬品について熱心に調べるほどの“毒マニア”だったそうです。飼っていたハムスターに自作の薬品をかける“実験”も行っていた。はさみやカッターを常に持ち歩き、『猫の中身を見てみたい』と友人に漏らしていたといいます」(捜査事情通)
どう考えても異常だ。周囲が気づかないわけがない。そして悲劇が起きた。
宮城県内の市立中から私立高に進学したA子は「同級生だった男子生徒に毒を盛った」と、逮捕後に供述している。
「男子生徒は両目の視力が急激に落ち、その後、特別支援学校に転校しています。当時、男子生徒を診た医師は『薬物が原因の可能性がある』と警察に届け出ましたが、学校側は校内の薬品を調べただけで、ウヤムヤにしようとした。事件を公表しなかった。校長は『在校生に動揺を与えたくなかった』などと話していますが、隠蔽しようとしたと勘繰られても仕方がないでしょう」(地元マスコミ関係者)
いまになって宮城県警は傷害事件として捜査を始めたというが、もっと早く動いていれば、今回の殺害事件を防げたかもしれない。
A子は大学進学後も、ツイッターでサリンなどの毒物についてつぶやいていた。
異常な執着があるから理学部に進んだのだろうが、不思議なのはそれほどの毒マニアなのに、77歳女性はおので殴って、マフラーで首を絞めて殺害したことだ。
「A子は取り調べに淡々と応じ、『悪かったとは思う』と反省の弁を述べているそうです。なぜ毒殺じゃないのか? それはまだ謎です」(前出の捜査事情通)
昨年2014の長崎・佐世保市の同級生殺害事件も、結局、周囲が加害少女の異常性を隠蔽し続けようとしたせいで、悲劇を招いた。今回の事件もまったく同じじゃないか。
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▽手斧過去類似事件▽
■斧少女(16歳)殺人事件=2007/9/18(事件日)■⇔この殺人事件は斧の刃で直接に攻撃して殺害⇔次女の父に対する怨念!!、は手斧で晴らす
京田辺警察官殺害事件(きょうたなべ)とは、
2007年9月18日に京都府京田辺市で、当時16歳の少女が警察官(京都府警南警察署勤務)である父親を殺害した事件。
■経緯□
❶2007年9月18日午前4時頃、少女16[次女]は自宅2階の寝室で寝ていた父親の首を手斧(刃渡り11cm、柄約30cm)で切りつけて失血死させた。
❷2007/9/18午前4時40分頃、少女16の母親が「父親が首を切って自殺した」と119番通報。
しかし、
消防からの連絡で田辺署員が駆け付けたところ、2階の寝室のベッドで血塗れで死亡している事が確認された。
1階キッチンに手斧が落ちており、そばにいた少女16の服に返り血が付いていた為、署員が事情を聞いたところ犯行を認めたため、殺人容疑で緊急逮捕した。
少女は犯行の5日前に自宅近くのホームセンターで手斧を購入していた。
少女は動機について「父親の女性関係に数年前から疑問を抱いていた。ギロチンにしようと思った」と府警の調べに供述したとされる。
❸2007/10月5日、京都地検は少女を殺人の非行事実で家裁に送致したが、計画性と残虐性を考慮して刑事処分相当との意見を付けた。
❹2007/10月18日、第1回審判で京都家裁は少女の心理状態鑑定を決定した。
■家裁送致⇒結論⇒決定⇒確定(保護処分=この時次女は17歳になっていた)□
保護処分とする特段の事情があると結論。
謝罪する気持ちがある事や家族の処罰感情が強くない事も考慮し、
長期間の矯正教育を施して更生を図るべきだとして、中等少年院送致の保護処分を決定した。異議はなく、そのまま確定した。
■事件の影響□
少女16が中学2年以降からゴシック・アンド・ロリータ(ゴスロリ)に興味を示すようになり、犯行時もそれらの服を着ていたと報じた。
また、2007年9月24日には、長野間で15歳の少年が斧で父親を殴打し負傷させる事件が発生し、逮捕された少年は、テレビで京田辺の事件を見て斧を凶器に選んだと供述していた。
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▽タリウム過去類似事件▽
■硫酸タリウムTl2SO4⇔タリウムは1価=Tl+■化学式量=204.4×2+96=504.8
❶無味無臭⇔水への溶解度 4.87g (20 °C)
❷水に易溶である
❸可溶性で致死量は大人で平均致死量は約1グラム。500mgを超えると致命的で、
タリウムの硫酸塩は身体に入った後、腎臓、肝臓、脳などに影響が出る。 経口摂取や吸入、
❹皮膚に触れると危険。
❺有毒性のために家庭用の製品にタリウムの硫酸塩(化合物含む)の使用を禁止した。
今では、殺鼠剤、分析用試薬として利用されている。
殺鼠剤の誤飲などの事故でタリウムを摂取した場合の治療薬としてプルシアンブルー[紺青、ヘキサシアノ鉄(Ⅱ)酸鉄(Ⅲ)]が用いられる。
■酢酸タリウム⇔CH3COOTl■化学式量=204.4+59=263.4 ⇔ 263.4の2倍=526.8⇔硫酸タリウムの化学式量504.8とほぼ同じ⇒致死量はほぼ同じとなる
❶無味無臭の白い粉末⇔水への溶解度は酢酸塩らしくかなり溶ける
❷成人の致死量は約1グラムで、急性症状としては吐き気・下痢・昏睡などがあり、呼吸器や循環器の障害により死亡する。
❸少量を継続して摂取しても重金属のため体に蓄積して慢性症状を示し、徐々に衰弱して死亡するため病死と見せかけて毒殺するのに使われ、
事件例としては、
・イギリスのグレアム・ヤングの母親殺し、
・1991年の東大技官タリウム殺人事件(東京大学医学部)
・2005年の静岡女子高生母親毒殺未遂事件などがある。
かつてはよく殺鼠剤に使用され、現在でもその殺鼠剤は薬局で入手可能、黒色に着色されている。
しかしもっと安全な材質(クマリン系)の殺鼠剤が出回っているため、あえて酢酸タリウムをネズミ退治の目的で入手する意義はない。
殺鼠剤の誤飲などの事故でタリウムを摂取した場合の治療薬としてプルシアンブルー[紺青、ヘキサシアノ鉄(Ⅱ)酸鉄(Ⅲ)]が用いられる。
□タリウム毒殺事件は酢酸タリウムが多い□
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■東大技官タリウム毒殺事件の要約■
死亡=被害者=内田賢二(38)=死亡日=1991/2/14PM6:00
犯人=加害者=中村良一(44)=逮捕日=1993/7/22⇒最高裁2000/6/8=1審の懲役11年を支持して中村の刑が確定した。
毒物=酢酸タリウムCH3COOTl
▼1991(平成3)年2月14日18:00、東京大学医学部付属動物実験施設の技官・内田賢二(38)が。
「同僚に毒を盛られたかもしれない」と呟きながら死亡した。
内田賢二は、
前年の1990(平成2)年12月13日、全身が痛み、手足が痺れて、脱毛症状も見られたため入院した。
年が明けても容体は悪化する一方で、1991/2月14日に死亡した。
担当医は、内田が、
「毒を盛られたかもしれない」という最後の言葉を重く見て、警察に通報すると共に、遺体を司法解剖した。
その結果、臓器から「酢酸タリウムCH3COOTl」が検出された。
タリウムTlは金属元素の一つ。特質は鉛や水銀に近いが毒性はさらに強く、致死量は成人で約1グラム[硫酸タリウムとして約1g]。
以前は殺鼠剤として広範囲で使用されていたが、現在では人口宝石の製造や医療関係でしか使用されていない。
警視庁は、毒殺事件として捜査を開始した。
同施設は教授ら研究職、事務職、アルバイトなど数十人が勤務していた。
酢酸タリウムを混入させるには内部の人間以外にはありえない。このため、職員らの身辺調査を実施した。
▼その結果、内田賢二と日頃から仲が悪かった技官・中村良一(44)が捜査上に浮上してきた。
内田は、都内の私立高校を卒業し、動物飼育の会社に入社。この関係で、同施設に技官として採用された。主な任務は実験動物の飼育だった。
一方、中村良一は日本獣医畜産大学を卒業後、国立予防研究所などを経て同施設に配属された。
内田&中村2人の性格は正反対で、勤務態度もおのずと異なり、しばしば対立していた。
●内田は、動物好きだったが、性格は無愛想。職場の付き合いは悪く、朝の挨拶もしない状態だった。
しかも、職場を連絡所にして中古自動車のブローカー(内職・副業)もやっていた。
●中村は、職場の同僚に対して気配りが行き届き、誰に対しても愛想が良かった。
正義感が強い中村は、内田に勤務態度の改善や中古車ブローカーのアルバイトを止めるよう再三注意してきた。
だが、内田は、中村の注意を一切無視した。
捜査班は、中村に対して内偵を開始した。そんな中、捜査員がある情報を収集した。
それによると1990(平成2)年4月中旬、内田が同施設長(教授)に、
「自分のコーヒ豆の缶に白い粉が入っている。調査して欲しい」と申し出たというものだった。
▼同施設長が調べた結果、白い粉は酢酸タリウムだった。
この時は悪質な悪戯という事で警察に通報する事もなく片付けられていた。
その後、内田は脅え始め、食事は外食・飲料はミネラルウォータ以外に口にしなかった。
■1993(平成5)年7月22日、警視庁は中村を殺人容疑で逮捕した(事件発生から2年半が経過)。
警察の取調べで、中村良一は素直に犯行を認めた。
殺害の動機は、自分(中村)の注意を無視し自分(中村)を馬鹿にしたからという単純なものだった。
2000(平成12)年6月8日、最高裁は1審の懲役11年を支持して中村の刑が確定した。
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■東大技官タリウム毒殺事件■憎しみを込めて毒殺を実行~殺したい程に延々と酢酸タリウムを飲まし続けるその怨念!!
■【事件概要】■
1991年2/14PM6:00死亡、
東大付属の動物実験施設に勤める男性技官内田賢二(38歳)が病院で死亡した。
内田賢二は前年から不調を訴えており、遺体からはタリウムが検出された。
2年半後、同僚技官中村良一(当時44歳)が殺人容疑で逮捕された。
■技官中村良一=犯人=加害者▼
【技官内田賢二の死=被害者】
1991年2月14日午後5時59分、東京大学医学部付属動物実験施設(文京区)の技官内田賢二(38歳)が、病院で腎不全のため死亡した。
内田は前年1990/12月13日に、仕事を休んで府中市の整形外科の診察を受けていた。
内田が訴えるには、両手足の痺れがひどく、身体が激しく痛むというらしく、医師は多発性神経炎と診断した。
内田はその後都立神経病院に転院したが、年が明けて容体が悪化していた。重金属中毒の症状を起こしていたのである。
内田が、
「毒を飲まされたようだ」と言い残していた事もあって、医師は念の為警察に通報。
司法解剖された内田の臓器からタリウム化合物が検出された。
内田は農業科の高校から、動物飼育会社を経て、この施設に勤務していた。
技官と言っても、仕事の内容は犬100匹の世話と、実験の後片付けである。
最初はアルバイトだったが、動物好きの内田にとっては良い仕事で、後に正式に採用された。
勤めていた実験動物施設では、⇔【1990/4タリウム粉末混入騒動事件】
以前にもコーヒーの缶にタリウムが混入されるという事があった。
この施設では滅菌用に常備されていたのだ。
さらに酢酸タリウム1瓶(25g入り)が紛失している事もわかった。
職場は内田の他にもう1人動物の世話をする技官がおり、事務職、研究職、施設長(教授)、アルバイトを含め十数人が出入りしていた。
内部の人間なら誰でもタリウムを混入するチャンスはあったのだが、
▼当初は、内田の自殺自演という噂もあった。
内田が「入退院を繰り返せば入院保険金が入る」と話していた事から、保険金目当てで飲む内に、量を間違えたのではないのか?というのだ。
■【憎しみは毒に込めて実行】▼
事件から2年半が過ぎて。
1993年7月22日、同僚の中村良一技官(当時44歳)が殺人容疑で逮捕された。
鑑定に出していた施設保管のタリウムと、遺体から検出されたタリウムの成分比が一致したことを受けての逮捕だった。
中村は、
日本獣医畜産大学卒業、東大医科研、国立予防衛生研などで家畜の微生物の研究を経てこの施設に採用された。
以前の施設長に誘われたからで、ここで動物実験施設でマイコプラズマの分離に関する研究プロジェクトに入った。
この時に、中村はタリウムについて熟達している。
だがその教授が退職し、別の教授が赴任すると、中村は次第に研究よりかは実験動物の管理を任されるようになった。
ちなみに、中村良一は1975年4月にこの施設に採用されており、内田賢二がアルバイトとして入ってきたのはその半年後の事である。
■中村良一の供述➊■
「後輩のクセに、仕事の事でいくら注意しても無視するので、長年、鬱積したものがあった」
中村は内田の先輩であり、年上でもある。
同じ技官という立場だが、獣医であるというプライドも中村にはあった。
2人とも勤務態度は真面目であったが、内田の方は職場の行事には一切参加せず、挨拶もろくにしない事があるなど、人付き合いの方に問題があった。
中村良一はそうした態度を度々注意していたのだが、そのたび無視されたという。
また、
内田賢二が施設を事務所がわりに中古車の仲介アルバイトをしているのを知り、
「公務員の副業は禁じられている」と忠告したが、これもことごとく無視され、
結局、中村良一は上司に知らせたのだが、この事で2人の関係はさらに悪化した。
■中村良一の 供述❷▼
「長年仲が悪く、10年ほど前からタリウムを飲ませるチャンスを狙っていた」
中村は1985年頃から内田のタオルにタリウムを振り掛けるなどしていた。
そして1990年春頃から、
内田の飲みかけの茶碗などにタリウムの粉末を入れたが、異臭を気づかれ、ことごとく失敗した。
同年1990/4月、内田賢二は、⇔【1990/4タリウム粉末混入騒動事件】
「コーヒー豆の缶に、何か白い粉が入っています」と施設長に見せた。
この粉がタリウムとわかって大騒ぎとなったが、誰も通報などはせず、「悪質ないたずら」として片付けられた。
この1件位後も、
中村はタリウム混入を企て続けたが、
内田の方が疑心暗鬼になり、食事や飲み物にも気を使うようになり、部屋の鍵も取りつけた。
だが1990年12月中旬、今度は巧妙に、タリウムを水に溶かして無味無臭の水溶液を入れた。
そして内田賢二は欠勤、そのまま入院生活となった。
中村良一にとっては、
10年来の憎しみがようやくはらされた瞬間だった。⇒10年間の怨念の達成感!!!
さらにタリウム入りのお茶の缶を内田専用の冷蔵庫にいれておくなど、自殺に見せる偽装工作も行った。
逮捕までに、2年半あったものの、中村は当初から疑われていた。
仲が悪かった事も職場の人の知るところであったし、タリウムを扱うのは大抵中村良一だったからだ。
東大施設という事件の舞台のわりに、安易な計画、軽々しい動機の犯行だった。
■中村良一の【裁判】■
❶1995年12月19日、東京地裁、中村良一に懲役11年の判決。
❷1996年11月21日、東京高裁、控訴棄却。
❸2000年6月8日、最高裁、上告棄却⇒懲役11年の確定。
❹2002年4月15日、内田の遺族が約1億円の損害賠償を求めた訴訟で、
東京地裁・山名学裁判長は、
「東大側の安全管理に過失があった」として、6684万円余を支払うよう命じた。
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▼2005年、静岡県内の女子高生が、母親にタリウムを飲ませるという事件が起こった。
日本犯罪史上、❶福岡大学病院事件、❷東大技官タリウム毒殺事件に次いで3例目のタリウム事件だった。
■≪タリウム事件参考文献≫■
①角川書店「ニッポン列島毒殺事件簿」植松黎
②データハウス「毒物犯罪カタログ」 国民自衛研究会
③東京法経学院出版「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」事件・犯罪研究会・編
④二見書房「日本中を震えあがらせた恐怖の毒薬犯罪99の事件簿」楠木誠一郎
⑤毎日新聞社「事件記者の110番講座」三木賢治
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タリウムは、1861年にイギリスのウィリアム・クルークスとラミーによって、硫酸工場の鉛室の泥中で発見された。
重金属の毒で、鉛や水銀に近いが毒性はさらに強い。
金属タリウム色は銀白色であるが空気にふれるとすぐ酸化されて灰色となる。
致死量は0.2~1g。無味無臭で水に溶けやすい。
飲んでもすぐには症状は出ず、だいたい数日から10日後に、手足に痺れや痛みを生じさせる。
また神経炎、神経痛、肺炎、発疹チフス、アルコール中毒などと間違われやすいという恐るべき毒物である。
かつて日本では硫酸タリウムを砂糖、でん粉、グリセリン、水でこねて殺鼠剤に使われた。
また女性の除毛剤としても売られていた事もある。
1970年代に欧米で使用禁止となったタリウムは、日本でも日常的に使われる事はなくなり、
現在では医局の試薬、特殊ガラス・人工宝石の製造などに使われる。
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2015年6月3日水曜日
ビンラディン暗殺2011/5/2作戦の真相暴露・London review of books/Seymour Hersh(全英文記載67000文字数)
67000文字数
突然暴露された新説に全米震撼、ビンラディン暗殺はウソばかり?
2015年6月1日週プレNEWS
2015/5月10日、アルカイダの指導者オサマ・ビンラディンの暗殺作戦が「すべて茶番だった」という記事が、
英誌『ロンドン・レビュー・オブ・ブックス』(London review of books))に発表された。
執筆したのは、超一流の調査報道ジャーナリストであるシーモア・ハーシュだ(Seymour M. Hersh)。
■London review of books■
"The Killing of Osama bin Laden"
Seymour M. Hersh
ハーシュ(Hersh)は、
ベトナム戦争における米兵の虐殺を暴いた「ソンミ村虐殺事件」のスクープ記事でデビューし、
いきなりピュリツァー賞を受賞。
その後も、
大韓航空機撃墜事件、イスラエルの核兵器保有、イラクでの捕虜虐待事件などスクープを連発。
それゆえ、ホワイトハウスやペンタゴンは火消しに躍起となり、全米が揺れた。
オバマ政権がこれまで主張してきた暗殺作戦の公式な要点は以下の4つだ。
●2010年8月、ビンラディンと外部との連絡役(クーリエ)を米諜報機関が特定。
追跡の結果、その人物はパキスタンのアボタバードという街の、コンクリート塀で囲まれた邸宅に通っていると判明。
●地上と空から24時間体制で監視を続け、庭を散歩するビンラディンらしき長身の男の姿を確認。
●オバマ大統領は、
男がビンラディンであるという100%の確証がないまま暗殺作戦にゴーサインを出す。
◆2011年5月2日◆⇒米海軍特殊部隊SEALs(シールズ)の精鋭隊員たちは、
2機のステルスヘリでアフガンの前線基地からパキスタン領空に侵入し、隠れ家を急襲。
1機が着陸に失敗するアクシデントはあったが、銃撃戦の末、ビンラディンらしき男を殺害。
●SEALsは男の遺体と、大量の情報が入った電子機器を持ち帰った。
DNA鑑定によりビンラディンである事が確定し、オバマ大統領が記者会見で発表。
しかし、
👇ハーシュ(Hersh)はそのほとんどがウソだと主張している。
特に重要な点を時系列に沿って検証していこう。
➊ビンラディンの潜伏場所は、アメリカが割り出したのではない。
パキスタン軍情報機関であるISIの元高官がCIAと接触。
ビンラディンにかけられた懸賞金2500万ドルと引き換えに居場所を教えると申し出た。
ハーシュ(Hersh)の記事では、
「ISIの元高官」とだけ書かれているが、その正体はすでに判明しているという。
[ISIの元高官=a former senior Pakistani intelligence officer]
a former senior Pakistani intelligence officer
who betrayed the secret in return for much of the $25 million reward offered by the US
国際ジャーナリストの河合洋一郎が解説する。
「ISIの退役准将、ウスマン・ハリッドです。彼は作戦が決行される前に、秘密裏に家族と共にアメリカへ渡っています。そこで市民権と新しい身分証明書をもらい、現在はCIAのコンサルタントをしているようです。もちろん懸賞金ももらっています」
❷ビンラディンは潜伏していたのではなく、2006年にISIに身柄を拘束され、
パキスタン軍の重要施設が集中するアボタバードに軟禁されていた。
彼(ビンラディン)は難病を患っており、主治医がいたが、そこからDNAがアメリカ側に渡った。
つまり、アメリカは男がビンラディンであると知っていた。
これが本当だとすれば、
ビンラディンをアメリカに「売った」のは前出のハリッド個人ではなくISIという組織の判断だったことになる。
米当局のあるテロ対策担当者はこう解説する。
「当時、ビンラディンを殺したがっているのはアメリカだけではなかった。
アルカイダが戦略を転換し、後の『アラブの春』のような民族蜂起を画策していたため、パキスタンもその芽を早めに摘みたがっていた」
しかし、
パキスタンには、ビンラディンに直接手を下せない事情があったという。
「パキスタン軍がビンラディンを殺したりすれば、国内外のイスラム過激派が激怒し何が起こるかわかりません。
しかし、アメリカに殺させればその心配はない。復讐心に燃えるアメリカは居場所を教えれば必ずアクションを起こす――
彼らはそう考え、ハリッドに『裏切りを命じた』のでしょう」(前出・河合)
もちろん、再選を狙うオバマ大統領にとってもこれは渡りに船。
こうして両国の利害が一致した、という見方だ。
❸オバマ政権は、情報漏洩を恐れて暗殺作戦を事前にパキスタン側に知らせなかったと発表しているが、
実際は2011年1月に合意が結ばれていた。
作戦当日(2011/5/2)、ビンラディン邸の警備員たちは、ヘリの音が聞こえたら立ち去るように命令されていた。
SEALs隊員は、一緒に来ていたISIの将校に案内されて3階の部屋へ入り、無抵抗のビンラディンを撃った。
事前に作戦の情報共有がなされていたという点については、
軍事評論家の古是三春(ふるぜみつはる)も同意する。
「領空に侵入した米軍ヘリがパキスタン軍に迎撃されなかった事、
ビンラディンの潜伏集落が作戦決行前に停電した事。
これらの事は、パキスタン側の協力を仰がなければ不可能です」
❹当初の予定では、
「ビンラディンはアメリカの無人暗殺機が殺害した」というストーリーを1週間後に発表する
という事でアメリカとパキスタンは話をつけていた。ところが、
着陸に失敗したヘリの尾部が現場に残ってしまった事を理由にオバマ大統領はすぐに会見を開き、
急ごしらえの別のストーリーを発表。
ここでCIAの追跡、SEALsの銃撃戦といった“ウソ”が流布された。
作戦に参加したSEALs隊員が後に出版した本では、
すさまじい銃撃戦が繰り広げられた事になっているが、
ハーシュ(Hersh)の記事ではこれも全面的に否定されている。
元米陸軍大尉の飯柴智亮(いいしばともあき)は、
ハーシュ説の真偽には首をかしげながらも元軍人の“英雄本”の信憑性の危うさについてこう語る。
「米軍がムスリムのパキスタン人をこういう状況で信用するとは考えづらく、
一緒に作戦を決行したというのはほぼ間違いなくデマでしょう。
ただ、SEALs隊員の本も、すべて赤裸々に書けば機密に抵触して連邦法違反になるので、
30%から40%は事実を曲げて書いているはず。
それに、あれだけの秘密作戦となれば、現場の隊員は“末端要員”にすぎず、すべてを知っているわけではありません」
いずれにしても、ハーシュの記事の内容は、
「偉大なアメリカがビンラディンをやっつけた」というアメリカ国民の“常識”を根底から覆すものだ。
アメリカはパキスタンの誘いに乗り、無抵抗のビンラディンを特殊部隊に殺させておきながら、
パキスタンとの約束をホゴにして“ウソのストーリー”をばらまいた事になるのだから――。
週プレNEWS (取材/小峯隆生・世良光弘)
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■ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害■殺害日=2011/5/2
▼ウサーマ・ビン・ラーディン▼
アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンは、アメリカ合衆国政府によって、
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、
それ以来アメリカにとってビン・ラーディンを抹殺することが一つの大きな目標となった。
同国による大規模な捜索にもかかわらず拘束することができないまま10年近くが経過したが、
◆2011年5月2日(米国東部夏時間5月1日)、パキスタンにおいてアメリカ軍によりウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認され、
◆2001年以来続いてきた対テロ戦争は一つの節目を迎えることとなった。
複数のメディアが深夜の時間帯にもかかわらず、ビン・ラーディンが死亡したニュースを一斉に報道した。約一時間後、オバマ大統領がホワイトハウスから会見を行い、ウサーマ・ビン・ラーディンが同日、パキスタンの首都イスラマバードから約60km北東にある地方都市アボッターバードの潜伏先と見られていた豪邸で、アメリカ軍の作戦により殺害されたことを全国テレビ中継で公式発表した。
■経緯■
▼イスラマバードとアボッターバードの位置関係▼
2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、
アメリカ政府はアフガニスタンのターリバーン政権に対して首謀者であるウサーマ・ビン・ラーディンの身柄引き渡しを要求。
しかしターリバーン政権は要求を拒否し、同2001年10月7日にアフガン戦争が開始された。
ターリバーン政権は打倒されたが、ビン・ラーディンの行方は戦争開始以降わからなくなり、
このためアメリカ軍はアフガニスタンと隣国パキスタンとの国境地帯にある山岳などを捜索してきた。
しかし、ビン・ラーディンの行方は判明しなかった。
対テロ戦争を始めたアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権が2009年1月にオバマ政権に交代した後も、ビン・ラーディンの捜索は続き、
アメリカ中央情報局(CIA)がビン・ラーディンの連絡係を担う男性の動きを追う中で、
ビン・ラーディン配下の連絡係であり、グァンタナモ収容所に収容されている
ハリド・シェイク・モハメドの元部下の身元特定に成功したことが、捕捉の端緒となった。
2010年8月頃、アボッターバードに居住するこの連絡係とその兄弟の行動分析から、
CIAは2010年9月には同市郊外の厳重に警護された邸宅に、
ある「重要な人物」が潜伏していると推定し、
さらに2011年2月にはビン・ラーディンがここに潜伏しているとの証拠を得るに至った。
これと相前後して、情報を得たレオン・パネッタCIA長官は、
統合特殊作戦コマンド司令官であったウィリアム・マクレイヴン海軍中将に連絡を取った。
アボッターバードはパキスタン陸軍の拠点であり、ビン・ラーディンの住居はパキスタンの陸軍士官学校とは至近距離にあったことから、
BBCはパキスタン軍統合情報局(ISI)が
ビン・ラーディンの身柄隠匿に何らかの関係があったのではないか、と報じている。
この情報はオバマ大統領にも報告された。
これはアメリカ政府内でもごく限られた人間のみが知りうる極秘情報として取り扱われた。
その後も調査は続き、
◆2011年3月中旬から4月28日にかけて、担当者とオバマ大統領のみが出席した国家安全保障会議が5-6回開催される。
◆オバマは5回目の会議翌日の2011/4月29日に作戦決行の許可を出した。
◆作戦名は「Operation Neptune Spear(海神の槍作戦)」とされ、
◆作戦の中ではビン・ラーディンの名は暗号名「ジェロニモ」に置き換えられた。
■潜伏先■
ビン・ラーディンが潜んでいた邸宅は3階建ての豪邸で、2005年頃に完成した。
敷地の周辺は3メートルから5.5メートルもの高さの有刺鉄線に覆われた塀に囲まれており、
豪邸に行くための通路には二重ゲートとなっているほか、入り口には見張りがつけられ、
外部から内部の様子を容易に見えないようにする工夫がなされていた。
周辺の家の約8倍もの広さを持ち、その価値は100万ドルを越えるとも言われる。
なお、邸宅はイスラム過激派に聖地化されることのないよう、
2012年2月25日より取り壊しが開始された。
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■London review of books■
■The Killing of Osama bin Laden■2015/5/21
▼Seymour M. Hersh▼
Vol.37 No.10 · 21 May 2015
pages 3-12・10356 words
It’s been four years since a group of US Navy Seals assassinated Osama bin Laden in a night raid on a high-walled compound in Abbottabad, Pakistan. The killing was the high point of Obama’s first term, and a major factor in his re-election. The White House still maintains that the mission was an all-American affair, and that the senior generals of Pakistan’s army and Inter-Services Intelligence agency (ISI) were not told of the raid in advance. This is false, as are many other elements of the Obama administration’s account. The White House’s story might have been written by Lewis Carroll: would bin Laden, target of a massive international manhunt, really decide that a resort town forty miles from Islamabad would be the safest place to live and command al-Qaida’s operations? He was hiding in the open. So America said.
The most blatant lie was that Pakistan’s two most senior military leaders – General Ashfaq Parvez Kayani, chief of the army staff, and General Ahmed Shuja Pasha, director general of the ISI – were never informed of the US mission. This remains the White House position despite an array of reports that have raised questions, including one by Carlotta Gall in the New York Times Magazine of 19 March 2014. Gall, who spent 12 years as the Times correspondent in Afghanistan, wrote that she’d been told by a ‘Pakistani official’ that Pasha had known before the raid that bin Laden was in Abbottabad. The story was denied by US and Pakistani officials, and went no further. In his book Pakistan: Before and after Osama (2012), Imtiaz Gul, executive director of the Centre for Research and Security Studies, a think tank in Islamabad, wrote that he’d spoken to four undercover intelligence officers who – reflecting a widely held local view – asserted that the Pakistani military must have had knowledge of the operation. The issue was raised again in February, when a retired general, Asad Durrani, who was head of the ISI in the early 1990s, told an al-Jazeera interviewer that it was ‘quite possible’ that the senior officers of the ISI did not know where bin Laden had been hiding, ‘but it was more probable that they did [know]. And the idea was that, at the right time, his location would be revealed. And the right time would have been when you can get the necessary quid pro quo – if you have someone like Osama bin Laden, you are not going to simply hand him over to the United States.’
This spring I contacted Durrani and told him in detail what I had learned about the bin Laden assault from American sources: that bin Laden had been a prisoner of the ISI at the Abbottabad compound since 2006; that Kayani and Pasha knew of the raid in advance and had made sure that the two helicopters delivering the Seals to Abbottabad could cross Pakistani airspace without triggering any alarms; that the CIA did not learn of bin Laden’s whereabouts by tracking his couriers, as the White House has claimed since May 2011, but from a former senior Pakistani intelligence officer who betrayed the secret in return for much of the $25 million reward offered by the US, and that, while Obama did order the raid and the Seal team did carry it out, many other aspects of the administration’s account were false.
NYU Press - Plucked - Rebecca M. Herzig
‘When your version comes out – if you do it – people in Pakistan will be tremendously grateful,’ Durrani told me. ‘For a long time people have stopped trusting what comes out about bin Laden from the official mouths. There will be some negative political comment and some anger, but people like to be told the truth, and what you’ve told me is essentially what I have heard from former colleagues who have been on a fact-finding mission since this episode.’ As a former ISI head, he said, he had been told shortly after the raid by ‘people in the “strategic community” who would know’ that there had been an informant who had alerted the US to bin Laden’s presence in Abbottabad, and that after his killing the US’s betrayed promises left Kayani and Pasha exposed.
The major US source for the account that follows is a retired senior intelligence official who was knowledgeable about the initial intelligence about bin Laden’s presence in Abbottabad. He also was privy to many aspects of the Seals’ training for the raid, and to the various after-action reports. Two other US sources, who had access to corroborating information, have been longtime consultants to the Special Operations Command. I also received information from inside Pakistan about widespread dismay among the senior ISI and military leadership – echoed later by Durrani – over Obama’s decision to go public immediately with news of bin Laden’s death. The White House did not respond to requests for comment.
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It began with a walk-in. In August 2010 a former senior Pakistani intelligence officer approached Jonathan Bank, then the CIA’s station chief at the US embassy in Islamabad. He offered to tell the CIA where to find bin Laden in return for the reward that Washington had offered in 2001. Walk-ins are assumed by the CIA to be unreliable, and the response from the agency’s headquarters was to fly in a polygraph team. The walk-in passed the test. ‘So now we’ve got a lead on bin Laden living in a compound in Abbottabad, but how do we really know who it is?’ was the CIA’s worry at the time, the retired senior US intelligence official told me.
The US initially kept what it knew from the Pakistanis. ‘The fear was that if the existence of the source was made known, the Pakistanis themselves would move bin Laden to another location. So only a very small number of people were read into the source and his story,’ the retired official said. ‘The CIA’s first goal was to check out the quality of the informant’s information.’ The compound was put under satellite surveillance. The CIA rented a house in Abbottabad to use as a forward observation base and staffed it with Pakistani employees and foreign nationals. Later on, the base would serve as a contact point with the ISI; it attracted little attention because Abbottabad is a holiday spot full of houses rented on short leases. A psychological profile of the informant was prepared. (The informant and his family were smuggled out of Pakistan and relocated in the Washington area. He is now a consultant for the CIA.)
‘By October the military and intelligence community were discussing the possible military options. Do we drop a bunker buster on the compound or take him out with a drone strike? Perhaps send someone to kill him, single assassin style? But then we’d have no proof of who he was,’ the retired official said. ‘We could see some guy is walking around at night, but we have no intercepts because there’s no commo coming from the compound.’
In October, Obama was briefed on the intelligence. His response was cautious, the retired official said. ‘It just made no sense that bin Laden was living in Abbottabad. It was just too crazy. The president’s position was emphatic: “Don’t talk to me about this any more unless you have proof that it really is bin Laden.”’ The immediate goal of the CIA leadership and the Joint Special Operations Command was to get Obama’s support. They believed they would get this if they got DNA evidence, and if they could assure him that a night assault of the compound would carry no risk. The only way to accomplish both things, the retired official said, ‘was to get the Pakistanis on board’.
During the late autumn of 2010, the US continued to keep quiet about the walk-in, and Kayani and Pasha continued to insist to their American counterparts that they had no information about bin Laden’s whereabouts. ‘The next step was to figure out how to ease Kayani and Pasha into it – to tell them that we’ve got intelligence showing that there is a high-value target in the compound, and to ask them what they know about the target,’ the retired official said. ‘The compound was not an armed enclave – no machine guns around, because it was under ISI control.’ The walk-in had told the US that bin Laden had lived undetected from 2001 to 2006 with some of his wives and children in the Hindu Kush mountains, and that ‘the ISI got to him by paying some of the local tribal people to betray him.’ (Reports after the raid placed him elsewhere in Pakistan during this period.) Bank was also told by the walk-in that bin Laden was very ill, and that early on in his confinement at Abbottabad, the ISI had ordered Amir Aziz, a doctor and a major in the Pakistani army, to move nearby to provide treatment. ‘The truth is that bin Laden was an invalid, but we cannot say that,’ the retired official said. ‘“You mean you guys shot a cripple? Who was about to grab his AK-47?”’
‘It didn’t take long to get the co-operation we needed, because the Pakistanis wanted to ensure the continued release of American military aid, a good percentage of which was anti-terrorism funding that finances personal security, such as bullet-proof limousines and security guards and housing for the ISI leadership,’ the retired official said. He added that there were also under-the-table personal ‘incentives’ that were financed by off-the-books Pentagon contingency funds. ‘The intelligence community knew what the Pakistanis needed to agree – there was the carrot. And they chose the carrot. It was a win-win. We also did a little blackmail. We told them we would leak the fact that you’ve got bin Laden in your backyard. We knew their friends and enemies’ – the Taliban and jihadist groups in Pakistan and Afghanistan – ‘would not like it.’
A worrying factor at this early point, according to the retired official, was Saudi Arabia, which had been financing bin Laden’s upkeep since his seizure by the Pakistanis. ‘The Saudis didn’t want bin Laden’s presence revealed to us because he was a Saudi, and so they told the Pakistanis to keep him out of the picture. The Saudis feared if we knew we would pressure the Pakistanis to let bin Laden start talking to us about what the Saudis had been doing with al-Qaida. And they were dropping money – lots of it. The Pakistanis, in turn, were concerned that the Saudis might spill the beans about their control of bin Laden. The fear was that if the US found out about bin Laden from Riyadh, all hell would break out. The Americans learning about bin Laden’s imprisonment from a walk-in was not the worst thing.’
Despite their constant public feuding, American and Pakistani military and intelligence services have worked together closely for decades on counterterrorism in South Asia. Both services often find it useful to engage in public feuds ‘to cover their asses’, as the retired official put it, but they continually share intelligence used for drone attacks, and co-operate on covert operations. At the same time, it’s understood in Washington that elements of the ISI believe that maintaining a relationship with the Taliban leadership inside Afghanistan is essential to national security. The ISI’s strategic aim is to balance Indian influence in Kabul; the Taliban is also seen in Pakistan as a source of jihadist shock troops who would back Pakistan against India in a confrontation over Kashmir.
Adding to the tension was the Pakistani nuclear arsenal, often depicted in the Western press as an ‘Islamic bomb’ that might be transferred by Pakistan to an embattled nation in the Middle East in the event of a crisis with Israel. The US looked the other way when Pakistan began building its weapons system in the 1970s and it’s widely believed it now has more than a hundred nuclear warheads. It’s understood in Washington that US security depends on the maintenance of strong military and intelligence ties to Pakistan. The belief is mirrored in Pakistan.
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‘The Pakistani army sees itself as family,’ the retired official said. ‘Officers call soldiers their sons and all officers are “brothers”. The attitude is different in the American military. The senior Pakistani officers believe they are the elite and have got to look out for all of the people, as keepers of the flame against Muslim fundamentalism. The Pakistanis also know that their trump card against aggression from India is a strong relationship with the United States. They will never cut their person-to-person ties with us.’
Like all CIA station chiefs, Bank was working undercover, but that ended in early December 2010 when he was publicly accused of murder in a criminal complaint filed in Islamabad by Karim Khan, a Pakistani journalist whose son and brother, according to local news reports, had been killed by a US drone strike. Allowing Bank to be named was a violation of diplomatic protocol on the part of the Pakistani authorities, and it brought a wave of unwanted publicity. Bank was ordered to leave Pakistan by the CIA, whose officials subsequently told the Associated Press he was transferred because of concerns for his safety. The New York Times reported that there was ‘strong suspicion’ the ISI had played a role in leaking Bank’s name to Khan. There was speculation that he was outed as payback for the publication in a New York lawsuit a month earlier of the names of ISI chiefs in connection with the Mumbai terrorist attacks of 2008. But there was a collateral reason, the retired official said, for the CIA’s willingness to send Bank back to America. The Pakistanis needed cover in case their co-operation with the Americans in getting rid of bin Laden became known. The Pakistanis could say: “You’re talking about me? We just kicked out your station chief.”’
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The bin Laden compound was less than two miles from the Pakistan Military Academy, and a Pakistani army combat battalion headquarters was another mile or so away. Abbottabad is less than 15 minutes by helicopter from Tarbela Ghazi, an important base for ISI covert operations and the facility where those who guard Pakistan’s nuclear weapons arsenal are trained. ‘Ghazi is why the ISI put bin Laden in Abbottabad in the first place,’ the retired official said, ‘to keep him under constant supervision.’
The risks for Obama were high at this early stage, especially because there was a troubling precedent: the failed 1980 attempt to rescue the American hostages in Tehran. That failure was a factor in Jimmy Carter’s loss to Ronald Reagan. Obama’s worries were realistic, the retired official said. ‘Was bin Laden ever there? Was the whole story a product of Pakistani deception? What about political blowback in case of failure?’ After all, as the retired official said, ‘If the mission fails, Obama’s just a black Jimmy Carter and it’s all over for re-election.’
Obama was anxious for reassurance that the US was going to get the right man. The proof was to come in the form of bin Laden’s DNA. The planners turned for help to Kayani and Pasha, who asked Aziz to obtain the specimens. Soon after the raid the press found out that Aziz had been living in a house near the bin Laden compound: local reporters discovered his name in Urdu on a plate on the door. Pakistani officials denied that Aziz had any connection to bin Laden, but the retired official told me that Aziz had been rewarded with a share of the $25 million reward the US had put up because the DNA sample had showed conclusively that it was bin Laden in Abbottabad. (In his subsequent testimony to a Pakistani commission investigating the bin Laden raid, Aziz said that he had witnessed the attack on Abbottabad, but had no knowledge of who was living in the compound and had been ordered by a superior officer to stay away from the scene.)
Bargaining continued over the way the mission would be executed. ‘Kayani eventually tells us yes, but he says you can’t have a big strike force. You have to come in lean and mean. And you have to kill him, or there is no deal,’ the retired official said. The agreement was struck by the end of January 2011, and Joint Special Operations Command prepared a list of questions to be answered by the Pakistanis: ‘How can we be assured of no outside intervention? What are the defences inside the compound and its exact dimensions? Where are bin Laden’s rooms and exactly how big are they? How many steps in the stairway? Where are the doors to his rooms, and are they reinforced with steel? How thick?’ The Pakistanis agreed to permit a four-man American cell – a Navy Seal, a CIA case officer and two communications specialists – to set up a liaison office at Tarbela Ghazi for the coming assault. By then, the military had constructed a mock-up of the compound in Abbottabad at a secret former nuclear test site in Nevada, and an elite Seal team had begun rehearsing for the attack.
The US had begun to cut back on aid to Pakistan – to ‘turn off the spigot’, in the retired official’s words. The provision of 18 new F-16 fighter aircraft was delayed, and under-the-table cash payments to the senior leaders were suspended. In April 2011 Pasha met the CIA director, Leon Panetta, at agency headquarters. ‘Pasha got a commitment that the United States would turn the money back on, and we got a guarantee that there would be no Pakistani opposition during the mission,’ the retired official said. ‘Pasha also insisted that Washington stop complaining about Pakistan’s lack of co-operation with the American war on terrorism.’ At one point that spring, Pasha offered the Americans a blunt explanation of the reason Pakistan kept bin Laden’s capture a secret, and why it was imperative for the ISI role to remain secret: ‘We needed a hostage to keep tabs on al-Qaida and the Taliban,’ Pasha said, according to the retired official. ‘The ISI was using bin Laden as leverage against Taliban and al-Qaida activities inside Afghanistan and Pakistan. They let the Taliban and al-Qaida leadership know that if they ran operations that clashed with the interests of the ISI, they would turn bin Laden over to us. So if it became known that the Pakistanis had worked with us to get bin Laden at Abbottabad, there would be hell to pay.’
At one of his meetings with Panetta, according to the retired official and a source within the CIA, Pasha was asked by a senior CIA official whether he saw himself as acting in essence as an agent for al-Qaida and the Taliban. ‘He answered no, but said the ISI needed to have some control.’ The message, as the CIA saw it, according to the retired official, was that Kayani and Pasha viewed bin Laden ‘as a resource, and they were more interested in their [own] survival than they were in the United States’.
A Pakistani with close ties to the senior leadership of the ISI told me that ‘there was a deal with your top guys. We were very reluctant, but it had to be done – not because of personal enrichment, but because all of the American aid programmes would be cut off. Your guys said we will starve you out if you don’t do it, and the okay was given while Pasha was in Washington. The deal was not only to keep the taps open, but Pasha was told there would be more goodies for us.’ The Pakistani said that Pasha’s visit also resulted in a commitment from the US to give Pakistan ‘a freer hand’ in Afghanistan as it began its military draw-down there. ‘And so our top dogs justified the deal by saying this is for our country.’
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Pasha and Kayani were responsible for ensuring that Pakistan’s army and air defence command would not track or engage with the US helicopters used on the mission. The American cell at Tarbela Ghazi was charged with co-ordinating communications between the ISI, the senior US officers at their command post in Afghanistan, and the two Black Hawk helicopters; the goal was to ensure that no stray Pakistani fighter plane on border patrol spotted the intruders and took action to stop them. The initial plan said that news of the raid shouldn’t be announced straightaway. All units in the Joint Special Operations Command operate under stringent secrecy and the JSOC leadership believed, as did Kayani and Pasha, that the killing of bin Laden would not be made public for as long as seven days, maybe longer. Then a carefully constructed cover story would be issued: Obama would announce that DNA analysis confirmed that bin Laden had been killed in a drone raid in the Hindu Kush, on Afghanistan’s side of the border. The Americans who planned the mission assured Kayani and Pasha that their co-operation would never be made public. It was understood by all that if the Pakistani role became known, there would be violent protests – bin Laden was considered a hero by many Pakistanis – and Pasha and Kayani and their families would be in danger, and the Pakistani army publicly disgraced.
It was clear to all by this point, the retired official said, that bin Laden would not survive: ‘Pasha told us at a meeting in April that he could not risk leaving bin Laden in the compound now that we know he’s there. Too many people in the Pakistani chain of command know about the mission. He and Kayani had to tell the whole story to the directors of the air defence command and to a few local commanders.
‘Of course the guys knew the target was bin Laden and he was there under Pakistani control,’ the retired official said. ‘Otherwise, they would not have done the mission without air cover. It was clearly and absolutely a premeditated murder.’ A former Seal commander, who has led and participated in dozens of similar missions over the past decade, assured me that ‘we were not going to keep bin Laden alive – to allow the terrorist to live. By law, we know what we’re doing inside Pakistan is a homicide. We’ve come to grips with that. Each one of us, when we do these missions, say to ourselves, “Let’s face it. We’re going to commit a murder.”’ The White House’s initial account claimed that bin Laden had been brandishing a weapon; the story was aimed at deflecting those who questioned the legality of the US administration’s targeted assassination programme. The US has consistently maintained, despite widely reported remarks by people involved with the mission, that bin Laden would have been taken alive if he had immediately surrendered.
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At the Abbottabad compound ISI guards were posted around the clock to keep watch over bin Laden and his wives and children. They were under orders to leave as soon as they heard the rotors of the US helicopters. The town was dark: the electricity supply had been cut off on the orders of the ISI hours before the raid began. One of the Black Hawks crashed inside the walls of the compound, injuring many on board. ‘The guys knew the TOT [time on target] had to be tight because they would wake up the whole town going in,’ the retired official said. The cockpit of the crashed Black Hawk, with its communication and navigational gear, had to be destroyed by concussion grenades, and this would create a series of explosions and a fire visible for miles. Two Chinook helicopters had flown from Afghanistan to a nearby Pakistani intelligence base to provide logistical support, and one of them was immediately dispatched to Abbottabad. But because the helicopter had been equipped with a bladder loaded with extra fuel for the two Black Hawks, it first had to be reconfigured as a troop carrier. The crash of the Black Hawk and the need to fly in a replacement were nerve-wracking and time-consuming setbacks, but the Seals continued with their mission. There was no firefight as they moved into the compound; the ISI guards had gone. ‘Everyone in Pakistan has a gun and high-profile, wealthy folks like those who live in Abbottabad have armed bodyguards, and yet there were no weapons in the compound,’ the retired official pointed out. Had there been any opposition, the team would have been highly vulnerable. Instead, the retired official said, an ISI liaison officer flying with the Seals guided them into the darkened house and up a staircase to bin Laden’s quarters. The Seals had been warned by the Pakistanis that heavy steel doors blocked the stairwell on the first and second-floor landings; bin Laden’s rooms were on the third floor. The Seal squad used explosives to blow the doors open, without injuring anyone. One of bin Laden’s wives was screaming hysterically and a bullet – perhaps a stray round – struck her knee. Aside from those that hit bin Laden, no other shots were fired. (The Obama administration’s account would hold otherwise.)
‘They knew where the target was – third floor, second door on the right,’ the retired official said. ‘Go straight there. Osama was cowering and retreated into the bedroom. Two shooters followed him and opened up. Very simple, very straightforward, very professional hit.’ Some of the Seals were appalled later at the White House’s initial insistence that they had shot bin Laden in self-defence, the retired official said. ‘Six of the Seals’ finest, most experienced NCOs, faced with an unarmed elderly civilian, had to kill him in self-defence? The house was shabby and bin Laden was living in a cell with bars on the window and barbed wire on the roof. The rules of engagement were that if bin Laden put up any opposition they were authorised to take lethal action. But if they suspected he might have some means of opposition, like an explosive vest under his robe, they could also kill him. So here’s this guy in a mystery robe and they shot him. It’s not because he was reaching for a weapon. The rules gave them absolute authority to kill the guy.’ The later White House claim that only one or two bullets were fired into his head was ‘bullshit’, the retired official said. ‘The squad came through the door and obliterated him. As the Seals say, “We kicked his ass and took his gas.”’
After they killed bin Laden, ‘the Seals were just there, some with physical injuries from the crash, waiting for the relief chopper,’ the retired official said. ‘Twenty tense minutes. The Black Hawk is still burning. There are no city lights. No electricity. No police. No fire trucks. They have no prisoners.’ Bin Laden’s wives and children were left for the ISI to interrogate and relocate. ‘Despite all the talk,’ the retired official continued, there were ‘no garbage bags full of computers and storage devices. The guys just stuffed some books and papers they found in his room in their backpacks. The Seals weren’t there because they thought bin Laden was running a command centre for al-Qaida operations, as the White House would later tell the media. And they were not intelligence experts gathering information inside that house.’
On a normal assault mission, the retired official said, there would be no waiting around if a chopper went down. ‘The Seals would have finished the mission, thrown off their guns and gear, and jammed into the remaining Black Hawk and di-di-maued’ – Vietnamese slang for leaving in a rush – ‘out of there, with guys hanging out of the doors. They would not have blown the chopper – no commo gear is worth a dozen lives – unless they knew they were safe. Instead they stood around outside the compound, waiting for the bus to arrive.’ Pasha and Kayani had delivered on all their promises.
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The backroom argument inside the White House began as soon as it was clear that the mission had succeeded. Bin Laden’s body was presumed to be on its way to Afghanistan. Should Obama stand by the agreement with Kayani and Pasha and pretend a week or so later that bin Laden had been killed in a drone attack in the mountains, or should he go public immediately? The downed helicopter made it easy for Obama’s political advisers to urge the latter plan. The explosion and fireball would be impossible to hide, and word of what had happened was bound to leak. Obama had to ‘get out in front of the story’ before someone in the Pentagon did: waiting would diminish the political impact.
Not everyone agreed. Robert Gates, the secretary of defence, was the most outspoken of those who insisted that the agreements with Pakistan had to be honoured. In his memoir, Duty, Gates did not mask his anger:
Before we broke up and the president headed upstairs to tell the American people what had just happened, I reminded everyone that the techniques, tactics and procedures the Seals had used in the bin Laden operation were used every night in Afghanistan … it was therefore essential that we agree not to release any operational details of the raid. That we killed him, I said, is all we needed to say. Everybody in that room agreed to keep mum on details. That commitment lasted about five hours. The initial leaks came from the White House and CIA. They just couldn’t wait to brag and to claim credit. The facts were often wrong … Nonetheless the information just kept pouring out. I was outraged and at one point, told [the national security adviser, Tom] Donilon, ‘Why doesn’t everybody just shut the fuck up?’ To no avail.
Obama’s speech was put together in a rush, the retired official said, and was viewed by his advisers as a political document, not a message that needed to be submitted for clearance to the national security bureaucracy. This series of self-serving and inaccurate statements would create chaos in the weeks following. Obama said that his administration had discovered that bin Laden was in Pakistan through ‘a possible lead’ the previous August; to many in the CIA the statement suggested a specific event, such as a walk-in. The remark led to a new cover story claiming that the CIA’s brilliant analysts had unmasked a courier network handling bin Laden’s continuing flow of operational orders to al-Qaida. Obama also praised ‘a small team of Americans’ for their care in avoiding civilian deaths and said: ‘After a firefight, they killed Osama bin Laden and took custody of his body.’ Two more details now had to be supplied for the cover story: a description of the firefight that never happened, and a story about what happened to the corpse. Obama went on to praise the Pakistanis: ‘It’s important to note that our counterterrorism co-operation with Pakistan helped lead us to bin Laden and the compound where he was hiding.’ That statement risked exposing Kayani and Pasha. The White House’s solution was to ignore what Obama had said and order anyone talking to the press to insist that the Pakistanis had played no role in killing bin Laden. Obama left the clear impression that he and his advisers hadn’t known for sure that bin Laden was in Abbottabad, but only had information ‘about the possibility’. This led first to the story that the Seals had determined they’d killed the right man by having a six-foot-tall Seal lie next to the corpse for comparison (bin Laden was known to be six foot four); and then to the claim that a DNA test had been performed on the corpse and demonstrated conclusively that the Seals had killed bin Laden. But, according to the retired official, it wasn’t clear from the Seals’ early reports whether all of bin Laden’s body, or any of it, made it back to Afghanistan.
Gates wasn’t the only official who was distressed by Obama’s decision to speak without clearing his remarks in advance, the retired official said, ‘but he was the only one protesting. Obama didn’t just double-cross Gates, he double-crossed everyone. This was not the fog of war. The fact that there was an agreement with the Pakistanis and no contingency analysis of what was to be disclosed if something went wrong – that wasn’t even discussed. And once it went wrong, they had to make up a new cover story on the fly.’ There was a legitimate reason for some deception: the role of the Pakistani walk-in had to be protected.
The White House press corps was told in a briefing shortly after Obama’s announcement that the death of bin Laden was ‘the culmination of years of careful and highly advanced intelligence work’ that focused on tracking a group of couriers, including one who was known to be close to bin Laden. Reporters were told that a team of specially assembled CIA and National Security Agency analysts had traced the courier to a highly secure million-dollar compound in Abbottabad. After months of observation, the American intelligence community had ‘high confidence’ that a high-value target was living in the compound, and it was ‘assessed that there was a strong probability that [it] was Osama bin Laden’. The US assault team ran into a firefight on entering the compound and three adult males – two of them believed to be the couriers – were slain, along with bin Laden. Asked if bin Laden had defended himself, one of the briefers said yes: ‘He did resist the assault force. And he was killed in a firefight.’
The next day John Brennan, then Obama’s senior adviser for counterterrorism, had the task of talking up Obama’s valour while trying to smooth over the misstatements in his speech. He provided a more detailed but equally misleading account of the raid and its planning. Speaking on the record, which he rarely does, Brennan said that the mission was carried out by a group of Navy Seals who had been instructed to take bin Laden alive, if possible. He said the US had no information suggesting that anyone in the Pakistani government or military knew bin Laden’s whereabouts: ‘We didn’t contact the Pakistanis until after all of our people, all of our aircraft were out of Pakistani airspace.’ He emphasised the courage of Obama’s decision to order the strike, and said that the White House had no information ‘that confirmed that bin Laden was at the compound’ before the raid began. Obama, he said, ‘made what I believe was one of the gutsiest calls of any president in recent memory’. Brennan increased the number killed by the Seals inside the compound to five: bin Laden, a courier, his brother, a bin Laden son, and one of the women said to be shielding bin Laden.
Asked whether bin Laden had fired on the Seals, as some reporters had been told, Brennan repeated what would become a White House mantra: ‘He was engaged in a firefight with those that entered the area of the house he was in. And whether or not he got off any rounds, I quite frankly don’t know … Here is bin Laden, who has been calling for these attacks … living in an area that is far removed from the front, hiding behind women who were put in front of him as a shield … [It] just speaks to I think the nature of the individual he was.’
Gates also objected to the idea, pushed by Brennan and Leon Panetta, that US intelligence had learned of bin Laden’s whereabouts from information acquired by waterboarding and other forms of torture. ‘All of this is going on as the Seals are flying home from their mission. The agency guys know the whole story,’ the retired official said. ‘It was a group of annuitants who did it.’ (Annuitants are retired CIA officers who remain active on contract.) ‘They had been called in by some of the mission planners in the agency to help with the cover story. So the old-timers come in and say why not admit that we got some of the information about bin Laden from enhanced interrogation?’ At the time, there was still talk in Washington about the possible prosecution of CIA agents who had conducted torture.
‘Gates told them this was not going to work,’ the retired official said. ‘He was never on the team. He knew at the eleventh hour of his career not to be a party to this nonsense. But State, the agency and the Pentagon had bought in on the cover story. None of the Seals thought that Obama was going to get on national TV and announce the raid. The Special Forces command was apoplectic. They prided themselves on keeping operational security.’ There was fear in Special Operations, the retired official said, that ‘if the true story of the missions leaked out, the White House bureaucracy was going to blame it on the Seals.’
The White House’s solution was to silence the Seals. On 5 May, every member of the Seal hit team – they had returned to their base in southern Virginia – and some members of the Joint Special Operations Command leadership were presented with a nondisclosure form drafted by the White House’s legal office; it promised civil penalties and a lawsuit for anyone who discussed the mission, in public or private. ‘The Seals were not happy,’ the retired official said. But most of them kept quiet, as did Admiral William McRaven, who was then in charge of JSOC. ‘McRaven was apoplectic. He knew he was fucked by the White House, but he’s a dyed-in-the-wool Seal, and not then a political operator, and he knew there’s no glory in blowing the whistle on the president. When Obama went public with bin Laden’s death, everyone had to scramble around for a new story that made sense, and the planners were stuck holding the bag.’
Within days, some of the early exaggerations and distortions had become obvious and the Pentagon issued a series of clarifying statements. No, bin Laden was not armed when he was shot and killed. And no, bin Laden did not use one of his wives as a shield. The press by and large accepted the explanation that the errors were the inevitable by-product of the White House’s desire to accommodate reporters frantic for details of the mission.
One lie that has endured is that the Seals had to fight their way to their target. Only two Seals have made any public statement: No Easy Day, a first-hand account of the raid by Matt Bissonnette, was published in September 2012; and two years later Rob O’Neill was interviewed by Fox News. Both men had resigned from the navy; both had fired at bin Laden. Their accounts contradicted each other on many details, but their stories generally supported the White House version, especially when it came to the need to kill or be killed as the Seals fought their way to bin Laden. O’Neill even told Fox News that he and his fellow Seals thought ‘We were going to die.’ ‘The more we trained on it, the more we realised … this is going to be a one-way mission.’
But the retired official told me that in their initial debriefings the Seals made no mention of a firefight, or indeed of any opposition. The drama and danger portrayed by Bissonnette and O’Neill met a deep-seated need, the retired official said: ‘Seals cannot live with the fact that they killed bin Laden totally unopposed, and so there has to be an account of their courage in the face of danger. The guys are going to sit around the bar and say it was an easy day? That’s not going to happen.’
There was another reason to claim there had been a firefight inside the compound, the retired official said: to avoid the inevitable question that would arise from an uncontested assault. Where were bin Laden’s guards? Surely, the most sought-after terrorist in the world would have around-the-clock protection. ‘And one of those killed had to be the courier, because he didn’t exist and we couldn’t produce him. The Pakistanis had no choice but to play along with it.’ (Two days after the raid, Reuters published photographs of three dead men that it said it had purchased from an ISI official. Two of the men were later identified by an ISI spokesman as being the alleged courier and his brother.)
*
Five days after the raid the Pentagon press corps was provided with a series of videotapes that were said by US officials to have been taken from a large collection the Seals had removed from the compound, along with as many as 15 computers. Snippets from one of the videos showed a solitary bin Laden looking wan and wrapped in a blanket, watching what appeared to be a video of himself on television. An unnamed official told reporters that the raid produced a ‘treasure trove … the single largest collection of senior terrorist materials ever’, which would provide vital insights into al-Qaida’s plans. The official said the material showed that bin Laden ‘remained an active leader in al-Qaida, providing strategic, operational and tactical instructions to the group … He was far from a figurehead [and] continued to direct even tactical details of the group’s management and to encourage plotting’ from what was described as a command-and-control centre in Abbottabad. ‘He was an active player, making the recent operation even more essential for our nation’s security,’ the official said. The information was so vital, he added, that the administration was setting up an inter-agency task force to process it: ‘He was not simply someone who was penning al-Qaida strategy. He was throwing operational ideas out there and he was also specifically directing other al-Qaida members.’
These claims were fabrications: there wasn’t much activity for bin Laden to exercise command and control over. The retired intelligence official said that the CIA’s internal reporting shows that since bin Laden moved to Abbottabad in 2006 only a handful of terrorist attacks could be linked to the remnants of bin Laden’s al-Qaida. ‘We were told at first,’ the retired official said, ‘that the Seals produced garbage bags of stuff and that the community is generating daily intelligence reports out of this stuff. And then we were told that the community is gathering everything together and needs to translate it. But nothing has come of it. Every single thing they have created turns out not to be true. It’s a great hoax – like the Piltdown man.’ The retired official said that most of the materials from Abbottabad were turned over to the US by the Pakistanis, who later razed the building. The ISI took responsibility for the wives and children of bin Laden, none of whom was made available to the US for questioning.
‘Why create the treasure trove story?’ the retired official said. ‘The White House had to give the impression that bin Laden was still operationally important. Otherwise, why kill him? A cover story was created – that there was a network of couriers coming and going with memory sticks and instructions. All to show that bin Laden remained important.’
In July 2011, the Washington Post published what purported to be a summary of some of these materials. The story’s contradictions were glaring. It said the documents had resulted in more than four hundred intelligence reports within six weeks; it warned of unspecified al-Qaida plots; and it mentioned arrests of suspects ‘who are named or described in emails that bin Laden received’. The Post didn’t identify the suspects or reconcile that detail with the administration’s previous assertions that the Abbottabad compound had no internet connection. Despite their claims that the documents had produced hundreds of reports, the Post also quoted officials saying that their main value wasn’t the actionable intelligence they contained, but that they enabled ‘analysts to construct a more comprehensive portrait of al-Qaida’.
In May 2012, the Combating Terrorism Centre at West Point, a private research group, released translations it had made under a federal government contract of 175 pages of bin Laden documents. Reporters found none of the drama that had been touted in the days after the raid. Patrick Cockburn wrote about the contrast between the administration’s initial claims that bin Laden was the ‘spider at the centre of a conspiratorial web’ and what the translations actually showed: that bin Laden was ‘delusional’ and had ‘limited contact with the outside world outside his compound’.
The retired official disputed the authenticity of the West Point materials: ‘There is no linkage between these documents and the counterterrorism centre at the agency. No intelligence community analysis. When was the last time the CIA: 1) announced it had a significant intelligence find; 2) revealed the source; 3) described the method for processing the materials; 4) revealed the time-line for production; 5) described by whom and where the analysis was taking place, and 6) published the sensitive results before the information had been acted on? No agency professional would support this fairy tale.’
*
In June 2011, it was reported in the New York Times, the Washington Post and all over the Pakistani press that Amir Aziz had been held for questioning in Pakistan; he was, it was said, a CIA informant who had been spying on the comings and goings at the bin Laden compound. Aziz was released, but the retired official said that US intelligence was unable to learn who leaked the highly classified information about his involvement with the mission. Officials in Washington decided they ‘could not take a chance that Aziz’s role in obtaining bin Laden’s DNA also would become known’. A sacrificial lamb was needed, and the one chosen was Shakil Afridi, a 48-year-old Pakistani doctor and sometime CIA asset, who had been arrested by the Pakistanis in late May and accused of assisting the agency. ‘We went to the Pakistanis and said go after Afridi,’ the retired official said. ‘We had to cover the whole issue of how we got the DNA.’ It was soon reported that the CIA had organised a fake vaccination programme in Abbottabad with Afridi’s help in a failed attempt to obtain bin Laden’s DNA. Afridi’s legitimate medical operation was run independently of local health authorities, was well financed and offered free vaccinations against hepatitis B. Posters advertising the programme were displayed throughout the area. Afridi was later accused of treason and sentenced to 33 years in prison because of his ties to an extremist. News of the CIA-sponsored programme created widespread anger in Pakistan, and led to the cancellation of other international vaccination programmes that were now seen as cover for American spying.
The retired official said that Afridi had been recruited long before the bin Laden mission as part of a separate intelligence effort to get information about suspected terrorists in Abbottabad and the surrounding area. ‘The plan was to use vaccinations as a way to get the blood of terrorism suspects in the villages.’ Afridi made no attempt to obtain DNA from the residents of the bin Laden compound. The report that he did so was a hurriedly put together ‘CIA cover story creating “facts”’ in a clumsy attempt to protect Aziz and his real mission. ‘Now we have the consequences,’ the retired official said. ‘A great humanitarian project to do something meaningful for the peasants has been compromised as a cynical hoax.’ Afridi’s conviction was overturned, but he remains in prison on a murder charge.
*
In his address announcing the raid, Obama said that after killing bin Laden the Seals ‘took custody of his body’. The statement created a problem. In the initial plan it was to be announced a week or so after the fact that bin Laden was killed in a drone strike somewhere in the mountains on the Pakistan/Afghanistan border and that his remains had been identified by DNA testing. But with Obama’s announcement of his killing by the Seals everyone now expected a body to be produced. Instead, reporters were told that bin Laden’s body had been flown by the Seals to an American military airfield in Jalalabad, Afghanistan, and then straight to the USS Carl Vinson, a supercarrier on routine patrol in the North Arabian Sea. Bin Laden had then been buried at sea, just hours after his death. The press corps’s only sceptical moments at John Brennan’s briefing on 2 May were to do with the burial. The questions were short, to the point, and rarely answered. ‘When was the decision made that he would be buried at sea if killed?’ ‘Was this part of the plan all along?’ ‘Can you just tell us why that was a good idea?’ ‘John, did you consult a Muslim expert on that?’ ‘Is there a visual recording of this burial?’ When this last question was asked, Jay Carney, Obama’s press secretary, came to Brennan’s rescue: ‘We’ve got to give other people a chance here.’
‘We thought the best way to ensure that his body was given an appropriate Islamic burial,’ Brennan said, ‘was to take those actions that would allow us to do that burial at sea.’ He said ‘appropriate specialists and experts’ were consulted, and that the US military was fully capable of carrying out the burial ‘consistent with Islamic law’. Brennan didn’t mention that Muslim law calls for the burial service to be conducted in the presence of an imam, and there was no suggestion that one happened to be on board the Carl Vinson.
In a reconstruction of the bin Laden operation for Vanity Fair, Mark Bowden, who spoke to many senior administration officials, wrote that bin Laden’s body was cleaned and photographed at Jalalabad. Further procedures necessary for a Muslim burial were performed on the carrier, he wrote, ‘with bin Laden’s body being washed again and wrapped in a white shroud. A navy photographer recorded the burial in full sunlight, Monday morning, May 2.’ Bowden described the photos:
One frame shows the body wrapped in a weighted shroud. The next shows it lying diagonally on a chute, feet overboard. In the next frame the body is hitting the water. In the next it is visible just below the surface, ripples spreading outward. In the last frame there are only circular ripples on the surface. The mortal remains of Osama bin Laden were gone for good.
Bowden was careful not to claim that he had actually seen the photographs he described, and he recently told me he hadn’t seen them: ‘I’m always disappointed when I can’t look at something myself, but I spoke with someone I trusted who said he had seen them himself and described them in detail.’ Bowden’s statement adds to the questions about the alleged burial at sea, which has provoked a flood of Freedom of Information Act requests, most of which produced no information. One of them sought access to the photographs. The Pentagon responded that a search of all available records had found no evidence that any photographs had been taken of the burial. Requests on other issues related to the raid were equally unproductive. The reason for the lack of response became clear after the Pentagon held an inquiry into allegations that the Obama administration had provided access to classified materials to the makers of the film Zero Dark Thirty. The Pentagon report, which was put online in June 2013, noted that Admiral McRaven had ordered the files on the raid to be deleted from all military computers and moved to the CIA, where they would be shielded from FOIA requests by the agency’s ‘operational exemption’.
McRaven’s action meant that outsiders could not get access to the Carl Vinson’s unclassified logs. Logs are sacrosanct in the navy, and separate ones are kept for air operations, the deck, the engineering department, the medical office, and for command information and control. They show the sequence of events day by day aboard the ship; if there has been a burial at sea aboard the Carl Vinson, it would have been recorded.
There wasn’t any gossip about a burial among the Carl Vinson’s sailors. The carrier concluded its six-month deployment in June 2011. When the ship docked at its home base in Coronado, California, Rear Admiral Samuel Perez, commander of the Carl Vinson carrier strike group, told reporters that the crew had been ordered not to talk about the burial. Captain Bruce Lindsey, skipper of the Carl Vinson, told reporters he was unable to discuss it. Cameron Short, one of the crew of the Carl Vinson, told the Commercial-News of Danville, Illinois, that the crew had not been told anything about the burial. ‘All he knows is what he’s seen on the news,’ the newspaper reported.
The Pentagon did release a series of emails to the Associated Press. In one of them, Rear Admiral Charles Gaouette reported that the service followed ‘traditional procedures for Islamic burial’, and said none of the sailors on board had been permitted to observe the proceedings. But there was no indication of who washed and wrapped the body, or of which Arabic speaker conducted the service.
Within weeks of the raid, I had been told by two longtime consultants to Special Operations Command, who have access to current intelligence, that the funeral aboard the Carl Vinson didn’t take place. One consultant told me that bin Laden’s remains were photographed and identified after being flown back to Afghanistan. The consultant added: ‘At that point, the CIA took control of the body. The cover story was that it had been flown to the Carl Vinson.’ The second consultant agreed that there had been ‘no burial at sea’. He added that ‘the killing of bin Laden was political theatre designed to burnish Obama’s military credentials … The Seals should have expected the political grandstanding. It’s irresistible to a politician. Bin Laden became a working asset.’ Early this year, speaking again to the second consultant, I returned to the burial at sea. The consultant laughed and said: ‘You mean, he didn’t make it to the water?’
The retired official said there had been another complication: some members of the Seal team had bragged to colleagues and others that they had torn bin Laden’s body to pieces with rifle fire. The remains, including his head, which had only a few bullet holes in it, were thrown into a body bag and, during the helicopter flight back to Jalalabad, some body parts were tossed out over the Hindu Kush mountains – or so the Seals claimed. At the time, the retired official said, the Seals did not think their mission would be made public by Obama within a few hours: ‘If the president had gone ahead with the cover story, there would have been no need to have a funeral within hours of the killing. Once the cover story was blown, and the death was made public, the White House had a serious “Where’s the body?” problem. The world knew US forces had killed bin Laden in Abbottabad. Panic city. What to do? We need a “functional body” because we have to be able to say we identified bin Laden via a DNA analysis. It would be navy officers who came up with the “burial at sea” idea. Perfect. No body. Honourable burial following sharia law. Burial is made public in great detail, but Freedom of Information documents confirming the burial are denied for reasons of “national security”. It’s the classic unravelling of a poorly constructed cover story – it solves an immediate problem but, given the slightest inspection, there is no back-up support. There never was a plan, initially, to take the body to sea, and no burial of bin Laden at sea took place.’ The retired official said that if the Seals’ first accounts are to be believed, there wouldn’t have been much left of bin Laden to put into the sea in any case.
*
It was inevitable that the Obama administration’s lies, misstatements and betrayals would create a backlash. ‘We’ve had a four-year lapse in co-operation,’ the retired official said. ‘It’s taken that long for the Pakistanis to trust us again in the military-to-military counterterrorism relationship – while terrorism was rising all over the world … They felt Obama sold them down the river. They’re just now coming back because the threat from Isis, which is now showing up there, is a lot greater and the bin Laden event is far enough away to enable someone like General Durrani to come out and talk about it.’ Generals Pasha and Kayani have retired and both are reported to be under investigation for corruption during their time in office.
The Senate Intelligence Committee’s long-delayed report on CIA torture, released last December, documented repeated instances of official lying, and suggested that the CIA’s knowledge of bin Laden’s courier was sketchy at best and predated its use of waterboarding and other forms of torture. The report led to international headlines about brutality and waterboarding, along with gruesome details about rectal feeding tubes, ice baths and threats to rape or murder family members of detainees who were believed to be withholding information. Despite the bad publicity, the report was a victory for the CIA. Its major finding – that the use of torture didn’t lead to discovering the truth – had already been the subject of public debate for more than a decade. Another key finding – that the torture conducted was more brutal than Congress had been told – was risible, given the extent of public reporting and published exposés by former interrogators and retired CIA officers. The report depicted tortures that were obviously contrary to international law as violations of rules or ‘inappropriate activities’ or, in some cases, ‘management failures’. Whether the actions described constitute war crimes was not discussed, and the report did not suggest that any of the CIA interrogators or their superiors should be investigated for criminal activity. The agency faced no meaningful consequences as a result of the report.
The retired official told me that the CIA leadership had become experts in derailing serious threats from Congress: ‘They create something that is horrible but not that bad. Give them something that sounds terrible. “Oh my God, we were shoving food up a prisoner’s ass!” Meanwhile, they’re not telling the committee about murders, other war crimes, and secret prisons like we still have in Diego Garcia. The goal also was to stall it as long as possible, which they did.’
Getty Foundation - Keeping It Modern
The main theme of the committee’s 499-page executive summary is that the CIA lied systematically about the effectiveness of its torture programme in gaining intelligence that would stop future terrorist attacks in the US. The lies included some vital details about the uncovering of an al-Qaida operative called Abu Ahmed al-Kuwaiti, who was said to be the key al-Qaida courier, and the subsequent tracking of him to Abbottabad in early 2011. The agency’s alleged intelligence, patience and skill in finding al-Kuwaiti became legend after it was dramatised in Zero Dark Thirty.
The Senate report repeatedly raised questions about the quality and reliability of the CIA’s intelligence about al-Kuwaiti. In 2005 an internal CIA report on the hunt for bin Laden noted that ‘detainees provide few actionable leads, and we have to consider the possibility that they are creating fictitious characters to distract us or to absolve themselves of direct knowledge about bin Ladin [sic].’ A CIA cable a year later stated that ‘we have had no success in eliciting actionable intelligence on bin Laden’s location from any detainees.’ The report also highlighted several instances of CIA officers, including Panetta, making false statements to Congress and the public about the value of ‘enhanced interrogation techniques’ in the search for bin Laden’s couriers.
Obama today is not facing re-election as he was in the spring of 2011. His principled stand on behalf of the proposed nuclear agreement with Iran says much, as does his decision to operate without the support of the conservative Republicans in Congress. High-level lying nevertheless remains the modus operandi of US policy, along with secret prisons, drone attacks, Special Forces night raids, bypassing the chain of command, and cutting out those who might say no.
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Letters
Vol. 37 No. 11 · 4 June 2015
The allegations in Seymour M. Hersh’s article about the killing of bin Laden have received official denials and journalistic gasps similar to those that greeted his 1974 reporting on the CIA’s MH-CHAOS domestic spying programme and the revelations in his 1983 book The Price of Power about Henry Kissinger’s masterminding of the carpet-bombing of Cambodia and hiding it from the US Congress (LRB, 21 May). I suppose that’s no surprise. I’m curious to see whether the embarrassing admissions that followed and confirmed those stories arrive too. In the meantime the CIA has put out a variety of documents including a list of the books on bin Laden’s shelves. It turns out he preferred Bob Woodward to Seymour Hersh.
Colin Leonard
London NW2
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突然暴露された新説に全米震撼、ビンラディン暗殺はウソばかり?
2015年6月1日週プレNEWS
2015/5月10日、アルカイダの指導者オサマ・ビンラディンの暗殺作戦が「すべて茶番だった」という記事が、
英誌『ロンドン・レビュー・オブ・ブックス』(London review of books))に発表された。
執筆したのは、超一流の調査報道ジャーナリストであるシーモア・ハーシュだ(Seymour M. Hersh)。
■London review of books■
"The Killing of Osama bin Laden"
Seymour M. Hersh
ハーシュ(Hersh)は、
ベトナム戦争における米兵の虐殺を暴いた「ソンミ村虐殺事件」のスクープ記事でデビューし、
いきなりピュリツァー賞を受賞。
その後も、
大韓航空機撃墜事件、イスラエルの核兵器保有、イラクでの捕虜虐待事件などスクープを連発。
それゆえ、ホワイトハウスやペンタゴンは火消しに躍起となり、全米が揺れた。
オバマ政権がこれまで主張してきた暗殺作戦の公式な要点は以下の4つだ。
●2010年8月、ビンラディンと外部との連絡役(クーリエ)を米諜報機関が特定。
追跡の結果、その人物はパキスタンのアボタバードという街の、コンクリート塀で囲まれた邸宅に通っていると判明。
●地上と空から24時間体制で監視を続け、庭を散歩するビンラディンらしき長身の男の姿を確認。
●オバマ大統領は、
男がビンラディンであるという100%の確証がないまま暗殺作戦にゴーサインを出す。
◆2011年5月2日◆⇒米海軍特殊部隊SEALs(シールズ)の精鋭隊員たちは、
2機のステルスヘリでアフガンの前線基地からパキスタン領空に侵入し、隠れ家を急襲。
1機が着陸に失敗するアクシデントはあったが、銃撃戦の末、ビンラディンらしき男を殺害。
●SEALsは男の遺体と、大量の情報が入った電子機器を持ち帰った。
DNA鑑定によりビンラディンである事が確定し、オバマ大統領が記者会見で発表。
しかし、
👇ハーシュ(Hersh)はそのほとんどがウソだと主張している。
特に重要な点を時系列に沿って検証していこう。
➊ビンラディンの潜伏場所は、アメリカが割り出したのではない。
パキスタン軍情報機関であるISIの元高官がCIAと接触。
ビンラディンにかけられた懸賞金2500万ドルと引き換えに居場所を教えると申し出た。
ハーシュ(Hersh)の記事では、
「ISIの元高官」とだけ書かれているが、その正体はすでに判明しているという。
[ISIの元高官=a former senior Pakistani intelligence officer]
a former senior Pakistani intelligence officer
who betrayed the secret in return for much of the $25 million reward offered by the US
国際ジャーナリストの河合洋一郎が解説する。
「ISIの退役准将、ウスマン・ハリッドです。彼は作戦が決行される前に、秘密裏に家族と共にアメリカへ渡っています。そこで市民権と新しい身分証明書をもらい、現在はCIAのコンサルタントをしているようです。もちろん懸賞金ももらっています」
❷ビンラディンは潜伏していたのではなく、2006年にISIに身柄を拘束され、
パキスタン軍の重要施設が集中するアボタバードに軟禁されていた。
彼(ビンラディン)は難病を患っており、主治医がいたが、そこからDNAがアメリカ側に渡った。
つまり、アメリカは男がビンラディンであると知っていた。
これが本当だとすれば、
ビンラディンをアメリカに「売った」のは前出のハリッド個人ではなくISIという組織の判断だったことになる。
米当局のあるテロ対策担当者はこう解説する。
「当時、ビンラディンを殺したがっているのはアメリカだけではなかった。
アルカイダが戦略を転換し、後の『アラブの春』のような民族蜂起を画策していたため、パキスタンもその芽を早めに摘みたがっていた」
しかし、
パキスタンには、ビンラディンに直接手を下せない事情があったという。
「パキスタン軍がビンラディンを殺したりすれば、国内外のイスラム過激派が激怒し何が起こるかわかりません。
しかし、アメリカに殺させればその心配はない。復讐心に燃えるアメリカは居場所を教えれば必ずアクションを起こす――
彼らはそう考え、ハリッドに『裏切りを命じた』のでしょう」(前出・河合)
もちろん、再選を狙うオバマ大統領にとってもこれは渡りに船。
こうして両国の利害が一致した、という見方だ。
❸オバマ政権は、情報漏洩を恐れて暗殺作戦を事前にパキスタン側に知らせなかったと発表しているが、
実際は2011年1月に合意が結ばれていた。
作戦当日(2011/5/2)、ビンラディン邸の警備員たちは、ヘリの音が聞こえたら立ち去るように命令されていた。
SEALs隊員は、一緒に来ていたISIの将校に案内されて3階の部屋へ入り、無抵抗のビンラディンを撃った。
事前に作戦の情報共有がなされていたという点については、
軍事評論家の古是三春(ふるぜみつはる)も同意する。
「領空に侵入した米軍ヘリがパキスタン軍に迎撃されなかった事、
ビンラディンの潜伏集落が作戦決行前に停電した事。
これらの事は、パキスタン側の協力を仰がなければ不可能です」
❹当初の予定では、
「ビンラディンはアメリカの無人暗殺機が殺害した」というストーリーを1週間後に発表する
という事でアメリカとパキスタンは話をつけていた。ところが、
着陸に失敗したヘリの尾部が現場に残ってしまった事を理由にオバマ大統領はすぐに会見を開き、
急ごしらえの別のストーリーを発表。
ここでCIAの追跡、SEALsの銃撃戦といった“ウソ”が流布された。
作戦に参加したSEALs隊員が後に出版した本では、
すさまじい銃撃戦が繰り広げられた事になっているが、
ハーシュ(Hersh)の記事ではこれも全面的に否定されている。
元米陸軍大尉の飯柴智亮(いいしばともあき)は、
ハーシュ説の真偽には首をかしげながらも元軍人の“英雄本”の信憑性の危うさについてこう語る。
「米軍がムスリムのパキスタン人をこういう状況で信用するとは考えづらく、
一緒に作戦を決行したというのはほぼ間違いなくデマでしょう。
ただ、SEALs隊員の本も、すべて赤裸々に書けば機密に抵触して連邦法違反になるので、
30%から40%は事実を曲げて書いているはず。
それに、あれだけの秘密作戦となれば、現場の隊員は“末端要員”にすぎず、すべてを知っているわけではありません」
いずれにしても、ハーシュの記事の内容は、
「偉大なアメリカがビンラディンをやっつけた」というアメリカ国民の“常識”を根底から覆すものだ。
アメリカはパキスタンの誘いに乗り、無抵抗のビンラディンを特殊部隊に殺させておきながら、
パキスタンとの約束をホゴにして“ウソのストーリー”をばらまいた事になるのだから――。
週プレNEWS (取材/小峯隆生・世良光弘)
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■ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害■殺害日=2011/5/2
▼ウサーマ・ビン・ラーディン▼
アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンは、アメリカ合衆国政府によって、
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、
それ以来アメリカにとってビン・ラーディンを抹殺することが一つの大きな目標となった。
同国による大規模な捜索にもかかわらず拘束することができないまま10年近くが経過したが、
◆2011年5月2日(米国東部夏時間5月1日)、パキスタンにおいてアメリカ軍によりウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認され、
◆2001年以来続いてきた対テロ戦争は一つの節目を迎えることとなった。
複数のメディアが深夜の時間帯にもかかわらず、ビン・ラーディンが死亡したニュースを一斉に報道した。約一時間後、オバマ大統領がホワイトハウスから会見を行い、ウサーマ・ビン・ラーディンが同日、パキスタンの首都イスラマバードから約60km北東にある地方都市アボッターバードの潜伏先と見られていた豪邸で、アメリカ軍の作戦により殺害されたことを全国テレビ中継で公式発表した。
■経緯■
▼イスラマバードとアボッターバードの位置関係▼
2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、
アメリカ政府はアフガニスタンのターリバーン政権に対して首謀者であるウサーマ・ビン・ラーディンの身柄引き渡しを要求。
しかしターリバーン政権は要求を拒否し、同2001年10月7日にアフガン戦争が開始された。
ターリバーン政権は打倒されたが、ビン・ラーディンの行方は戦争開始以降わからなくなり、
このためアメリカ軍はアフガニスタンと隣国パキスタンとの国境地帯にある山岳などを捜索してきた。
しかし、ビン・ラーディンの行方は判明しなかった。
対テロ戦争を始めたアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権が2009年1月にオバマ政権に交代した後も、ビン・ラーディンの捜索は続き、
アメリカ中央情報局(CIA)がビン・ラーディンの連絡係を担う男性の動きを追う中で、
ビン・ラーディン配下の連絡係であり、グァンタナモ収容所に収容されている
ハリド・シェイク・モハメドの元部下の身元特定に成功したことが、捕捉の端緒となった。
2010年8月頃、アボッターバードに居住するこの連絡係とその兄弟の行動分析から、
CIAは2010年9月には同市郊外の厳重に警護された邸宅に、
ある「重要な人物」が潜伏していると推定し、
さらに2011年2月にはビン・ラーディンがここに潜伏しているとの証拠を得るに至った。
これと相前後して、情報を得たレオン・パネッタCIA長官は、
統合特殊作戦コマンド司令官であったウィリアム・マクレイヴン海軍中将に連絡を取った。
アボッターバードはパキスタン陸軍の拠点であり、ビン・ラーディンの住居はパキスタンの陸軍士官学校とは至近距離にあったことから、
BBCはパキスタン軍統合情報局(ISI)が
ビン・ラーディンの身柄隠匿に何らかの関係があったのではないか、と報じている。
この情報はオバマ大統領にも報告された。
これはアメリカ政府内でもごく限られた人間のみが知りうる極秘情報として取り扱われた。
その後も調査は続き、
◆2011年3月中旬から4月28日にかけて、担当者とオバマ大統領のみが出席した国家安全保障会議が5-6回開催される。
◆オバマは5回目の会議翌日の2011/4月29日に作戦決行の許可を出した。
◆作戦名は「Operation Neptune Spear(海神の槍作戦)」とされ、
◆作戦の中ではビン・ラーディンの名は暗号名「ジェロニモ」に置き換えられた。
■潜伏先■
ビン・ラーディンが潜んでいた邸宅は3階建ての豪邸で、2005年頃に完成した。
敷地の周辺は3メートルから5.5メートルもの高さの有刺鉄線に覆われた塀に囲まれており、
豪邸に行くための通路には二重ゲートとなっているほか、入り口には見張りがつけられ、
外部から内部の様子を容易に見えないようにする工夫がなされていた。
周辺の家の約8倍もの広さを持ち、その価値は100万ドルを越えるとも言われる。
なお、邸宅はイスラム過激派に聖地化されることのないよう、
2012年2月25日より取り壊しが開始された。
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■London review of books■
■The Killing of Osama bin Laden■2015/5/21
▼Seymour M. Hersh▼
Vol.37 No.10 · 21 May 2015
pages 3-12・10356 words
It’s been four years since a group of US Navy Seals assassinated Osama bin Laden in a night raid on a high-walled compound in Abbottabad, Pakistan. The killing was the high point of Obama’s first term, and a major factor in his re-election. The White House still maintains that the mission was an all-American affair, and that the senior generals of Pakistan’s army and Inter-Services Intelligence agency (ISI) were not told of the raid in advance. This is false, as are many other elements of the Obama administration’s account. The White House’s story might have been written by Lewis Carroll: would bin Laden, target of a massive international manhunt, really decide that a resort town forty miles from Islamabad would be the safest place to live and command al-Qaida’s operations? He was hiding in the open. So America said.
The most blatant lie was that Pakistan’s two most senior military leaders – General Ashfaq Parvez Kayani, chief of the army staff, and General Ahmed Shuja Pasha, director general of the ISI – were never informed of the US mission. This remains the White House position despite an array of reports that have raised questions, including one by Carlotta Gall in the New York Times Magazine of 19 March 2014. Gall, who spent 12 years as the Times correspondent in Afghanistan, wrote that she’d been told by a ‘Pakistani official’ that Pasha had known before the raid that bin Laden was in Abbottabad. The story was denied by US and Pakistani officials, and went no further. In his book Pakistan: Before and after Osama (2012), Imtiaz Gul, executive director of the Centre for Research and Security Studies, a think tank in Islamabad, wrote that he’d spoken to four undercover intelligence officers who – reflecting a widely held local view – asserted that the Pakistani military must have had knowledge of the operation. The issue was raised again in February, when a retired general, Asad Durrani, who was head of the ISI in the early 1990s, told an al-Jazeera interviewer that it was ‘quite possible’ that the senior officers of the ISI did not know where bin Laden had been hiding, ‘but it was more probable that they did [know]. And the idea was that, at the right time, his location would be revealed. And the right time would have been when you can get the necessary quid pro quo – if you have someone like Osama bin Laden, you are not going to simply hand him over to the United States.’
This spring I contacted Durrani and told him in detail what I had learned about the bin Laden assault from American sources: that bin Laden had been a prisoner of the ISI at the Abbottabad compound since 2006; that Kayani and Pasha knew of the raid in advance and had made sure that the two helicopters delivering the Seals to Abbottabad could cross Pakistani airspace without triggering any alarms; that the CIA did not learn of bin Laden’s whereabouts by tracking his couriers, as the White House has claimed since May 2011, but from a former senior Pakistani intelligence officer who betrayed the secret in return for much of the $25 million reward offered by the US, and that, while Obama did order the raid and the Seal team did carry it out, many other aspects of the administration’s account were false.
NYU Press - Plucked - Rebecca M. Herzig
‘When your version comes out – if you do it – people in Pakistan will be tremendously grateful,’ Durrani told me. ‘For a long time people have stopped trusting what comes out about bin Laden from the official mouths. There will be some negative political comment and some anger, but people like to be told the truth, and what you’ve told me is essentially what I have heard from former colleagues who have been on a fact-finding mission since this episode.’ As a former ISI head, he said, he had been told shortly after the raid by ‘people in the “strategic community” who would know’ that there had been an informant who had alerted the US to bin Laden’s presence in Abbottabad, and that after his killing the US’s betrayed promises left Kayani and Pasha exposed.
The major US source for the account that follows is a retired senior intelligence official who was knowledgeable about the initial intelligence about bin Laden’s presence in Abbottabad. He also was privy to many aspects of the Seals’ training for the raid, and to the various after-action reports. Two other US sources, who had access to corroborating information, have been longtime consultants to the Special Operations Command. I also received information from inside Pakistan about widespread dismay among the senior ISI and military leadership – echoed later by Durrani – over Obama’s decision to go public immediately with news of bin Laden’s death. The White House did not respond to requests for comment.
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It began with a walk-in. In August 2010 a former senior Pakistani intelligence officer approached Jonathan Bank, then the CIA’s station chief at the US embassy in Islamabad. He offered to tell the CIA where to find bin Laden in return for the reward that Washington had offered in 2001. Walk-ins are assumed by the CIA to be unreliable, and the response from the agency’s headquarters was to fly in a polygraph team. The walk-in passed the test. ‘So now we’ve got a lead on bin Laden living in a compound in Abbottabad, but how do we really know who it is?’ was the CIA’s worry at the time, the retired senior US intelligence official told me.
The US initially kept what it knew from the Pakistanis. ‘The fear was that if the existence of the source was made known, the Pakistanis themselves would move bin Laden to another location. So only a very small number of people were read into the source and his story,’ the retired official said. ‘The CIA’s first goal was to check out the quality of the informant’s information.’ The compound was put under satellite surveillance. The CIA rented a house in Abbottabad to use as a forward observation base and staffed it with Pakistani employees and foreign nationals. Later on, the base would serve as a contact point with the ISI; it attracted little attention because Abbottabad is a holiday spot full of houses rented on short leases. A psychological profile of the informant was prepared. (The informant and his family were smuggled out of Pakistan and relocated in the Washington area. He is now a consultant for the CIA.)
‘By October the military and intelligence community were discussing the possible military options. Do we drop a bunker buster on the compound or take him out with a drone strike? Perhaps send someone to kill him, single assassin style? But then we’d have no proof of who he was,’ the retired official said. ‘We could see some guy is walking around at night, but we have no intercepts because there’s no commo coming from the compound.’
In October, Obama was briefed on the intelligence. His response was cautious, the retired official said. ‘It just made no sense that bin Laden was living in Abbottabad. It was just too crazy. The president’s position was emphatic: “Don’t talk to me about this any more unless you have proof that it really is bin Laden.”’ The immediate goal of the CIA leadership and the Joint Special Operations Command was to get Obama’s support. They believed they would get this if they got DNA evidence, and if they could assure him that a night assault of the compound would carry no risk. The only way to accomplish both things, the retired official said, ‘was to get the Pakistanis on board’.
During the late autumn of 2010, the US continued to keep quiet about the walk-in, and Kayani and Pasha continued to insist to their American counterparts that they had no information about bin Laden’s whereabouts. ‘The next step was to figure out how to ease Kayani and Pasha into it – to tell them that we’ve got intelligence showing that there is a high-value target in the compound, and to ask them what they know about the target,’ the retired official said. ‘The compound was not an armed enclave – no machine guns around, because it was under ISI control.’ The walk-in had told the US that bin Laden had lived undetected from 2001 to 2006 with some of his wives and children in the Hindu Kush mountains, and that ‘the ISI got to him by paying some of the local tribal people to betray him.’ (Reports after the raid placed him elsewhere in Pakistan during this period.) Bank was also told by the walk-in that bin Laden was very ill, and that early on in his confinement at Abbottabad, the ISI had ordered Amir Aziz, a doctor and a major in the Pakistani army, to move nearby to provide treatment. ‘The truth is that bin Laden was an invalid, but we cannot say that,’ the retired official said. ‘“You mean you guys shot a cripple? Who was about to grab his AK-47?”’
‘It didn’t take long to get the co-operation we needed, because the Pakistanis wanted to ensure the continued release of American military aid, a good percentage of which was anti-terrorism funding that finances personal security, such as bullet-proof limousines and security guards and housing for the ISI leadership,’ the retired official said. He added that there were also under-the-table personal ‘incentives’ that were financed by off-the-books Pentagon contingency funds. ‘The intelligence community knew what the Pakistanis needed to agree – there was the carrot. And they chose the carrot. It was a win-win. We also did a little blackmail. We told them we would leak the fact that you’ve got bin Laden in your backyard. We knew their friends and enemies’ – the Taliban and jihadist groups in Pakistan and Afghanistan – ‘would not like it.’
A worrying factor at this early point, according to the retired official, was Saudi Arabia, which had been financing bin Laden’s upkeep since his seizure by the Pakistanis. ‘The Saudis didn’t want bin Laden’s presence revealed to us because he was a Saudi, and so they told the Pakistanis to keep him out of the picture. The Saudis feared if we knew we would pressure the Pakistanis to let bin Laden start talking to us about what the Saudis had been doing with al-Qaida. And they were dropping money – lots of it. The Pakistanis, in turn, were concerned that the Saudis might spill the beans about their control of bin Laden. The fear was that if the US found out about bin Laden from Riyadh, all hell would break out. The Americans learning about bin Laden’s imprisonment from a walk-in was not the worst thing.’
Despite their constant public feuding, American and Pakistani military and intelligence services have worked together closely for decades on counterterrorism in South Asia. Both services often find it useful to engage in public feuds ‘to cover their asses’, as the retired official put it, but they continually share intelligence used for drone attacks, and co-operate on covert operations. At the same time, it’s understood in Washington that elements of the ISI believe that maintaining a relationship with the Taliban leadership inside Afghanistan is essential to national security. The ISI’s strategic aim is to balance Indian influence in Kabul; the Taliban is also seen in Pakistan as a source of jihadist shock troops who would back Pakistan against India in a confrontation over Kashmir.
Adding to the tension was the Pakistani nuclear arsenal, often depicted in the Western press as an ‘Islamic bomb’ that might be transferred by Pakistan to an embattled nation in the Middle East in the event of a crisis with Israel. The US looked the other way when Pakistan began building its weapons system in the 1970s and it’s widely believed it now has more than a hundred nuclear warheads. It’s understood in Washington that US security depends on the maintenance of strong military and intelligence ties to Pakistan. The belief is mirrored in Pakistan.
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‘The Pakistani army sees itself as family,’ the retired official said. ‘Officers call soldiers their sons and all officers are “brothers”. The attitude is different in the American military. The senior Pakistani officers believe they are the elite and have got to look out for all of the people, as keepers of the flame against Muslim fundamentalism. The Pakistanis also know that their trump card against aggression from India is a strong relationship with the United States. They will never cut their person-to-person ties with us.’
Like all CIA station chiefs, Bank was working undercover, but that ended in early December 2010 when he was publicly accused of murder in a criminal complaint filed in Islamabad by Karim Khan, a Pakistani journalist whose son and brother, according to local news reports, had been killed by a US drone strike. Allowing Bank to be named was a violation of diplomatic protocol on the part of the Pakistani authorities, and it brought a wave of unwanted publicity. Bank was ordered to leave Pakistan by the CIA, whose officials subsequently told the Associated Press he was transferred because of concerns for his safety. The New York Times reported that there was ‘strong suspicion’ the ISI had played a role in leaking Bank’s name to Khan. There was speculation that he was outed as payback for the publication in a New York lawsuit a month earlier of the names of ISI chiefs in connection with the Mumbai terrorist attacks of 2008. But there was a collateral reason, the retired official said, for the CIA’s willingness to send Bank back to America. The Pakistanis needed cover in case their co-operation with the Americans in getting rid of bin Laden became known. The Pakistanis could say: “You’re talking about me? We just kicked out your station chief.”’
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The bin Laden compound was less than two miles from the Pakistan Military Academy, and a Pakistani army combat battalion headquarters was another mile or so away. Abbottabad is less than 15 minutes by helicopter from Tarbela Ghazi, an important base for ISI covert operations and the facility where those who guard Pakistan’s nuclear weapons arsenal are trained. ‘Ghazi is why the ISI put bin Laden in Abbottabad in the first place,’ the retired official said, ‘to keep him under constant supervision.’
The risks for Obama were high at this early stage, especially because there was a troubling precedent: the failed 1980 attempt to rescue the American hostages in Tehran. That failure was a factor in Jimmy Carter’s loss to Ronald Reagan. Obama’s worries were realistic, the retired official said. ‘Was bin Laden ever there? Was the whole story a product of Pakistani deception? What about political blowback in case of failure?’ After all, as the retired official said, ‘If the mission fails, Obama’s just a black Jimmy Carter and it’s all over for re-election.’
Obama was anxious for reassurance that the US was going to get the right man. The proof was to come in the form of bin Laden’s DNA. The planners turned for help to Kayani and Pasha, who asked Aziz to obtain the specimens. Soon after the raid the press found out that Aziz had been living in a house near the bin Laden compound: local reporters discovered his name in Urdu on a plate on the door. Pakistani officials denied that Aziz had any connection to bin Laden, but the retired official told me that Aziz had been rewarded with a share of the $25 million reward the US had put up because the DNA sample had showed conclusively that it was bin Laden in Abbottabad. (In his subsequent testimony to a Pakistani commission investigating the bin Laden raid, Aziz said that he had witnessed the attack on Abbottabad, but had no knowledge of who was living in the compound and had been ordered by a superior officer to stay away from the scene.)
Bargaining continued over the way the mission would be executed. ‘Kayani eventually tells us yes, but he says you can’t have a big strike force. You have to come in lean and mean. And you have to kill him, or there is no deal,’ the retired official said. The agreement was struck by the end of January 2011, and Joint Special Operations Command prepared a list of questions to be answered by the Pakistanis: ‘How can we be assured of no outside intervention? What are the defences inside the compound and its exact dimensions? Where are bin Laden’s rooms and exactly how big are they? How many steps in the stairway? Where are the doors to his rooms, and are they reinforced with steel? How thick?’ The Pakistanis agreed to permit a four-man American cell – a Navy Seal, a CIA case officer and two communications specialists – to set up a liaison office at Tarbela Ghazi for the coming assault. By then, the military had constructed a mock-up of the compound in Abbottabad at a secret former nuclear test site in Nevada, and an elite Seal team had begun rehearsing for the attack.
The US had begun to cut back on aid to Pakistan – to ‘turn off the spigot’, in the retired official’s words. The provision of 18 new F-16 fighter aircraft was delayed, and under-the-table cash payments to the senior leaders were suspended. In April 2011 Pasha met the CIA director, Leon Panetta, at agency headquarters. ‘Pasha got a commitment that the United States would turn the money back on, and we got a guarantee that there would be no Pakistani opposition during the mission,’ the retired official said. ‘Pasha also insisted that Washington stop complaining about Pakistan’s lack of co-operation with the American war on terrorism.’ At one point that spring, Pasha offered the Americans a blunt explanation of the reason Pakistan kept bin Laden’s capture a secret, and why it was imperative for the ISI role to remain secret: ‘We needed a hostage to keep tabs on al-Qaida and the Taliban,’ Pasha said, according to the retired official. ‘The ISI was using bin Laden as leverage against Taliban and al-Qaida activities inside Afghanistan and Pakistan. They let the Taliban and al-Qaida leadership know that if they ran operations that clashed with the interests of the ISI, they would turn bin Laden over to us. So if it became known that the Pakistanis had worked with us to get bin Laden at Abbottabad, there would be hell to pay.’
At one of his meetings with Panetta, according to the retired official and a source within the CIA, Pasha was asked by a senior CIA official whether he saw himself as acting in essence as an agent for al-Qaida and the Taliban. ‘He answered no, but said the ISI needed to have some control.’ The message, as the CIA saw it, according to the retired official, was that Kayani and Pasha viewed bin Laden ‘as a resource, and they were more interested in their [own] survival than they were in the United States’.
A Pakistani with close ties to the senior leadership of the ISI told me that ‘there was a deal with your top guys. We were very reluctant, but it had to be done – not because of personal enrichment, but because all of the American aid programmes would be cut off. Your guys said we will starve you out if you don’t do it, and the okay was given while Pasha was in Washington. The deal was not only to keep the taps open, but Pasha was told there would be more goodies for us.’ The Pakistani said that Pasha’s visit also resulted in a commitment from the US to give Pakistan ‘a freer hand’ in Afghanistan as it began its military draw-down there. ‘And so our top dogs justified the deal by saying this is for our country.’
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Pasha and Kayani were responsible for ensuring that Pakistan’s army and air defence command would not track or engage with the US helicopters used on the mission. The American cell at Tarbela Ghazi was charged with co-ordinating communications between the ISI, the senior US officers at their command post in Afghanistan, and the two Black Hawk helicopters; the goal was to ensure that no stray Pakistani fighter plane on border patrol spotted the intruders and took action to stop them. The initial plan said that news of the raid shouldn’t be announced straightaway. All units in the Joint Special Operations Command operate under stringent secrecy and the JSOC leadership believed, as did Kayani and Pasha, that the killing of bin Laden would not be made public for as long as seven days, maybe longer. Then a carefully constructed cover story would be issued: Obama would announce that DNA analysis confirmed that bin Laden had been killed in a drone raid in the Hindu Kush, on Afghanistan’s side of the border. The Americans who planned the mission assured Kayani and Pasha that their co-operation would never be made public. It was understood by all that if the Pakistani role became known, there would be violent protests – bin Laden was considered a hero by many Pakistanis – and Pasha and Kayani and their families would be in danger, and the Pakistani army publicly disgraced.
It was clear to all by this point, the retired official said, that bin Laden would not survive: ‘Pasha told us at a meeting in April that he could not risk leaving bin Laden in the compound now that we know he’s there. Too many people in the Pakistani chain of command know about the mission. He and Kayani had to tell the whole story to the directors of the air defence command and to a few local commanders.
‘Of course the guys knew the target was bin Laden and he was there under Pakistani control,’ the retired official said. ‘Otherwise, they would not have done the mission without air cover. It was clearly and absolutely a premeditated murder.’ A former Seal commander, who has led and participated in dozens of similar missions over the past decade, assured me that ‘we were not going to keep bin Laden alive – to allow the terrorist to live. By law, we know what we’re doing inside Pakistan is a homicide. We’ve come to grips with that. Each one of us, when we do these missions, say to ourselves, “Let’s face it. We’re going to commit a murder.”’ The White House’s initial account claimed that bin Laden had been brandishing a weapon; the story was aimed at deflecting those who questioned the legality of the US administration’s targeted assassination programme. The US has consistently maintained, despite widely reported remarks by people involved with the mission, that bin Laden would have been taken alive if he had immediately surrendered.
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At the Abbottabad compound ISI guards were posted around the clock to keep watch over bin Laden and his wives and children. They were under orders to leave as soon as they heard the rotors of the US helicopters. The town was dark: the electricity supply had been cut off on the orders of the ISI hours before the raid began. One of the Black Hawks crashed inside the walls of the compound, injuring many on board. ‘The guys knew the TOT [time on target] had to be tight because they would wake up the whole town going in,’ the retired official said. The cockpit of the crashed Black Hawk, with its communication and navigational gear, had to be destroyed by concussion grenades, and this would create a series of explosions and a fire visible for miles. Two Chinook helicopters had flown from Afghanistan to a nearby Pakistani intelligence base to provide logistical support, and one of them was immediately dispatched to Abbottabad. But because the helicopter had been equipped with a bladder loaded with extra fuel for the two Black Hawks, it first had to be reconfigured as a troop carrier. The crash of the Black Hawk and the need to fly in a replacement were nerve-wracking and time-consuming setbacks, but the Seals continued with their mission. There was no firefight as they moved into the compound; the ISI guards had gone. ‘Everyone in Pakistan has a gun and high-profile, wealthy folks like those who live in Abbottabad have armed bodyguards, and yet there were no weapons in the compound,’ the retired official pointed out. Had there been any opposition, the team would have been highly vulnerable. Instead, the retired official said, an ISI liaison officer flying with the Seals guided them into the darkened house and up a staircase to bin Laden’s quarters. The Seals had been warned by the Pakistanis that heavy steel doors blocked the stairwell on the first and second-floor landings; bin Laden’s rooms were on the third floor. The Seal squad used explosives to blow the doors open, without injuring anyone. One of bin Laden’s wives was screaming hysterically and a bullet – perhaps a stray round – struck her knee. Aside from those that hit bin Laden, no other shots were fired. (The Obama administration’s account would hold otherwise.)
‘They knew where the target was – third floor, second door on the right,’ the retired official said. ‘Go straight there. Osama was cowering and retreated into the bedroom. Two shooters followed him and opened up. Very simple, very straightforward, very professional hit.’ Some of the Seals were appalled later at the White House’s initial insistence that they had shot bin Laden in self-defence, the retired official said. ‘Six of the Seals’ finest, most experienced NCOs, faced with an unarmed elderly civilian, had to kill him in self-defence? The house was shabby and bin Laden was living in a cell with bars on the window and barbed wire on the roof. The rules of engagement were that if bin Laden put up any opposition they were authorised to take lethal action. But if they suspected he might have some means of opposition, like an explosive vest under his robe, they could also kill him. So here’s this guy in a mystery robe and they shot him. It’s not because he was reaching for a weapon. The rules gave them absolute authority to kill the guy.’ The later White House claim that only one or two bullets were fired into his head was ‘bullshit’, the retired official said. ‘The squad came through the door and obliterated him. As the Seals say, “We kicked his ass and took his gas.”’
After they killed bin Laden, ‘the Seals were just there, some with physical injuries from the crash, waiting for the relief chopper,’ the retired official said. ‘Twenty tense minutes. The Black Hawk is still burning. There are no city lights. No electricity. No police. No fire trucks. They have no prisoners.’ Bin Laden’s wives and children were left for the ISI to interrogate and relocate. ‘Despite all the talk,’ the retired official continued, there were ‘no garbage bags full of computers and storage devices. The guys just stuffed some books and papers they found in his room in their backpacks. The Seals weren’t there because they thought bin Laden was running a command centre for al-Qaida operations, as the White House would later tell the media. And they were not intelligence experts gathering information inside that house.’
On a normal assault mission, the retired official said, there would be no waiting around if a chopper went down. ‘The Seals would have finished the mission, thrown off their guns and gear, and jammed into the remaining Black Hawk and di-di-maued’ – Vietnamese slang for leaving in a rush – ‘out of there, with guys hanging out of the doors. They would not have blown the chopper – no commo gear is worth a dozen lives – unless they knew they were safe. Instead they stood around outside the compound, waiting for the bus to arrive.’ Pasha and Kayani had delivered on all their promises.
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The backroom argument inside the White House began as soon as it was clear that the mission had succeeded. Bin Laden’s body was presumed to be on its way to Afghanistan. Should Obama stand by the agreement with Kayani and Pasha and pretend a week or so later that bin Laden had been killed in a drone attack in the mountains, or should he go public immediately? The downed helicopter made it easy for Obama’s political advisers to urge the latter plan. The explosion and fireball would be impossible to hide, and word of what had happened was bound to leak. Obama had to ‘get out in front of the story’ before someone in the Pentagon did: waiting would diminish the political impact.
Not everyone agreed. Robert Gates, the secretary of defence, was the most outspoken of those who insisted that the agreements with Pakistan had to be honoured. In his memoir, Duty, Gates did not mask his anger:
Before we broke up and the president headed upstairs to tell the American people what had just happened, I reminded everyone that the techniques, tactics and procedures the Seals had used in the bin Laden operation were used every night in Afghanistan … it was therefore essential that we agree not to release any operational details of the raid. That we killed him, I said, is all we needed to say. Everybody in that room agreed to keep mum on details. That commitment lasted about five hours. The initial leaks came from the White House and CIA. They just couldn’t wait to brag and to claim credit. The facts were often wrong … Nonetheless the information just kept pouring out. I was outraged and at one point, told [the national security adviser, Tom] Donilon, ‘Why doesn’t everybody just shut the fuck up?’ To no avail.
Obama’s speech was put together in a rush, the retired official said, and was viewed by his advisers as a political document, not a message that needed to be submitted for clearance to the national security bureaucracy. This series of self-serving and inaccurate statements would create chaos in the weeks following. Obama said that his administration had discovered that bin Laden was in Pakistan through ‘a possible lead’ the previous August; to many in the CIA the statement suggested a specific event, such as a walk-in. The remark led to a new cover story claiming that the CIA’s brilliant analysts had unmasked a courier network handling bin Laden’s continuing flow of operational orders to al-Qaida. Obama also praised ‘a small team of Americans’ for their care in avoiding civilian deaths and said: ‘After a firefight, they killed Osama bin Laden and took custody of his body.’ Two more details now had to be supplied for the cover story: a description of the firefight that never happened, and a story about what happened to the corpse. Obama went on to praise the Pakistanis: ‘It’s important to note that our counterterrorism co-operation with Pakistan helped lead us to bin Laden and the compound where he was hiding.’ That statement risked exposing Kayani and Pasha. The White House’s solution was to ignore what Obama had said and order anyone talking to the press to insist that the Pakistanis had played no role in killing bin Laden. Obama left the clear impression that he and his advisers hadn’t known for sure that bin Laden was in Abbottabad, but only had information ‘about the possibility’. This led first to the story that the Seals had determined they’d killed the right man by having a six-foot-tall Seal lie next to the corpse for comparison (bin Laden was known to be six foot four); and then to the claim that a DNA test had been performed on the corpse and demonstrated conclusively that the Seals had killed bin Laden. But, according to the retired official, it wasn’t clear from the Seals’ early reports whether all of bin Laden’s body, or any of it, made it back to Afghanistan.
Gates wasn’t the only official who was distressed by Obama’s decision to speak without clearing his remarks in advance, the retired official said, ‘but he was the only one protesting. Obama didn’t just double-cross Gates, he double-crossed everyone. This was not the fog of war. The fact that there was an agreement with the Pakistanis and no contingency analysis of what was to be disclosed if something went wrong – that wasn’t even discussed. And once it went wrong, they had to make up a new cover story on the fly.’ There was a legitimate reason for some deception: the role of the Pakistani walk-in had to be protected.
The White House press corps was told in a briefing shortly after Obama’s announcement that the death of bin Laden was ‘the culmination of years of careful and highly advanced intelligence work’ that focused on tracking a group of couriers, including one who was known to be close to bin Laden. Reporters were told that a team of specially assembled CIA and National Security Agency analysts had traced the courier to a highly secure million-dollar compound in Abbottabad. After months of observation, the American intelligence community had ‘high confidence’ that a high-value target was living in the compound, and it was ‘assessed that there was a strong probability that [it] was Osama bin Laden’. The US assault team ran into a firefight on entering the compound and three adult males – two of them believed to be the couriers – were slain, along with bin Laden. Asked if bin Laden had defended himself, one of the briefers said yes: ‘He did resist the assault force. And he was killed in a firefight.’
The next day John Brennan, then Obama’s senior adviser for counterterrorism, had the task of talking up Obama’s valour while trying to smooth over the misstatements in his speech. He provided a more detailed but equally misleading account of the raid and its planning. Speaking on the record, which he rarely does, Brennan said that the mission was carried out by a group of Navy Seals who had been instructed to take bin Laden alive, if possible. He said the US had no information suggesting that anyone in the Pakistani government or military knew bin Laden’s whereabouts: ‘We didn’t contact the Pakistanis until after all of our people, all of our aircraft were out of Pakistani airspace.’ He emphasised the courage of Obama’s decision to order the strike, and said that the White House had no information ‘that confirmed that bin Laden was at the compound’ before the raid began. Obama, he said, ‘made what I believe was one of the gutsiest calls of any president in recent memory’. Brennan increased the number killed by the Seals inside the compound to five: bin Laden, a courier, his brother, a bin Laden son, and one of the women said to be shielding bin Laden.
Asked whether bin Laden had fired on the Seals, as some reporters had been told, Brennan repeated what would become a White House mantra: ‘He was engaged in a firefight with those that entered the area of the house he was in. And whether or not he got off any rounds, I quite frankly don’t know … Here is bin Laden, who has been calling for these attacks … living in an area that is far removed from the front, hiding behind women who were put in front of him as a shield … [It] just speaks to I think the nature of the individual he was.’
Gates also objected to the idea, pushed by Brennan and Leon Panetta, that US intelligence had learned of bin Laden’s whereabouts from information acquired by waterboarding and other forms of torture. ‘All of this is going on as the Seals are flying home from their mission. The agency guys know the whole story,’ the retired official said. ‘It was a group of annuitants who did it.’ (Annuitants are retired CIA officers who remain active on contract.) ‘They had been called in by some of the mission planners in the agency to help with the cover story. So the old-timers come in and say why not admit that we got some of the information about bin Laden from enhanced interrogation?’ At the time, there was still talk in Washington about the possible prosecution of CIA agents who had conducted torture.
‘Gates told them this was not going to work,’ the retired official said. ‘He was never on the team. He knew at the eleventh hour of his career not to be a party to this nonsense. But State, the agency and the Pentagon had bought in on the cover story. None of the Seals thought that Obama was going to get on national TV and announce the raid. The Special Forces command was apoplectic. They prided themselves on keeping operational security.’ There was fear in Special Operations, the retired official said, that ‘if the true story of the missions leaked out, the White House bureaucracy was going to blame it on the Seals.’
The White House’s solution was to silence the Seals. On 5 May, every member of the Seal hit team – they had returned to their base in southern Virginia – and some members of the Joint Special Operations Command leadership were presented with a nondisclosure form drafted by the White House’s legal office; it promised civil penalties and a lawsuit for anyone who discussed the mission, in public or private. ‘The Seals were not happy,’ the retired official said. But most of them kept quiet, as did Admiral William McRaven, who was then in charge of JSOC. ‘McRaven was apoplectic. He knew he was fucked by the White House, but he’s a dyed-in-the-wool Seal, and not then a political operator, and he knew there’s no glory in blowing the whistle on the president. When Obama went public with bin Laden’s death, everyone had to scramble around for a new story that made sense, and the planners were stuck holding the bag.’
Within days, some of the early exaggerations and distortions had become obvious and the Pentagon issued a series of clarifying statements. No, bin Laden was not armed when he was shot and killed. And no, bin Laden did not use one of his wives as a shield. The press by and large accepted the explanation that the errors were the inevitable by-product of the White House’s desire to accommodate reporters frantic for details of the mission.
One lie that has endured is that the Seals had to fight their way to their target. Only two Seals have made any public statement: No Easy Day, a first-hand account of the raid by Matt Bissonnette, was published in September 2012; and two years later Rob O’Neill was interviewed by Fox News. Both men had resigned from the navy; both had fired at bin Laden. Their accounts contradicted each other on many details, but their stories generally supported the White House version, especially when it came to the need to kill or be killed as the Seals fought their way to bin Laden. O’Neill even told Fox News that he and his fellow Seals thought ‘We were going to die.’ ‘The more we trained on it, the more we realised … this is going to be a one-way mission.’
But the retired official told me that in their initial debriefings the Seals made no mention of a firefight, or indeed of any opposition. The drama and danger portrayed by Bissonnette and O’Neill met a deep-seated need, the retired official said: ‘Seals cannot live with the fact that they killed bin Laden totally unopposed, and so there has to be an account of their courage in the face of danger. The guys are going to sit around the bar and say it was an easy day? That’s not going to happen.’
There was another reason to claim there had been a firefight inside the compound, the retired official said: to avoid the inevitable question that would arise from an uncontested assault. Where were bin Laden’s guards? Surely, the most sought-after terrorist in the world would have around-the-clock protection. ‘And one of those killed had to be the courier, because he didn’t exist and we couldn’t produce him. The Pakistanis had no choice but to play along with it.’ (Two days after the raid, Reuters published photographs of three dead men that it said it had purchased from an ISI official. Two of the men were later identified by an ISI spokesman as being the alleged courier and his brother.)
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Five days after the raid the Pentagon press corps was provided with a series of videotapes that were said by US officials to have been taken from a large collection the Seals had removed from the compound, along with as many as 15 computers. Snippets from one of the videos showed a solitary bin Laden looking wan and wrapped in a blanket, watching what appeared to be a video of himself on television. An unnamed official told reporters that the raid produced a ‘treasure trove … the single largest collection of senior terrorist materials ever’, which would provide vital insights into al-Qaida’s plans. The official said the material showed that bin Laden ‘remained an active leader in al-Qaida, providing strategic, operational and tactical instructions to the group … He was far from a figurehead [and] continued to direct even tactical details of the group’s management and to encourage plotting’ from what was described as a command-and-control centre in Abbottabad. ‘He was an active player, making the recent operation even more essential for our nation’s security,’ the official said. The information was so vital, he added, that the administration was setting up an inter-agency task force to process it: ‘He was not simply someone who was penning al-Qaida strategy. He was throwing operational ideas out there and he was also specifically directing other al-Qaida members.’
These claims were fabrications: there wasn’t much activity for bin Laden to exercise command and control over. The retired intelligence official said that the CIA’s internal reporting shows that since bin Laden moved to Abbottabad in 2006 only a handful of terrorist attacks could be linked to the remnants of bin Laden’s al-Qaida. ‘We were told at first,’ the retired official said, ‘that the Seals produced garbage bags of stuff and that the community is generating daily intelligence reports out of this stuff. And then we were told that the community is gathering everything together and needs to translate it. But nothing has come of it. Every single thing they have created turns out not to be true. It’s a great hoax – like the Piltdown man.’ The retired official said that most of the materials from Abbottabad were turned over to the US by the Pakistanis, who later razed the building. The ISI took responsibility for the wives and children of bin Laden, none of whom was made available to the US for questioning.
‘Why create the treasure trove story?’ the retired official said. ‘The White House had to give the impression that bin Laden was still operationally important. Otherwise, why kill him? A cover story was created – that there was a network of couriers coming and going with memory sticks and instructions. All to show that bin Laden remained important.’
In July 2011, the Washington Post published what purported to be a summary of some of these materials. The story’s contradictions were glaring. It said the documents had resulted in more than four hundred intelligence reports within six weeks; it warned of unspecified al-Qaida plots; and it mentioned arrests of suspects ‘who are named or described in emails that bin Laden received’. The Post didn’t identify the suspects or reconcile that detail with the administration’s previous assertions that the Abbottabad compound had no internet connection. Despite their claims that the documents had produced hundreds of reports, the Post also quoted officials saying that their main value wasn’t the actionable intelligence they contained, but that they enabled ‘analysts to construct a more comprehensive portrait of al-Qaida’.
In May 2012, the Combating Terrorism Centre at West Point, a private research group, released translations it had made under a federal government contract of 175 pages of bin Laden documents. Reporters found none of the drama that had been touted in the days after the raid. Patrick Cockburn wrote about the contrast between the administration’s initial claims that bin Laden was the ‘spider at the centre of a conspiratorial web’ and what the translations actually showed: that bin Laden was ‘delusional’ and had ‘limited contact with the outside world outside his compound’.
The retired official disputed the authenticity of the West Point materials: ‘There is no linkage between these documents and the counterterrorism centre at the agency. No intelligence community analysis. When was the last time the CIA: 1) announced it had a significant intelligence find; 2) revealed the source; 3) described the method for processing the materials; 4) revealed the time-line for production; 5) described by whom and where the analysis was taking place, and 6) published the sensitive results before the information had been acted on? No agency professional would support this fairy tale.’
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In June 2011, it was reported in the New York Times, the Washington Post and all over the Pakistani press that Amir Aziz had been held for questioning in Pakistan; he was, it was said, a CIA informant who had been spying on the comings and goings at the bin Laden compound. Aziz was released, but the retired official said that US intelligence was unable to learn who leaked the highly classified information about his involvement with the mission. Officials in Washington decided they ‘could not take a chance that Aziz’s role in obtaining bin Laden’s DNA also would become known’. A sacrificial lamb was needed, and the one chosen was Shakil Afridi, a 48-year-old Pakistani doctor and sometime CIA asset, who had been arrested by the Pakistanis in late May and accused of assisting the agency. ‘We went to the Pakistanis and said go after Afridi,’ the retired official said. ‘We had to cover the whole issue of how we got the DNA.’ It was soon reported that the CIA had organised a fake vaccination programme in Abbottabad with Afridi’s help in a failed attempt to obtain bin Laden’s DNA. Afridi’s legitimate medical operation was run independently of local health authorities, was well financed and offered free vaccinations against hepatitis B. Posters advertising the programme were displayed throughout the area. Afridi was later accused of treason and sentenced to 33 years in prison because of his ties to an extremist. News of the CIA-sponsored programme created widespread anger in Pakistan, and led to the cancellation of other international vaccination programmes that were now seen as cover for American spying.
The retired official said that Afridi had been recruited long before the bin Laden mission as part of a separate intelligence effort to get information about suspected terrorists in Abbottabad and the surrounding area. ‘The plan was to use vaccinations as a way to get the blood of terrorism suspects in the villages.’ Afridi made no attempt to obtain DNA from the residents of the bin Laden compound. The report that he did so was a hurriedly put together ‘CIA cover story creating “facts”’ in a clumsy attempt to protect Aziz and his real mission. ‘Now we have the consequences,’ the retired official said. ‘A great humanitarian project to do something meaningful for the peasants has been compromised as a cynical hoax.’ Afridi’s conviction was overturned, but he remains in prison on a murder charge.
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In his address announcing the raid, Obama said that after killing bin Laden the Seals ‘took custody of his body’. The statement created a problem. In the initial plan it was to be announced a week or so after the fact that bin Laden was killed in a drone strike somewhere in the mountains on the Pakistan/Afghanistan border and that his remains had been identified by DNA testing. But with Obama’s announcement of his killing by the Seals everyone now expected a body to be produced. Instead, reporters were told that bin Laden’s body had been flown by the Seals to an American military airfield in Jalalabad, Afghanistan, and then straight to the USS Carl Vinson, a supercarrier on routine patrol in the North Arabian Sea. Bin Laden had then been buried at sea, just hours after his death. The press corps’s only sceptical moments at John Brennan’s briefing on 2 May were to do with the burial. The questions were short, to the point, and rarely answered. ‘When was the decision made that he would be buried at sea if killed?’ ‘Was this part of the plan all along?’ ‘Can you just tell us why that was a good idea?’ ‘John, did you consult a Muslim expert on that?’ ‘Is there a visual recording of this burial?’ When this last question was asked, Jay Carney, Obama’s press secretary, came to Brennan’s rescue: ‘We’ve got to give other people a chance here.’
‘We thought the best way to ensure that his body was given an appropriate Islamic burial,’ Brennan said, ‘was to take those actions that would allow us to do that burial at sea.’ He said ‘appropriate specialists and experts’ were consulted, and that the US military was fully capable of carrying out the burial ‘consistent with Islamic law’. Brennan didn’t mention that Muslim law calls for the burial service to be conducted in the presence of an imam, and there was no suggestion that one happened to be on board the Carl Vinson.
In a reconstruction of the bin Laden operation for Vanity Fair, Mark Bowden, who spoke to many senior administration officials, wrote that bin Laden’s body was cleaned and photographed at Jalalabad. Further procedures necessary for a Muslim burial were performed on the carrier, he wrote, ‘with bin Laden’s body being washed again and wrapped in a white shroud. A navy photographer recorded the burial in full sunlight, Monday morning, May 2.’ Bowden described the photos:
One frame shows the body wrapped in a weighted shroud. The next shows it lying diagonally on a chute, feet overboard. In the next frame the body is hitting the water. In the next it is visible just below the surface, ripples spreading outward. In the last frame there are only circular ripples on the surface. The mortal remains of Osama bin Laden were gone for good.
Bowden was careful not to claim that he had actually seen the photographs he described, and he recently told me he hadn’t seen them: ‘I’m always disappointed when I can’t look at something myself, but I spoke with someone I trusted who said he had seen them himself and described them in detail.’ Bowden’s statement adds to the questions about the alleged burial at sea, which has provoked a flood of Freedom of Information Act requests, most of which produced no information. One of them sought access to the photographs. The Pentagon responded that a search of all available records had found no evidence that any photographs had been taken of the burial. Requests on other issues related to the raid were equally unproductive. The reason for the lack of response became clear after the Pentagon held an inquiry into allegations that the Obama administration had provided access to classified materials to the makers of the film Zero Dark Thirty. The Pentagon report, which was put online in June 2013, noted that Admiral McRaven had ordered the files on the raid to be deleted from all military computers and moved to the CIA, where they would be shielded from FOIA requests by the agency’s ‘operational exemption’.
McRaven’s action meant that outsiders could not get access to the Carl Vinson’s unclassified logs. Logs are sacrosanct in the navy, and separate ones are kept for air operations, the deck, the engineering department, the medical office, and for command information and control. They show the sequence of events day by day aboard the ship; if there has been a burial at sea aboard the Carl Vinson, it would have been recorded.
There wasn’t any gossip about a burial among the Carl Vinson’s sailors. The carrier concluded its six-month deployment in June 2011. When the ship docked at its home base in Coronado, California, Rear Admiral Samuel Perez, commander of the Carl Vinson carrier strike group, told reporters that the crew had been ordered not to talk about the burial. Captain Bruce Lindsey, skipper of the Carl Vinson, told reporters he was unable to discuss it. Cameron Short, one of the crew of the Carl Vinson, told the Commercial-News of Danville, Illinois, that the crew had not been told anything about the burial. ‘All he knows is what he’s seen on the news,’ the newspaper reported.
The Pentagon did release a series of emails to the Associated Press. In one of them, Rear Admiral Charles Gaouette reported that the service followed ‘traditional procedures for Islamic burial’, and said none of the sailors on board had been permitted to observe the proceedings. But there was no indication of who washed and wrapped the body, or of which Arabic speaker conducted the service.
Within weeks of the raid, I had been told by two longtime consultants to Special Operations Command, who have access to current intelligence, that the funeral aboard the Carl Vinson didn’t take place. One consultant told me that bin Laden’s remains were photographed and identified after being flown back to Afghanistan. The consultant added: ‘At that point, the CIA took control of the body. The cover story was that it had been flown to the Carl Vinson.’ The second consultant agreed that there had been ‘no burial at sea’. He added that ‘the killing of bin Laden was political theatre designed to burnish Obama’s military credentials … The Seals should have expected the political grandstanding. It’s irresistible to a politician. Bin Laden became a working asset.’ Early this year, speaking again to the second consultant, I returned to the burial at sea. The consultant laughed and said: ‘You mean, he didn’t make it to the water?’
The retired official said there had been another complication: some members of the Seal team had bragged to colleagues and others that they had torn bin Laden’s body to pieces with rifle fire. The remains, including his head, which had only a few bullet holes in it, were thrown into a body bag and, during the helicopter flight back to Jalalabad, some body parts were tossed out over the Hindu Kush mountains – or so the Seals claimed. At the time, the retired official said, the Seals did not think their mission would be made public by Obama within a few hours: ‘If the president had gone ahead with the cover story, there would have been no need to have a funeral within hours of the killing. Once the cover story was blown, and the death was made public, the White House had a serious “Where’s the body?” problem. The world knew US forces had killed bin Laden in Abbottabad. Panic city. What to do? We need a “functional body” because we have to be able to say we identified bin Laden via a DNA analysis. It would be navy officers who came up with the “burial at sea” idea. Perfect. No body. Honourable burial following sharia law. Burial is made public in great detail, but Freedom of Information documents confirming the burial are denied for reasons of “national security”. It’s the classic unravelling of a poorly constructed cover story – it solves an immediate problem but, given the slightest inspection, there is no back-up support. There never was a plan, initially, to take the body to sea, and no burial of bin Laden at sea took place.’ The retired official said that if the Seals’ first accounts are to be believed, there wouldn’t have been much left of bin Laden to put into the sea in any case.
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It was inevitable that the Obama administration’s lies, misstatements and betrayals would create a backlash. ‘We’ve had a four-year lapse in co-operation,’ the retired official said. ‘It’s taken that long for the Pakistanis to trust us again in the military-to-military counterterrorism relationship – while terrorism was rising all over the world … They felt Obama sold them down the river. They’re just now coming back because the threat from Isis, which is now showing up there, is a lot greater and the bin Laden event is far enough away to enable someone like General Durrani to come out and talk about it.’ Generals Pasha and Kayani have retired and both are reported to be under investigation for corruption during their time in office.
The Senate Intelligence Committee’s long-delayed report on CIA torture, released last December, documented repeated instances of official lying, and suggested that the CIA’s knowledge of bin Laden’s courier was sketchy at best and predated its use of waterboarding and other forms of torture. The report led to international headlines about brutality and waterboarding, along with gruesome details about rectal feeding tubes, ice baths and threats to rape or murder family members of detainees who were believed to be withholding information. Despite the bad publicity, the report was a victory for the CIA. Its major finding – that the use of torture didn’t lead to discovering the truth – had already been the subject of public debate for more than a decade. Another key finding – that the torture conducted was more brutal than Congress had been told – was risible, given the extent of public reporting and published exposés by former interrogators and retired CIA officers. The report depicted tortures that were obviously contrary to international law as violations of rules or ‘inappropriate activities’ or, in some cases, ‘management failures’. Whether the actions described constitute war crimes was not discussed, and the report did not suggest that any of the CIA interrogators or their superiors should be investigated for criminal activity. The agency faced no meaningful consequences as a result of the report.
The retired official told me that the CIA leadership had become experts in derailing serious threats from Congress: ‘They create something that is horrible but not that bad. Give them something that sounds terrible. “Oh my God, we were shoving food up a prisoner’s ass!” Meanwhile, they’re not telling the committee about murders, other war crimes, and secret prisons like we still have in Diego Garcia. The goal also was to stall it as long as possible, which they did.’
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The main theme of the committee’s 499-page executive summary is that the CIA lied systematically about the effectiveness of its torture programme in gaining intelligence that would stop future terrorist attacks in the US. The lies included some vital details about the uncovering of an al-Qaida operative called Abu Ahmed al-Kuwaiti, who was said to be the key al-Qaida courier, and the subsequent tracking of him to Abbottabad in early 2011. The agency’s alleged intelligence, patience and skill in finding al-Kuwaiti became legend after it was dramatised in Zero Dark Thirty.
The Senate report repeatedly raised questions about the quality and reliability of the CIA’s intelligence about al-Kuwaiti. In 2005 an internal CIA report on the hunt for bin Laden noted that ‘detainees provide few actionable leads, and we have to consider the possibility that they are creating fictitious characters to distract us or to absolve themselves of direct knowledge about bin Ladin [sic].’ A CIA cable a year later stated that ‘we have had no success in eliciting actionable intelligence on bin Laden’s location from any detainees.’ The report also highlighted several instances of CIA officers, including Panetta, making false statements to Congress and the public about the value of ‘enhanced interrogation techniques’ in the search for bin Laden’s couriers.
Obama today is not facing re-election as he was in the spring of 2011. His principled stand on behalf of the proposed nuclear agreement with Iran says much, as does his decision to operate without the support of the conservative Republicans in Congress. High-level lying nevertheless remains the modus operandi of US policy, along with secret prisons, drone attacks, Special Forces night raids, bypassing the chain of command, and cutting out those who might say no.
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Letters
Vol. 37 No. 11 · 4 June 2015
The allegations in Seymour M. Hersh’s article about the killing of bin Laden have received official denials and journalistic gasps similar to those that greeted his 1974 reporting on the CIA’s MH-CHAOS domestic spying programme and the revelations in his 1983 book The Price of Power about Henry Kissinger’s masterminding of the carpet-bombing of Cambodia and hiding it from the US Congress (LRB, 21 May). I suppose that’s no surprise. I’m curious to see whether the embarrassing admissions that followed and confirmed those stories arrive too. In the meantime the CIA has put out a variety of documents including a list of the books on bin Laden’s shelves. It turns out he preferred Bob Woodward to Seymour Hersh.
Colin Leonard
London NW2
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